小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

<使わないと損をしますよ!>という考え方:

 

<使わないと損をしますよ!>という考え方:

 

コロナ禍の中で、最近、気になる傾向として、Gotoキャンペーンなどでみられるところの<ある種のインセンティブ>を、<使わないと損をしますよ>式の、<余計なお世話だよ>ともおもえるような一種の心理的な圧力が、少々、気になりますね。 観光業や飲食業への支援促進という目的は分からなくもないが、だからといって、コロナの感染リスクの拡大にも、繋がりかねない、人の弱みにつけ込んだような、<使わないあなたは、損をしていますよ!>式的な甘い誘い声は、どうしたものであろうか?マイナポイントの+5千円相当のインセンティブや、更なる+7千円相当のキャッシュレス・ポイントの付与とか、別に、使わなければ使わないで、損をするわけではないのに、要するに、<利用すれば確実に+αのメリットがあります>ということであれば、やはり、心貧しい卑しい自分などは、<活用しない手はないか!>とばかりに、すぐさま、ITデジタル化の波に乗って、登録参加してみるかと、お誘いに、乗ってしまいますが、、、、、。その心は、果たして、正しいものなのでしょうか?

何でもかんでも、そんなに、実利主義で、毎日を、セコく、生きてゆかなければ、或いは、情報をネットで収集して、時流に乗って、<使わないと損をするするのではないか?>というある種の強迫観念に陥りつつ、生活しなければ生きてはゆけないのでしょうか?何でもかんでも、損得計算を日常生活の一瞬一瞬にそれ程、影響しているのでしょうか?自分は、若いときから、否応なしに、デジタル化の波に乗ることで、生業としての仕事もそうせざるを得なかった訳ですが、税制改正で、青色申告の特別控除額や基礎控除額の見直しが、電子申請や電子データ書類の保存と関連つけられて、明らかに、損得勘定の延長線上で、選択を迫られてくると、成る程、話は別ですが、<つかわないと損をしますよ!>という悪魔のようなささやきは、本当にそうなのでしょうか?それは、確かに、使う側も得をし、更には、そのサービスを受ける側も、又、恩恵を被る、そういう相互に、Win-Winの関係でもあるのでしょうか?使って初めて、徳を得るわけであって、使わなければ、使わないで、<損をする訳では決してないのに>、<使わないと損をする錯覚>に陥るのではなかろうか?微妙な強迫観念と、心卑しい根性のわたしのような人間は、そんなトラップに、引っかかってしまうことになるのではないでしょうか?何とも複雑な気分に陥ります。心の持ちようは、どのように保てば宜しいのでありましょうか?昔、<清貧の心を以て暮らす>という時代がありましたが、どこへ行ってしまったのでしょうか?

三浦春馬の自死と嘱託殺人に思う:

三浦春馬自死と嘱託殺人に思う:

 別に、この歳にでもなれば、イケメン俳優の追っかけでも、芸能週刊誌キャンダル好きでもあるまいし、ただ、何かの折りに、NHKの番組だったか定かでないが、ミュージカルの舞台に挑戦する若手舞台俳優を、その役作りの裏側を特集するような形で、取り上げていたのをたまたま、観ただけのことである。多少は、ミュージカル俳優であるくらいは、知ってはいたものの、子役時代から地道に着実に、様々な映画や舞台も含めて、キャリアを積みながら、着実に成功の会談を上りつつあるという時期での事である。従って、その舞台の役作りとして、女装をして、しかも、実生活の中で、舞台と同じ10cmもある高さの女性用ハイヒールを履きながら、生活し、どういう気持ちであるかを実感するために、彼は、そういう眼に見えない訓練を積んでいたそうである。又、音楽・ミュージカルだから、ギターや歌唱能力の向上も、仕事とは言え、基礎から学んでいたそうで、その延長線上での海外での活躍を目指す上での英会話も見事にこなしていたと言われている。

 そんな成功を掴みつつある前途洋々とするイケメンで、様々な才能に恵まれた、他人から観れば、順風満帆に観られていた30歳になる若者が、18歳くらいのティーンネージャーとは違って分別ある三十路の若者が、何故、自死を選ばなければならなかったのか?子役時代からマネージメントしてきた事務所の側も、晴天の霹靂だったと、コメントを発しているくらいの衝撃である。 昔、ある人から、<自分よりも歳が若い部下で、実際に、自分よりも優れた才能を有すると者とであったときに、どのように育てるのか、或いは、独立をしたいと言われたときに、経営者としては、どうするのかを、いつも、考えていなければいけない>と言われたことを、何故か、ふと、想い出す。

 だんだんと、歳を重ねてくると、自分よりも若い人達で、才能のある、前途有望な若者が、謂われもない理由で自死を選ぶという事実をみることは、誠に・、心折れる思いがする。我が子をネグレクトしたり、育児放棄したり、児童虐待したりではなくて、多彩な才能に恵まれて、成功と名声を手にしつつある、恵まれた境遇にもかかわらず、(尤も、それはないのかも知れのかも知れないが、、、、、その理由は、永遠に、たとえ、遺書を読んでもわからないのかもしれないが、、、、、)、自死に至るプロセスは、何とも不可思議である。それ以上に、もっと売れない歌手や芸人や大部屋俳優や俳優志望の若者が世の中には、一杯いるのに、、、、、、、。何故?

 時代劇俳優になるための役作りのために、EXILEのあるメンバーは、舞台公演の時にも、木刀を持って歩き、極力、笑わないように努力するとか、立ち居振る舞いも、ダンスとは異なる動きを日常生活の中で、自己規律をいていると言われているが、そういう姿勢は、まるで、宮本武蔵の究極を貫き目指す哲学のようで、日本人好みの、鏡とするような哲学なのだろうか?それにしても、その最後の瞬間に、踏みとどまらずに、突き進んでしまったその瞬間は、どこが、紙一重なのでしょうか?

一方、ALSに苦しむ患者からSNSで知り合った上に、おカネを受託した上で、薬物を投与して、嘱託殺人にとわれた医師が逮捕されたと報道されているが、安楽死以前のモラルの問題で、こちらも、ALSに苦しむ患者の気持ちは、どれほどの人間が、その患者に対する処遇への問題や、患者の立場をどれほど、ALS患者の尊厳を理解出来るのであろうか?私たちは、映画や文学や歴史を通じて、或いは、絵画や音楽を通じて、一定の想像力と疑似体験を通じて、理解は出来るものの、病気の苦しみや死への誘惑や身体が自分の意思通りに動かせないことへのもどかしさや悔しさは、当人でなければ、理解出来ないものなのあろうか?

7年前に、自分も、歩行能力への突然の違和感の自覚から、ALSを疑ってみたことがあるが、それも、せいぜいが、物理学者のホーキンス教授の病気程度の知識からで、結局、脊柱管狭窄症という診断結果で、令和しんせんぐみの参議院議員誕生をきっかけに、調べ直す程度のことだったかも知れない。それでも、ほったらかしに、何もしなければ車椅子は必至という診断結果から、三ヶ月に亘るウェイティング・リストの末に、5時間に亘る全身麻酔の高度医療を受けて、何とか、今日まで、7年後も日常生活と自立歩行を維持しているが、なかなか、患者本人にしか、分からないものがあるのは事実かも知れない。どんなに、想像力を駆使しても、そこにある壁を乗り越えることは、難しいのではないだろうか? もちろん、安楽死ガイドライン尊厳死の権利という問題以前のことであり、全く論外のことであろうが、、、、。17歳にして、棋聖のタイトルを獲得した藤井聡太という若い天才は、今後長い人生をどのように生きてゆくのかも、とても、興味深いところである。若くして成功を手にした者は、天才ボクサーや若いアイドルと棋士とでは、比較にならないかも知れないが、どのような心境なのであろうか?

それにしても、歳を重ねるに従い、若い前途ある成功を手にしつつある若者が自死を最終的に選ばざるを得なかったことをみるのは、何とも、耐えがたいことであり、又、難病を患いながら、他人に、自らの命を絶つことを懇願しなければ、自分の尊厳を確保・守ることできないというこの社会の現実を、改めて、コロナ禍の下で、曝されると言うことは、誠に残念な事である。長雨に濡れて、花弁がその重さで頭を垂れてしまった擬宝珠の花に支柱を立ててあげることにしようかな、、、、。まだまだ、この雨は止みそうにないようである。晴れ間はいつみられるのであろうか?そして、いつ答えが見いだすことが出来るのであろうか?

古関裕而と作曲

古関裕而と作曲

NHKの朝ドラは、それ程、興味もなく、又、その題材によって、これまでも、連続して、観たり観なかったりするが、別に、主演女優や主演男優や脇役陣や、注目の売り出し中の若手俳優にも、それ程、興味が湧く歳でもないものである。新型コロナ禍の中、家籠もりの中で、たまたま、作曲家としてコロンビア・レコード特約契約したにもかかわらず、一曲もヒット曲も、レコーディングも出来ずに、その才能に苦悩し、自分を推薦してくれた山田耕筰に出向くシーンが、目にとまり、というよりも、新型コロナで急逝した志村けん山田耕筰を演じていたからなのかも知れないが、その後、何故、生涯を通じて、5000曲以上の作曲を手がけた偉大な作曲家として名声を得るに至ったのかを、何故か、知りたくなり、観ることになった。

1909年、福島県出身で、後に、作詞家としての野村俊夫、歌手の佐藤久男(四三男)とともに、福島のコロンビア三羽がらすと謳われることになる。それにしても、作曲のジャンルが、広範で、歌謡曲戦時歌謡曲(軍歌と総称されるのであろうか)、映画音楽、ラジオ主題歌、ミュージカル、スポーツ行進曲、マーチ行進曲、社歌、校歌、地域都市の歌、県民歌、等、とりわけ、私が、興味を抱くのは、生まれた時代が悪かったのか、どうか分からぬが、西条八十らと共に、戦線慰問と共に、国策である軍歌によるプロパガンダに組み入れられるという時期と作曲創作時期が不幸にも一致してしまったということだろうか?その歌詞の言霊を作曲するメロディーに乗せて、あるときは、鼓舞し、あるときは、反戦の思いを隠し、暁に祈るや若鷲の歌(予科練の歌)や所謂、数々の戦時歌謡曲と称する所謂、軍歌には、複雑な思いが反映されていて、これにより、戦場に送られて戦死した数多くの人々に思いをはせるときに、忸怩たる思いを抱きながら、やがて、それは、戦後の長崎の鐘(サトー・ハチロー作詞)という形で、鎮魂歌として、結実してゆくことになる。それは又、イヨマンテ(佐藤久男による歌唱)や怪獣映画、モスラの中で、ザ・ピーナッツが、インドネシア語で歌ったモスラの歌の中にも、平和記念とアジア民族への井鎮魂が含まれているのかも知れない。そんなことをしない私たち子供達は、映画の中で、モスラよ、モスラ、、、、、、、訳も分からず、お題目のように、呪文のように唱えて真似したものである。今や早稲田の第一応援歌となった、紺碧の空、慶応の我ぞ覇者、そして、高校野球栄冠は君に輝く、恐らく、古関は高等学校野球大会や六大学野球だけでなく、戦時下の神宮外苑での学徒出陣式にも、複雑な思いを抱いたことであろう、さもなくば、戦時下の検閲の厳しい中で或いは数多くの制約と政治的な圧力の中であれ程の軍歌を、今日に至るも歌い継がれているような数々の軍歌を作れなかったのではないかと思われる。未だ、JRが、省線という茶色の電車だった頃、私の子供時代には、傷病傷痍軍人が駅頭や社内で、松葉杖とアコーディオンで、白い軍帽と軍服を着て、旨の前には、賽銭箱ならぬ募金箱を掛けて、ジッと座っていたり、或いは、車両を廻って募金を迫ってくる記憶が頭の底に残っている。とりわけ、耳の底には、暁に祈るや若鷲の歌などが、どういうわけか、そのメロディー・ラインが、駆け回る。戦後のマーチや行進曲、六甲おろし巨人軍の歌とか、スポーツを古関はやらなったせいなのかは、知らぬが、スポーツショー的なメロディーは、子供時代に、とりわけ稲尾全盛の三原西鉄黄金時代の日本シリーズのテレビ中継に際しては、胸躍らせながら、テレビの前で、今か今かと待っていたことを想い出す。それらの作曲を手がけたのが、後に、欣ちゃんの家族揃って歌合戦で、ニコニコしながら審査員席に座っていた人だとは、、、、、、、後に知ることになる。舞台でも、菊田一夫と共に、演劇音楽でもタッグを組んだことは、記憶に新しいが、それにしても、島倉千代子の東京だよおっかさん(野村俊夫作詞)などのメロディーは、どういう訳か、耳の奥底に、残っていて、闇市の混雑と一種の臭いと共に、記憶の片隅にメロディーラインが蘇ってくるものである。トンガリ帽子の赤い屋根というラジオ放送の主題曲も、或いは、高原列車はゆくや、君の名は、のメロディーや有名なナレーションは、恐らく、亡き母の世代が夢中になって聞いていた時代のことだが、未だ幼児期の私たちにも、知らぬ間に、記憶の片隅に焼き付いているようである。早慶戦での肩組み合って、謳った応援歌も、今年は、新型コロナで、新入生達は味わえないし、栄冠は君に輝くも、難しそうである。

シンガーソングライターは、自分の好きな歌だけを作詞・作曲し、謳うだけなのであろうか?それは謂わば、自分の世界観だけを貫くだけで、生活のために作るという謂わば、時勢に媚ながら、媚びなくても、多少曲げたり、妥協したりしないと生きてゆけないのであろうか?或いは、そうこうしている間に、才能が枯渇してしまうのであろうか?一曲でもヒットさせることが大変な世界で、50年も或いは、5000曲も、数多くのメガヒットを飛ばせるコツとは何なのであろうか?

New Normal とSecond Third Job:

New Normal とSecond Third Job:

 

緊急事態宣言の解除後も、第二波・第三波への警戒が続く中で、本格的な<Post New Corona>時代への対応予想が、とりわけ、<New Normal> 新たな<新常態>へのライフスタイルについての議論が始まりつつある。私のような老人達にとっては、老い先もう短いのであるから、それ程、大きく影響されるものではないものの、大変興味深く思われ、若い人達とのオンライン飲み会の席でも、自分なりの元50年前の若者と現在の若者達との比較において、論じることも、意義がありそうであるので、少々、考察してみたいと思います。

私の同世代が、若い頃には、就業規則そのもの事態に、<アルバイト兼業禁止>という項目が、厳然として存在していたし、直接、直属の上司からも、注意喚起を促されたことを今でも思い起こす。尤も、今や、就労のミスマッチもあり、或いは、就業労働人口の減少によるアルバイトの禁止の廃止を余儀なくされているのが、<時代の趨勢>ではなかろうか?!

 如何に、<一極集中>することへの反省は、謂わば、<集中と選択>から、<分散・多様化>へと移ろいゆく中で、自分の稼ぎも、今や、不労所得ではないものの、main job から、second, third job へと準備万端整えておかないと、人生そのものが、リスクに曝されかねない時代なのかも知れない。それは、これまでの感染症による影響以上に、根本的な働き方改革どころではなくて、<生活様式への革命>、<生き方の大変革>なのかもしれない。いやはや、知らないうちに、<そんな大変な時代の入り口>にきているのかも知れない。もはや、好むと好まざるを得ずに、否応なしに、どうしたら良いのかを考えざるを得ない時なのかも知れない。海外貿易の仕事上、これまでは、否応なしに、通信費の削減を、インタネット回線を使用することで、当時から、一種のテレワークを実戦しなければ生き残れない時代だっただけでなく、その時から、<働き方事態への考察>を余儀なくされてきたわけでもある。

成る程、そう考えれば、都市型過密による経済成長モデルから、相変わらず、<過密な痛勤電車>が当たり前だったと思っていた若い時代から、<social distance>を意識しながらの生活様式への変容は、まさに、<New Normal>への在り方を考察しつつ、どのように、生活を、生業を、稼ぎをリスクを排除しつつ、担保するかということを真剣に考えなければならないのかもしれない。これまで、製造業などは、テレワークに不向きであると謂われてきたにもかかわらず、日立やリコーなどは、積極的に、全社を挙げて、継続する方針を示唆しているし、都心中心部の高層ビルに事務所を構えるIT企業などは、寧ろオフィス契約を不動産会社に契約解消を申し入れるなど、不動産への風当たりも、日本だけではなくて、シリコンバレーなどのこれまで、家賃の急上昇に悩まされてきたIT企業群にも見直しの機運がみられ始めてきたことは、大変興味深いものがあろう。それは、恐らく、遅かれ早かれ、時間差はあるであろうが、広く他業種、企業の大小を問わず、人件費の削減、家賃の削減、交通費・定期券の返納とか、間違いなしに、拡がってこざるを得ないし、それに乗り遅れることは、企業の生き残りに直接関わってくる、まさに<Survival of the Fittest> であろう。

最近のテレビの製作手法をみていても感じられることは、オンライン画像も、徐々に違和感が、抵抗感が薄れてきて、結局、<やれば出来るじゃん!>ということに、<新常態化>してくれば、今まで、高いコストを掛けて、蜜を造り、顔色を見なければ所詮ダメなんだよねというスタイルが、見直され始めることになりかねない。それならば、今までやらなかったのは、何なのさということにもなりかねないし、一度、そうなれば、そう簡単には、資本の論理では、元に戻ることもないだろうし、ましてや、同じ常態には戻ることはあり得ないでしょうね!往復各1時間を掛けていた通勤時間も、24時間の内の2時間/24時間 X 365日 X人生年齢で計算すれば、膨大な時間の無駄をしていたことにも気づき、新しい隙間仕事が、second job として、或いは、人によっては、起床したら、化粧もすることなく、寝間着のママで、一仕事ならぬ、二仕事・三仕事も、スマホで瞬時にして、おカネを稼ぐ時代が来ることも夢物語ではなくなるかも知れません。ヒョッとしたら、室内バイクをこぎながら、スマホで、チョチョイと1-2分程度操作するだけで、おカネが稼げる時代がくるやも知れませんね。そういう夢物語が、夢想ではなくて、現実化するチャンスが到来することでしょう。大変な時代かも知れないが、考えようによっては、とても、面白い時代かも知れません。時代が変わる節目というものは、意外とそういうものかも知れません。その真っ只中にいるときは、分からないが、後から時計を逆回しにすると、あぁ、あの時がそうだったのかと思うものでしょうかね。とりわけ、戦争がなくなると、<感染症という一種の戦時下という概念>が、なかなか、実感できないからかも知れないので、、、、、尚、一層そう感じられるのかも知れません もう、<昔の名前で出ています>という時代ではなくて、<新しい源氏名でオンラインでお目にかかりましょう!>という時代かも知れません。何か、どんどん、時代の方が、自分よりも先へ先へ、遠くへ行ってしまい、取り残されないようにするか、それとも、周回遅れの、取り残されても良いような働き方、生き方を探し出さないと生き残れない時代なのかも知れません。

オンライン申請とITディバイド:

オンライン申請とITディバイド:

存命していたら101歳になる亡き父は、70歳頃にアルファベットも分からぬのに、NECの98シリーズを勉強して、ワープロから、PCへと未だ、板状の記録媒体が当たり前の時代に、一生懸命に、勉強をしていたものである。私は、その点、生業が海外貿易だったこともあり、社会に出てから、テレックスから、FAX,ワープロ、携帯電話から、LAP TOP PC,スマートホーンへと次から次へと息つく暇もないくらいに、技術革新に乗り遅れることなく、IT武器を使いこなすことになる。とりわけ、海外通信費が高額であったこともあり、如何にして、海外との通信コストを下げられるかということが、死活問題であった。だからこそ、メールに移行するときも、或いは、複数の国とのネット電話会議も、テレビ会議も、全く問題なく、テレワークが喧伝される前から、自分の中では、全く問題なくこなし、尤も、そうしなければ、世界標準からは、取り残され、死滅化せざるを得なかった究極の選択であったのかもしれない。

 今回の新型コロナ禍の中で、オンライン会議も、ファイル共有システムも、一種の働き方改革も含めて、<変わらなければ、生き残れず>、しかも、<新しい生活業態>に移らない限り、皮肉にも元の日常生活には戻れない訳である。さすれば、もうこれは、廃刀令やちょんまげの禁止のようなもので、もはや、好きか嫌いとかという問題ではなくて、変わらなければ、死滅する以外に選択の余地がないのかも知れない。今や、残された道は限られてしまっているのである。

 給付金の申請手続きにしても、書類で申請するよりも、オンラインを薦めている以上、過去のマイナンバー登録は、住民基本台帳の問題はさておき、アナログではなくて、システムとデジタルを駆使すれば、明らかに、スピード感を持って処理できるはずである。にもかかわらず、マイナンバー・カードを登録していても、マイナポータルのアプリをスマホにダウンロードして、そこにアクセスして、昔登録したパスワードを使用して、申請手続を行わないと、最終的には、申請が完了しない。おまけに、e-Taxで、既にマイカードを利用していても、連携も、銀行口座名・番号とは、連携されていません。更に、フリーランス個人事業主への持続化給付金の支援申請に至っては、本来、e-tax申告していれば、当然データが、税務署に行っているはずにもかかわらず、ファイルでJPGやPDFファイルを貼り付けなければ申請手続が、完了せず、もちろん、自分でそういうパソコンの操作に手慣れていなければ、全く、零細個人事業主には、或いは、キーボードに触ったことがない人間には、全く、出来ないことであろうことは、やってみて初めて納得できるものである。

 

アベノ・マスクが届いて思った!

アベノ・マスクが届いて思った!

 

昔、文化大革命の最中に、修正主義者と三角帽子を被らされて自己批判したにも関わらず、それ以後、不倒翁として、復活し、改革開放を推進した鄧小平がいみじくも、<鼠を捕獲する猫は、その毛色に関わらず、黒い猫でも鼠を捕獲する限りは、白い猫と同じだ!>と、宣ったものだが、<アベノ・マスクと揶揄されるこのマスク>も又、布製マスクにその機能性においては、一向に変わりはなく、アベが嫌いだからと言って、私の友人みたいに、<アベノマスクなんぞ、つける気がしないから、誰か欲しい人がいればくれてやる!>と、子供じみた言い訳をして、赤子の如くごねる頑固な年寄りも身近にいる。私は、元来、アレルギー性鼻炎に悩まされ、冬場から春先に掛けては、必ずマスクの備蓄をしているから、不要ではあるものの、折角、血税をはたいてまでも、緊急に、海外から輸入したマスクだから、私は、鄧小平ではないが、<マスクに、イデオロギーの区別はない>と言うことで、喜んで、使わせてもらうことにすると、初めから決め込んでいる。尤も、一部の妊婦用マスクには、虫や毛髪の異物混入が散見されていて、未配布のロットは、全て、配布中止となり、再検品実施とか、何とも、その対費用効果の検証も含めて、お粗末極まりない対応である。果たして、政府の概算予算通りに実際、カネがいくらで、どこに流れているのか、3社以外に、もう一社は公表されていないと謂われているが、、、、、どうしたものなのであろうか?この緊急時に、重箱の隅をつつくようなそんな議論は、御法度だとばかり、あげつらう人もいるが、、、、、。

 それにしても、今回の新型コロナ・ウィルス禍は、<情報の更新と訂正アップデート不足>でありましょう。そもそも、習金平による情報のコントロールで、彼への忖度も含めて、例えば、<若者は軽症である>、<致死率もそれ程高くない>、<接触より飛沫感染中心で>、<無症状患者は感染者の数字に入れない>、<高熱3日間、咳症状>等など、現状では、結局、港や空港での水際阻止対策失敗から、初期のクラスター追跡潰しへ、そして、一挙に、無症状・無自覚者による、エアロゾル飛沫感染、或いは、接触感染、3密による重なり合う重複条件だけではなくて、今や、一密でも、ジョギングですら後続ランナーやウォーキングには、屋外でも感染する恐れありとか、、、、一体、<状況・事態の推移に応じた情報の修正・アップデート不足>により、感染症対策を自認する高名な専門家と称する先生方ですら、混乱している。尤も、そういうウィルスであることが徐々に分かってきたのかも知れないが、、、、。考えてみれば、国情・国民性・金融財政状況、都市の人口規模や交通網の整備によって、中国モデル・台湾モデル・韓国モデルなど、況んや、北海道モデル、和歌山モデルとか、神奈川モデルとか、個別地域事情に応じて、或いは、感染の進捗状況に応じて、ビジネス・モデルではないが、当然、対策の採用モデルも、異なってくるものであろう。むろん、院内感染による医療崩壊とか、専門病床の確保とか、何故、あれ程、SARS新型インフルの蔓延の時にでも、PCR検査の体制整備とか、整えられてこなかったのであろうか? 

 海外出張のコネクティング・ルーム・スキャンダルで肝心の大本営が、感染症対策予算の削減を目論んでいたり、全く、<旧帝国・日本軍の失敗の本質>を、70有余年経った今日でも、ガダルカナル方式の小出しのチマチマした、逐時投入方式で、お茶を濁すやり方は、今日でも、変わっていない。しかも、国会議員は、歳費の2割返納だとか、全くまやかしばかりのその他付帯経費はそのまま戴いておいて、お茶を濁す一方で、当初決定されていた30万給付が、公明党創価学会中心の)連立離脱という恫喝に屈して、一挙に一律10万円という方式で、落としどころを見つけたようである。一体、この支給時期も、いつになるのであろうか?家賃や人件費・リース代などの固定費の支払いが、月末に迫り来る中で、フリーランスも含めて、或いは、非正規雇用労働者や飲食業・旅館業・観光バス等も含めて、<何の為の住民基本台帳マイナンバーの登録やe-Tax申告推奨>だったのであろうか?

 休業補償とセットでない、外出自粛要請は、一部の品格のない薬物中毒まがいのパチンコ・麻雀やキャバクラ・性風俗店による勧告を無視した営業の継続などは、<単に倫理的な理由ではなくして、法的な網のかけ方の欠陥によるところの盲点>で、謂わば、<補償対象外の企業だからだった>そうである。もし仮にそういう理由が事実であれば、ソリャァ、必死こいて、営業継続する訳である。何故、マスコミは、そういう具体的な事実を公表しなかったのであろうか?評論家の桜井氏ですら、知らなかったとテレビのオンエアーで、公言していたが、、、、、、。又、実態は、国家的な賭博業であり、ある種<賭け依存症中毒症>や超法規的な景品現金化換金とか、こういう時期になって改めて、グレイ・ゾーンを考え直すべきではないでしょうか?何故、街の小さな銭湯が三密になるかと謂えば、スーパー銭湯は営業自粛の対象となるが、小さな銭湯は、線引き外に該当され、対象外であるという理由だそうである。これでは、県境を跨いで、パチンコ屋へ中毒患者が、出かけたり、銭湯へ殺到するわけである。何も、利益の完全補償というわけでなくて、<家賃・リース代金や従業員の賃金だけでも、、、、>非正規・正規とを問わずに、自動的に、On Lineでも申請受理・給付すべきではなかろうか?いくら、緊急事態宣言であったとしても、<走りながら考え、検証し、方針を打ち出す柔軟な思考と行動形態>が、経営者のみならず、官僚にも、政治家にも望まれよう。学費や奨学金も含めて、無利子融資や金融支援も同様ではなかろうか?どうも、<国家の責任と首長への権限委譲という狭間>で、いつも、犠牲になるのは、弱者である国民であり、自宅待機中で、ある日突然、軽症から、重篤化して、入院予定前日に、命を落とす例なども、散見される。これも、病床確保というお題目から、派生した悲劇の一つであろう。それにしても、<国家の責任と首長への権限・指示の丸投げと責任の線引き>が、今回ほど、各地方都市の財政状況の違いから、ハッキリと対立・競合が垣間見られたのは、単なる小池氏の元宣伝広報担当と、政府・与党内部での主導権争いと迷走ぶりを観ても、十分国民目線でも容易に、理解出来よう。

 星野源の人気にあやかろうとしたのかは分からぬが、その真似をした動画の配信では、一度も、自らの言葉で国民へ語ることなく、これ自体、ドイツやイギリス等の指導者とはおおいに異なり、違和感を感じるが、案の定、どちらに転んでも、発言をしても、しなくても、炎上したのだろうが、、、、、、、。スーパーの三密対策にしても、何を今更、家族子ども連れで買い物にはゆかずに、代表一人でとか、3日に1回でとか、そんな当たり前なことも、シミュレーションしていなかったのであろうか?混み具合が分かるアプリの開発など、何故、即時に開発できないのか?今頃になって、ジョギングもウォーキングも公園では、5mとか、8mとか、離れていないと、後続者は、飛沫がもろにかかる危険性が大だとか、、、、、、、、、屋外だからと謂って安全・安心が担保されるわけではないと、当たり前だろう!?現段階では、もはや、過去の3つの蜜が重なり合う条件が一致する条件ではなくて、市中感染が、クラスター追跡が出来ない程の多数になってしまった以上、1蜜でもやばいわけで、そんなことは、<とうの昔に、分かっていた常識>ではないのか?もし、そんなことが事前に、高名な専門家先生方が、分かっていなかったとしたら、そんな専門家に、どんな対策が打てるというのであろうか?<全て、後手、後手、タイムリーではなく>て、<遅きに逸した感あり>である。国民の声は、大半が、WHOに対して同様、<政府の緊急事態宣言も、判断が遅かった>と感じる所以がここにあろう。

 それにしても、日本という国は、<黒船という危機的外圧>がこないと、<行動様式を自ら変えられない>或いは、<技術革新にエンジンが掛けられない国民性>なのであろうか?AIの活用も、On Line診察も、On Line授業も、On Line選挙も、Tele Work も 全て、然り、更には4月入学ではなくて、国際的な9月入学というガイドラインも、就職の活動の通年化という課題も、全て、ICTの活用も含めて、無線LAN導入奨励や、一人一台のLAP TOP PCやスマホ、PAD等も、これまで、幾度となく叫ばれてきたにも関わらず、実現できていなかった。これは。まさに、<コロナ禍は、技術革新のターニング・ポイント>の時期であろう!> それにしても、情報の変質というか、新型コロナ・ウィルスの特徴的な変異というか、まるで忍者のように、変幻自在に、その特徴を変質させて、誤った情報が、そのまま、過去の事例と同じではないかと、例えば、陰性に転換しても、再び、ウィルスが突然復活する、陽性に転じるとか、無症状だから、感染していないという錯覚を生み出させるとか、枚挙に暇がない。最たるものは、免疫性を獲得できるのではないかとかという錯覚、要するに、<情報の修正・過ちのアップデートを柔軟に、対応しない>と、このウィルスは、  どうやら、これまでのSARSやMARSやエボラとは異なる<新型感染症>なのであろう。改めて、個人レベルでの<意識改革と行動様式の変容>が。ICT活用と共に、不可欠なのかもしれない。それでも、医療関係者や介護士や看護師も含めて、或いは、保育士、物流の配送・トラック運転手なお、いわれなき偏見と誹謗中傷が、子供達や家族に対して、どうして、行われるのであろうか?いずれ人類は、近い将来、克服することは、収束を迎えることは間違いないであろうが、その時、<どのような歴史的な検証>がなされ、そして、<どのような反省と間違いを>そして、<どのような将来に対する予防と対策>が、具体的に、とられるのであろうか?その時、我々は、<どんな生活の地平にいて、何を見る>のであろうか?

 最期に、日本という国の改めて、<文化に対する貧困>を垣間見た。所詮、お笑いも含めて、演芸なおも、不要不急で、所詮、どんどんそぎ落としていったら、最期に、一番不要なものなのかも知れないが、、、、実は、<不要の要>こそ、音楽やダンスや絵画や伝統工芸・伝統古典芸術なども、全て、文化という名の下に、保護されなければ、<真の文化国家>とはいわれまい。観光立国、インバウンド誘致も、Cool Japan !も、更には、2021 Olympic Gameすらも、そういう枠組みの中で、しっかりと位置づけられなければならず、いつまで経っても、フランスやドイツの文化政策に劣る、所詮、我が国は、<戦後成り上がり者国家>にいつまでも、止まらざるを得ないせいぜい<二流か、三流の文化国家にすぎない>のかも知れない。一事が万事、危機的な状況の中で初めて、<その国の、或いは国民の本質>が垣間見えてくるのかも知れない。

オンライン飲み会をやってみた!:

オンライン飲み会をやってみた!:

 

新型コロナウィルスに感染しないために、三密を避けて、stay at home を続けているので、新しい試みとして、今人気のオンライン飲み会を早速、東京と横須賀と小諸の3カ所を無線LANで、繋げて、LINEのフェイスタイムで、5人で、家族飲み会をトライしてみた。もう何年も前から、インターネットの光ファイバーが開通してからは、基本的に、電話ではなくて、無料ネットアプリを活用して通信電話代を節約する方策を講じてきた。考えてみれば、新しいICT技術を試してみては、使わない手はない。今は亡き父は、若い頃から、仕事の関係からもあったのであるが、未だ、当時は珍しかった電気製品が発売されると、蛍光灯、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、ステレオ、冷房空調機、そして、自家用自動車と、片っ端から、新しい技術革新の恩恵を自ら、試行錯誤しながら、生活の中で、試しては、アップデート、更新していったことを、子ども心に、想い出す。更には、70歳を過ぎてから、英語もよく分からないのに、東芝ルポやシャープ書院ワープロから、何と、NEC98の未だ、出始めの頃、プラスチックの板状のフロッピーの初期の時代に、コンピューター操作を独学で勉強して、手紙や住所録をパソコンで作成し始めたのには、全く驚かされた。そのせいなのかどうかは分からぬが、息子の私にも、そんな血が同じように、流れて、受け継がれたのか、同じような歳になって、オンライン飲み会を試してみたくなった。それにしても、画面を見ながら、それぞれ各自の顔と表情を観ながら、食事したり、お酒を飲みながら、会話できることは、なかなか、興味深いものである。互いに、何を食べているのか、何を飲んでいるのか、カメラで、一品一品を映し出し、評価したり、更には、画面の人物の顔に、カチューシャをつけたり、髭をつけたり、豚の鼻に加工したりと、全く、原宿で、その昔、流行った写真の加工が、簡単にリアルタイムの会話の中で、簡単にでき、おまけに、その画像が記録されたりと、何とも、操作を教えたり、教えられたりと、いやはや、試してみないとわかないことが、多いものである。

 今回の新型コロナウィルス禍による緊急事態宣言の全国的な宣言のなかで、テレ・ワークが奨励されて、自宅での協働作業やWeb会議の開催やら、既に、これまで、技術的に不可能であるとされてきた職種でも、生産現場や土木建築現場でも、接客業種でも、否応なく、技術関心という眼に見えない形での<行動様式の変化や意識の改革>が、水面下で、現在進行中である。出来ないとか、不可能ではなくて、どのようにしたら、部分的にも、実施可能になるのか、どんなアプリの開発が可能になり、どのように、実現してくるのか、今後がおおいに、期待されてやまない。単に、今回の教訓は、一度限りに止まることなく、間違いなく、将来、今後、何度も、繰り返し、ウィルスは変容し、我々を、襲ってくることは、間違いことであろう。様々なセイフティーネット策を駆使して、速やかに、国と首長の無用な対立を克服して、災害弱者を、フリーランスや、個人事業主を救済しなければならないことは言を俟たない。それでも、過去に、ペストが、中世に宗教国家から国民国家へと変容させた如く、今日の社会をも、そんなことには目もくれずに、確実に、感染症は、何らかの変革をもたらすことは間違いないであろう。残念ながら、危機は、変化を生み、そして、<行動様式の変革と意識の改革>をもたらし、それが、又、同時に、技術革新を促進し、互いに、インターアクティブに、相呼応しながら、<あらゆる軋轢と矛盾>を、決して忖度することなく、一方的に押し流してゆくことになるのであろう。そして、その時には、我々は、<一体、どんな社会の中で、生きてゆかなければならない>のであろか?又、その時には、我々は、どんなツールを持っているのであろうか、それとも、そんな武器は、有していないのであろうか?また、持っていても使いこなしていないのだろうか?それでも、どんどん、我々を置き去りにして、ICT技術は、進化して、自己革新してゆくのであろう。そして、その時に、自分は、果たして、ついて行けるのであろうか?流石に、ウーンと唸ってしまうかもしれない。もしも、生きていれば、今年101歳の父に尋ねてみたら何というであろうか?

 

新型肺炎と(中国)情報の真偽:

 50年前の若者達は、当時、異様な長い髪の風体と子汚い薄汚れた風体で、親たちの世代に反抗して、一向に言うことを訊かなかったが、<極楽とんぼ>は、言うことを訊かないで、いつの時代にも、飛び回っているものだ。まるで、コンピューター・ウィルスの被害者が、自分の知らぬ間に、加害者として、ウィルスを巻散らかしているのと、何ら変わりはない。そういう無自覚な輩は、いつの時代にも、いるものである。尤も、それは、初期の段階での中国武漢からの情報を非公開・隠蔽・改竄・情報統制した習金平体制により、事態が拡大したものであることは、トランプ大統領が、今でも、執拗に<武漢ウィルス>とか、<カンフルー>と呼んでいることに、象徴されるように、決して、分からぬものでもない。たまには、あのフェイク・ニュースの主も、ファクトを叫ぶものであることに驚いてしまう。それにしても、<乳幼児の罹患率・死亡率>とか、<若者は重症化しない>などの諸説は、実に、巧妙な情報統制であり、更には、<無症状症の特徴>や<発症までに2-3週間、時間がかかり、無症状である>、更には、<エアロゾル感染の疑い>など、ノロ・ウィルス同様の糞便や<空中を舞う微細なエアロゾル>、<長時間、紙や金属・プラスチック上で死滅しないこと>、時間が経過してくると同時に、様々な<ファクト>が、日本などの専門家から、各国関係者へと、徐々に、<情報公開・開示・共有化>され始めた。そして、それは、毎日、放映されている、テレビのワイド・ショーでも、放映され始めた。成る程、NHKあさイチの視聴率が、羽鳥モーニングショーに、視聴率で、始めて、8時台で、抜かれたことでも、明白であろう。NHKは、旧態依然として、タイムリーな番組構成に変革できずに、結局、抜き去られてしまい、それは、必ずしも、有名な女性アナウンサーが抜けたりしたコトだけではない、根本的な<会社上層部組織の危機意識へのタイムリーな対応不能>が、原因であろう。

 これまでの議論の中心であった、<PCR検査件数を何故、日本は増やす努力をしなかったのか?>、クルーズ船の事例の如く、<水際対策だけで、初めから、正しかったのか?>、<医療崩壊を防止する手立ては、何か?>、<一番効果的な緊急措置法の発令タイミングとは、いつなのか?>、<緊急措置法の法的拘束力とは?>、<私権の制限とは?>、<損失補償は、措置法とセットでなければ、効果はない!>、<国と自治体・首長と権限棲み分けとは?>、<外出禁止令とは、?>、<三密:密着・密接・密集>など、これに加えて、横文字のCluster, Lock Down, Overshoot, Lock Out,Corona Fighter,ECMOなどが、絡んできて、<言葉の定義と意味>の議論が、加わり、本来、<走りながら考えて、直ちに行動に実行しなければならない>と、分かっちゃいるけど、議論が止められない!という状況に陥ってしまい、有名なコメディアンや野球選手やスポーツ選手、芸能人から、乳幼児までも、感染が一気に拡大して、死者が増加し始めて、病床不足の懸念と院内感染、果ては、<医療体制崩壊の危険性>議論へと、辿り着きつつある。

 それにしても、自己主張の激しい、権利意識の強いアメリカ人が、暴動も起こすことなく、静に、トランプの制令に従う状況は、日本の状況とは、おおいに、異なるもので、日本の如何にも、日本らしい<なし崩し的な自主規制路線重視の対応>は、大変興味深いものがある。果たして、<中国のような強権発動型>、<日本のようなダラダラな国民自主的抑制型>、<欧米型のやり方>、一体、どちらに、どのようなタイプに、歴史は、後の世で、軍配を上げるのであろうか?それとも、どちらも、失敗に陥るのだろうか?或いは、どちらかが勝って、どちらかが負けるのであろうか?興味深いと言っては何だが、社会学者による詳細な分析が、おおいに、後の世には、必要ではなかろうか。このウィルスは、又、将来、変質を繰り返して、ワクチンが開発されても、再び、姿を変えて、出現することは間違いないであろうから、今から、<将来の対応策>を、詳細分析して、樹てておかなければならないであろう。

 無症状で、被害者が、加害者に転嫁するところは、全く、コンピューター・ウィルスと同様であろうが、まさか、<Wi-Fi電波に乗って、ひろく伝播する>ことはないであろうか?少々、自宅に籠もり過ぎの為、ホラー映画ビデオの見過ぎだろうか?たしか、そんなビデオを観た記憶があるが、、、、、。あれは、確か、ビデオ・テープだったかな?!

布製マスクは、中国製でしょうか、それとも、日本製でしょうか?マスクよりも、カネをくれ!という声なき声が聞こえてきそうですが、、、、、、、。同情よりもカネを、マスクよりもカネを?!どちらが必要でしょうかね。今、何が必要なのでしょうか?

家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:

家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:

 

GAFAに肩入れするつもりは毛頭ないものの、時代の流れなのか、Amazonのプライム会員であることをすっかり忘れていたら、何かの拍子に、ビデオや電子書籍が読み放題だと気づき、慌てて駆け込みで、このご時世であるから、山籠もりと称して、眼の衰えをカバーすべく、ラップ・トップPCを大きなモニターに接続して、たっぷり、往時の任侠映画を、ビデオで愉しむことにした。藤純子の緋牡丹博徒シリーズ、高倉健の昭和残侠伝シリーズ、池辺良や鶴田浩二の出演する任侠シリーズで、銀座の並木座で、3本立て等で、学校の授業の帰りに、友達と連れだって、60年代の後半に、よく観たものである。当時は、見終わり、映画館を出るときには、どういうわけか、鶴田浩二の影響かどうかは、分からぬが、無意識に、両手の拳を握りしめて、これは、後年、海外出張し、異国の地を歩くときにも、どういうわけか、そのスタイルが身につき、殺気をみなぎらせながら、闊歩したモノである。又、ある友人は、必ず、中指をピンと伸ばして、歩く癖をつけてしまった。50年時間が経過した今でも、その名残は、どこかに、癖として残っているのは、どうしたものだろうか?

それにしても、凜とした藤純子は、結婚して、名前が変わっても、或いは、娘の女優が有名になろうとも、藤純子は、藤純子であり、銀幕の中の緋牡丹お竜さんは、お竜さんのままである。又、武骨で、無口な高倉健は、後年の主演男優賞や助演男優賞などとは、全く無縁な、寡黙な煮えたぎるような殺気を押し殺した一匹狼的なアウトローの雰囲気である。それでも、何本か往時の作品を見終わった後の<違和感>は、一体、どこから、来るのであろうか?あの50年以上も前に抱いた<感動>とは、明らかに、異なるところの、ある種の<虚しさ>、懐かしいという感情は、余り、<沸いてこない>のは、何故なのであろうか?

どうやら、歌とか、映画とか言うものは、<その時点での時間的な、或いは、空間的な時代背景や歴史的な環境・雰囲気>、或いは、<私的な空間の概念と、何らかの感動、或いは驚きが、不可分に結びついていて>、決して、AIで再生・合成された美空ひばりには、微妙な違和感を抱き、我々がそうして感じるのと同じような、或いは、似通った感情を持つものなのかもしれない。明らかに、それは、50有余年という<時間的経過と肉体的変化・経過>や、或いは、<往時の精神状態と現在との差異>から来るところの違和感なのかもしれない。銀幕に映し出された緋牡丹お竜も、高倉健も、ポッポ屋や黄色いハンカチーフの健さんでは決してない。<賞味期限>とはよく言ったもので、時間的な経過とベストの賞味期間とは、人間の肉体・精神でも、同じことが言えようか?それは、眼も衰え、脚が萎えてくるように、それは、亡くなった両親や愛犬の介護でも、十分、認識してはいるものの、、、、、、、。いざ、自分が、そういう段階に近づきつつあるときには、<本能的に、違和感を感じる>ことになるのであろう。よく、人生最期に食べる一品とか、観たい映画はとか、無人島に持って行く本は、何だとか、謂われるが、恐らく、もう、これからは、往時の任侠映画を、何度も、<観ることはない>であろうし、あまり、<観たいとも思わない>かもしれない。絵描きの画風が若いときと、熟年期、晩年期とでは異なるように、自分の中でも、本を読み返したり、映画を見直したりすることは、なかなか、興味深いものがありそうである。本であれば、往時の棒線や付箋などで、記憶に残った部分が、探し出せるが、映像では、なかなか、難しいものである。<カミューのペスト>も、こういう状況だから、異邦人同様、読み返してみることにしようかな!新型コロナ・ウィルスの一番の特徴は、<どうしようもないくらいの倦怠感>らしいが、肉体的な倦怠感ではなくて、<長年に亘る人生の倦怠感とか、夫婦間での倦怠感>は、どうしたらよいのであろうか?女房殿からズバッと指摘されそうである。(笑)でおさまれば、宜しいが、、、、、、。

映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

それにしても、50年も前の若者は、古稀を過ぎてから、眼が衰え、レンズを交換して、すっかり、読書量が激減し、最近では、新型コロナウィル禍の為もあり、映画鑑賞の代わりに、ビデオの視聴が多くなってきたのはどうしたモノだろうか、尤も、友人に勧められて以降、KINDLEをダウンロードしてからは、i-padにダウンロードしたE-bookを読む回数が増えてきた。

新型コロナウィルス禍により、山ごもり状態であるが、今日(3月20日)から上映開始されるというので、山から下りて、映画館のネット・チケットをスマホで予約して、席もなるべく2席ほどの距離を開けて、とったにも関わらず、後から来た客は、何と私の隣の席に座ったので、やむなく上映開始と共に、一寸離れた席に移動して、マスクをしっかり装着して、再びじっくり見ることにした。それにしても、濃厚接触を回避する為に、ネット上では空席が明記されているのに、このおばさん夫婦は、何を考えているのであろうか?

 

それはさておき、TBSが所蔵していた4時間に亘る1969年5月13日の討論会のドキュメンタリー・フィルムを編集しながら、当時の関係者等のコメントをちりばめながら、この<言葉が未だ力のあった最後の時代>を、50年後の我々は、如何に、今日的に考えたら良いのであろうか?ここに登場する人物達の何名かは、主役を含めて、双方共に、既に今は亡く、もしも生きていたならば、どのように、再び、往時を総括するのであろうか?

当時は、全国的に燎原の火の如く拡がった、医局待遇改善や授業料値上げ反対闘争とも相俟って、世界的なベトナム反戦運動や、佐世保への原子力空母エンタープライズの寄港や王子野戦病院反対闘争や、ジェット燃料輸送阻止や、4・28沖縄奪還闘争や10・21国際反戦デー、新宿騒乱事件や東大安田講堂落城など、枚挙にいとまがないほどの政治闘争の真っ只中の中で、単身、敵対するであろう1000人もの意見を異にする若者を相手に、<正々堂々、真摯に敬意を払い>ながら、<言葉と言葉の激突する決闘の場に、臨んだその誠意>には、改めて、敬意を表すると共に、今日の官僚によるメモと原稿を棒読みをしたり、議事録・公文書を改竄したり、或いは、部下を自殺に追いやっても平然とその地位に甘んじている政治家や高級官僚などと比べるのも、誠に、おぞましく感じられる。

このドキュメンタリー映画を見終わって、そういえば、当時、この討論会の詳細な本を読んだ記憶を想い出し、改めて、本棚を探してみたら、文化防衛論や英霊の声の本の間に、副題:<美と共同体と東大闘争>新潮社版Yen250と記された177頁の本が出てきたので、ドキュメンタリー・フィルムと並行して、論じてみることにしよう。写真とかでは色々と現場の雰囲気を伝えるモノを見ているが、改めて、50年後にビジュアルで、観てみると、その<双方の圧倒的な熱量、熱い思い、濃いい情念>が、大画面から、三島の大きなギョロッとした眼から、上腕から、直接に、伝わってくる。それは、50年前に読んだ時に、本に記された自分の○や棒線・付箋から、感じられるある種のキーワード的なそれとは、異なる心を映像的に、揺さぶられるものではなかろうか。しかしながら、本に記載された内容を読み進むにつれて、改めて、<映像の時代と文字の時代>の違い、とりわけ、同じ<言葉を通じた表現の違い>はあるものの、未だ、確かに、当時は、言葉を媒介にした、立場を異なる者達同士が、<真摯に、言葉で互いをリスペクト>しながら、<言葉を武器として決闘の場に、正々堂々と自分の論理を展開したコト>には、50年後の現在には、絶対にあり得ないことであろう。<言霊が会場を飛び交い、そして、自決という言葉を残して>、三島は会場を後に去って行くことになる。<空っ風野郎>というヤクザ映画に出演したり、<人斬り>で切腹を演じてみたり、この討論会から、イヤな予感はあったものの、この1年半後に、市ヶ谷自衛隊総監部での割腹自決に至るとは、未だ、この時点では誰が想像し得たであろうか?確かに、12頁の中頃に、50年前の私は、<自決>という箇所に、○でこの文字を囲んでいる。

 

本の 目 次:

=暴力はいかんということはいったつもりはない、、、、、、、

=筋や論理はどうでもいいじゃないか、兎に角秩序が大切である、、、、、、

=行動を起こすときは結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。

=非合法で決闘の思想において、、、、、、、自決でも何でもして死にたいと思うのです。

反知性主義丸山真男について、、、、、、

  • <自我と肉体>:
  • <他者の存在とは>:

サルトルの<存在と無>を引用しつつ、暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。、、、、、

=暴力という形じゃなくて、、、、、<対決の論理・決闘の論理>に立っているのだと思われる。大江健三郎も引用しつつ、、、、

  • <自然対人間>:
  • 階級闘争と自然に帰る闘い>:

バリケードに供された教室の机の存在の考察を通じて、生産関係の根本に労働対象としての自然概念と暴力の根源的衝動について、、、、、、、、

  • <ゲーム或いは遊戯における時間と空間>:

=あなた方が作った歪んだ空間、その空間がそこに存在する時間はどういう風に持続しますか?

=解放区の問題を論じたいと思うのだが、、、、、時間の持続性という問題へ、、、、、

  • <持続と関係付けの論理>:

=三島からの二つの問題提起、名前というものがない世界と、、、、、目的論なしに活用出来るのか、、、匙を具体例にあげながら、、、、、

=ここで、三島をぶん殴りたいという全共闘Eが議論に加わる、、、、、

安田講堂で諸君が立てこもった時に天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒に、、、、喜んで一緒にやったと思う。

=昭和初年における天皇親政というものと、現在謂われている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。

=中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている、、、、、、、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。

=その難しさの中でだね、諸君は戦い、ぼくだって戦っているんだ。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ。それを天皇とよんでいいかどうかわからない。たまたま、ぼくは天皇という名前をそこに与えるわけだ。

=一体民衆の底辺というのは何なんですか?

=民衆の底辺というのは、日本人の持続したメンタリティーということで、時間の問題をぼくはさっきからたびたび言っているわけだ。、、、、、、、空間を形成する日本人というものは、諸君のような新たらしい日本人だ。、、、、、、、、一定の時間の中にしか生きていない人間、その人間の中にあるものだね。私は、日本人のメンタリティーの一つの大きな要素と考えるのだ。そのメンタリティーをどうするのかというこの問題を言っているわけだね。

  • <過去・現在・未来の考え方>:
  • <観念と現実における美>:

=君は美は美として完結させるにはどういう方法があるのですか、、、、、それを教えて下さい、それをどうやって君は完結させる。

=美というものは、ただ観念の中にしかないものである、、、、それを一歩踏み出せば、現実に腐食されて、美は美でなくなっちゃう。、、、、、、、、そうすると、諸君にとって美というものは、何ら重大な問題じゃない。

=芸術と実際行動との間というものについて、、、、、あらゆる関係性、時間性、現存性を超越していく方向、、、、、、自己超越性―超時間性、、、、、芸術作品における意識性と無意識性、、、、、、、、

  • 天皇とフリー・セックスと神人分離の思想>:
  • <ものとことばと芸術の限界>::
  • 天皇・三島・全共闘という名前について>:
  • <われわれは敵対しなければならない>:

 

ここまで、<50年後の若者である私>は、一生懸命に、<50年前の当時若者であった私>が、付箋を付した箇所を、なぞりながら、引用してきたが、ここまでくると、もう、別の<書籍評論>として、検討したくなるほど、付箋が多くなって来ました。是非、50年後の若者も、今の若者も、再度、或いは、新たに、読まれることをお薦めします。又、最近では、<カミューのペスト>が、再読されているようで、こちらも、書棚から、再読してみたいとも考えています。一寸、根気がなくなり、消耗してきたので、最期の節は、若干、端折ることにさせて下さい。お許し下さい。

 

そして、討論を終えて

  • 砂漠の住民への論理的弔辞 (三島由起夫)

=(三島は)このパネル・ディスカッションのために用意した論理の幾つかを次に箇条書きにしてみようと、下記を纏めている。

  • 暴力否定が正しいかどうかと言うこと。(三島は、無原則。無前提の暴力否定に反対し、暴力を肯定すると言った。、、、、、、、、、毛沢東の人民戦争のみが正しい暴力であるという論理に対するアンチ・テーゼ、、、、、、、)
  • 時間は連続するものか、非連続のものかと言うことである。(解放区・自分の肉体、精神、、、、、空間と一種の時間主義、、、、、、、、連続性と非連続性、、、、、歴史・伝統、、、、、、、過去・現在・未来という時間的連続性、、、、、、、)
  • 三派全学連はいかなる紡機にかかっているのかと言うことである。(左翼小児病、、、、、人は敵を愛することは出来るが、背いた友を愛することはできぬ。、、、、、、、嗜好の自由を標榜しながらも、ある点へ来ると体制左翼から思考の型をかりているか。、、、、、、、、政治と文学、(三島の)文学と行動とに対する彼等の批判、、、、、)
  • 政治と文学の関係である。(文学を生の原理、無倫理の原理、無責任の原理と規定し、行動を死の原理、責任の原理、道徳の原理として規定している。芸術が生の原理であり、無責任の原理であり、無倫理の原理であるという点については、彼等と三島との芸術観については、相隔たるところはない。しかしながら、行動が死の原理であり、責任の原理であるという点について、まさにその点についてこそ、彼等とわれわれとの思想的対立があらわにされるのである。、、、、、、、、生の原理と死の原理、、、、、、この二つの原理がお互いに行動の根本動機になるのであるとすれば、われわれは同じ行動様式によって反対側の戦線で闘っていると言わなければならないのである。、、、、、、、、、、、。)
  • 天皇の問題である。(、、、、、、、、、、私は彼等の論理背を認めるとしても彼等の狙う権力というものがそれ程、論理的なものであるとは考えないのである。そして、彼等が敵対する権力の事態の非論理性こそ、実は私も亦闘うべき大きな対象であることは言うを俟たない。、、、、、、、。)

 

ここまで読み進めてきて、少々、消耗してきました。やや、限界ですね。

  • 三島由起夫と我々の立場 (東大全共闘
  • あるデマゴゴスの敗北
  • 時間持続と空間創出

 

それにしても、50年後の若者は、50年前の若者、自分自身を振り返ったときに、何を感じるのであろうか?そして、今の若者が、50年前の若者を観たときに、何を思うのであろうか?ドキュメンタリー・フィルム全体に溢れる<圧倒的な熱気>は、本を再読するときとは、全く別の感慨を有する。今や、<事なかれ主義>という言葉も、<不作為>という言葉も、行動原理とか、主体にしても、今日の公文書改竄、カレイのような上目使いの行き過ぎた忖度にしても、言葉を重みを置かない言葉の遊びと責任を伴わない行動とか、今日、もはや枚挙にいとまがない。少なくとも、イデオロギーを異にする他者とも、正々堂々と、決闘の精神で臨んだ三島由起夫という存在は、その1年半後に、あの行為に、結実・実現されてゆくことになる。

50年後の若者としては、是非、今の若い人達に、観て貰ったり、本を読んで貰いたいモノである。<体感せよ!50年前の真実を!>

=新型コロナ・ショックと監視社会:

=新型コロナ・ショックと監視社会:

 

既に、春節前には、中国の金持ち達は、5000万人も、武漢他を離れ、海外疎開してしまい、日本にも、多数の観光客が来日していることは、周知の事実であるが、与野党を含めて、一体どれ程の観光客が武漢から来日し、何処を訪問していたのかなどは、国会でもメディアでも詳しく取り上げられていない。まるでマッチ・ポンプみたいに、自分で、火をつけておきながら、今度は、逆に、火消しを誇るような習金平による政治ショーにはやや、ウンザリするが、12億の人間を束ねるには、強権的な強引な都市封鎖以外には、新型コロナ・ウィルスに対抗するためにも、何が何でも、<ヒト・モノ・カネ・情報>を強権的に、私権を制限してまでも、ある種の監視社会を、構築してゆかないと、致し方ないのであろうか?それにしても、忖度政治の最中でも、韓国、或いは、日本による中国への忖度は、最たるモノで、WHOすらも、右へならえとは、恐れ入ってしまいます。それにしても、インバウンドの4000万人目標も、又、2020東京オリンピック・ゲームの予定通りに開催も、主催者がどんなに、声高に叫ぼうが、相手があっての話で、既に商業主義化してしまったオリンピックは、莫大なテレビ放映権料を支払って貰っている以上、谷町のご意向を忖度せざるを得ないのはなかろうか?

中国国内のこれまでのビッグ・データによるヒトの流れ・移動は、交通網の整備というお題目に関わらず、初期の高速道路の監視カメラから、徐々に、町中の監視カメラ、或いは、<顔認証システム>とも、リンクしながら、赤信号を無視して横断歩道を渡ろうとするとすぐさま、警察官に拘束されるという所にまで急速に発展し、更には、この新型肺炎を機に、一気に、QRコードやドローンまでも活用した、<個人のヒトの流れ>、即ち、地下鉄を乗り換えて移動するときにも、全ての<ヒトの移動の追跡履歴>が、<当局に監視管理される仕組み>となりつつあると謂われている。何でも、地下鉄の車両を乗り換えて移動しても、新しいQRコードをスキャンしないと拘束の対象になると謂われている。若い頃、よく、<ヒト・モノ・カネ・情報を重視せよ>と謂われてビジネスの世界で闘ってきたが、今にして思えば、正鵠を射ているようで、実に、感慨深い。確かに、ヒトが移動しなくなり、モノが動かなくなり、人の心理が消費意欲やマインドが冷却すると、供給が、サプライ・チェーンが崩壊連鎖してゆき、グローバリズムの中では、どうすること出来なくなる事態に陥り、やがて、過剰な加熱していた株式相場や、眼に見えなかった潜在的な不動産市場を含む金融市場の矛盾が、顕在化してきて、そこへ、未知への恐怖・不安心理から、様々な憶測情報やデマ情報が一人歩きしだし、フェイク・ニュースが、フェイク・ニュースを呼び、収拾が困難になってくるものである。

かつてのオイル・ショック時のトイレット・ペーパー買い占め騒動にも、全く、その歴史的教訓を学ばず、又、中国人留学生を動員した<転売ヤー>や、オークションと称した、或いは、抱き合わせと称して、不足気味のマスクや消毒綿などのネット販売など、誠に、IT企業の<品格のない、なりふり構わない商道徳の堕落>・<矜持の無さ>が、何故に、生じてくるのであろうか?更には、東日本大震災の時のメガソーラー発電構想と同じように荒唐無稽のマスク供出というよう孫正義による元メルカリのオーナーまがいの大風呂敷宣伝など、<経営者としての品格や矜持>も、問い直されて面白いモノである。こういうときこそ、経営者や人としての品格が、ハッキリと出てくるモノである。しかしながら、何故に、<チャイナ+>ともう、何年も前から、喧伝されていたにも関わらず、同じ轍を踏むのであろうか?そもそも、<モノ消費~コト消費へ移行>等と、謂われていたにも関わらず、結局、ツアーバスの運転手や中国専門旅行社や芸能スポーツ・イベント関連や、スポーツジムのフリーのインストラクターとか、或いは、フリーランスのミュージシャンや小規模経営のライブ・ハウスなど、飲食業界、クルーズ業界など、嘗てのSARS・MERSの事象から、何の教訓も得てこなかったのであろうか?結局、最終的には、一番の零細弱者である労働者や派遣・非正規の被雇用者が損害を被り、内定取り消しとか、新規採用抑制、とか、<セイフティー・ネットの機能不全>に陥ることになるのだろうか?。厚生労働省の幹部は、<コネクティング・ルーム・スキャンダル>の張本人が、感染対策のクルーズ対策の陣頭指揮を執るなど、こちらも、<官僚組織の機能不全>に陥り、感染病研究のヘゲモニー争いとも絡んで、連日のテレビ報道を風聞していると、成る程、そういうことなのかと納得されよう。むしろ、地域・地域の首長による感染症対策を、国があてにならなかったら、独自に、和歌山県のように、クルーズ船隔離対策とは別のスクリーニング検査の独自対応策の積極的なシステム構築をしなければならないかもしれない。それにしても、<どさくさ紛れでの特別緊急措置法>など、私権の制限を伴う案件にも関わらず、国会では、十分審議されることなく、お友達内閣の閣僚の辞任や<説明責任の放擲>というていたらくである。いつの何やら、今年の<桜のお花見の会>も、濃厚接触を避けるべく、どうやら、自然消滅の様相である。

テレワークをみていると、これからの時代は、今更ながら、会社へ出社して、顔つき合わせて、結論の出ない長時間に亘る会議をする必然性もなくなり、むしろ、ウェッブ会議や交通費の削減とか、人件費の抑制を図り、クラウド上で、互いの日程を確認し合い、ファイル共有システムから、シェアワークで書き込み。アップデートする方式へと移行を加速させてくることでしょう。ますます、<飲み会と称した濃厚接触からウェッブ上へ>と<人間関係も希薄>に、<組織への忠誠心も、薄れてくる>ことは間違いなく、加速化されてくることでしょう。コロナ・ショックは、株式相場のみならず、人々の意識改革と行動パターンにも影響を及ぼし、やがては、長期的には、社会事態への変革を促してくる可能性が、高いのではないかと思います。

それにしても、短期的に解決すると思われていたコロナ・ウィルス禍が、むしろ、南半球とかに拡がるこれからのグローバルなパンデミックを考えると長いスパンでの対応を個人個人に強いるような展開になるであろう。年寄りは、じっと我慢、家籠もり状態とライフ・スタイルの変更をよく考えないと駄目かもしれません。

 

人は死して後、ヒトを残せるのか?:追悼野村克也

人は死して後、ヒトを残せるのか?:追悼野村克也

 

小さな子どもの頃は、23区内でも、家の周りには、未だ、空き地や雑木林が散在していて、友達同士で、ゴロ・ベースや三角ベースで、野球を、学校帰りには、陽が暮れるのも忘れて、暗くなってから、帰宅して、よく、母親から叱られたものである。その頃は、遊びやスポーツと謂えば、今日のように、多様化していなくて、サッカーとか、Vリーグとかではなくて、相撲か、野球と相場が決まっていたものである。

子どもの詠む少年誌には、必ずと言って良いほど、その当時のスタープレイヤーが、バットを持って、或いは、グローブを振りかぶって、今にも剛速球を投げそうな写真が、表紙を飾っていたものである。千葉・大下・川上や、稲尾や中西や、杉下、金田とか、往年の名選手達が、そして、その後の世代では、長嶋・王・野村・張本と続いたものである。そんな中で、三原の西鉄黄金時代の後から、南海で現役選手兼任で、監督に就任した野村のことは、どういうわけか、記憶に残っている。確か、就任した頃は、余り成績が振るわず、やはり、名選手は、必ずしも、監督としては成功しないものであると、喧伝されたことを思い起こす。後に、監督に就任した金田や長嶋も、皮肉にも、就任間もない頃は、似たような結果に陥ることになるのであるが、同じ日本一を勝ち得ても、野村語録のような、或いは、野村再生工場のような、そんな<ヒトを育てる>という、<死して、虎は皮を残す>というような評価は、残すことはなかった。今や、<昔の巨人・大鵬・卵焼き>の世代には、今日の金権まみれの渡辺路線には、大いに、違和感を覚えることになろう。

それとは対照的に、野村は、ID野球と称して、頭を使うこと、プレイヤーの前に、<考えるヒトを作ること>を、育てることに、舵を切ることになる。確かに、それは、勝者の論理に対抗すべき<弱者の論理>だったのかもしれない。今日の育成選手を一軍に、あげてゆくような手法なのかもしれない。なかなか、<野村語録>というモノは、興味深いものがある。<勝ちに不思議の勝ちあり、負けに、不思議の負けはなし>、成る程、これはもはや、まるであの<失敗の本質>をわかりやすく謂っているようなものである。

それにしても、野球の監督業というモノは、優勝すれば、そのリーダーシップや野球理論に関する書物が、公開されて、まるで、あまたあるゴルフ理論のようなモノで、三原マジックの路代、川上の哲のカーテン、西本・仰木の時代、<勝てば官軍>ではないが、勝ち将軍の監督は、<商品の賞味期限と同じ>で、いつの日にか、劣化が始まるし、選手の世代交代は、長嶋や王の引退後の例をみるまでもなく、悲惨なものがある。監督業とは、コーチ業との差は、一体どこにあるのであろうか、私は、相撲やボクシングを見ていて、いつも、不思議に思えるのは、システムとして、ボクシングのように、具体的な名伯楽コーチが存在しているのに対して、相撲などは、旧態依然たるしごき体質が蔓延していて、相変わらず、近代的な合理的な分業態勢ではない。恐らく、野村が監督をしていた時代のコーチは、誰だったのであろうか?選手は、確かに、小早川や山崎のような野村再生工場の代表格はわかりやすいし、又、赤星などの走塁の分業専門家を育成発掘したことなど、納得できるが、それならば、何故、直接薫陶を得た古田のような選手は、監督として、成功しえなかったのであろうか?どこにその差は、あるのであろうか?戦争孤児・母子家庭の赤貧の中で育ち、ユニフォームも買えない中で、野球に励み、甲子園とも無縁な中で、閑古鳥の鳴くパリーグの球場で、ひたすら、まばゆい太陽を夢見つつ、月を眺めながら、自らを<月見草>と揶揄してきた、反骨の人生は、ぼやきを、<その選手の性格やTPO>に応じて、使い分ける手法は、まさに、人生そのもの、普遍的な人の生き方、処世術にも、繋がるモノではなかろうか?

昔、<数字の裏を読め>とよく言われたが、ID野球もビッグ・データ分析野球も、結局は、昔の鉄道系や新聞社系から、今や、IT関連企業に変貌しつつある以上、本来ならば、ソフトバンク楽天も、或いは、DNAにしても、もっともっと、素晴らしい成績をビッグ・データから解析して、活用できるはずだが、そうもゆかないところをみると、やはり、<データを解析するヒト>次第なのであろうか?やはり、泥臭い話なのであろうか?

それにしても、杉下も稲尾も金田も、そして、後任として、バトンタッチした星野も、そして、野村が鬼籍に入り、もう残るのは、ライバルだった巨人のOBだけだろうか?何とも、さみしい限りである。新たなヒーローと野村イズムを継承発展させられる人間の登場を待ち望むのは、ひとり、私だけではなかろう。球春も、間近である。

 

絵本、<いつでも会える>を読む:

絵本、<いつでも会える>を読む:

 

1999年に、ボローニャ国際児童図書展児童賞の特別賞を受賞し欧州各国で100万部以上を販売した、イラストレーターでもある、菊田まりこ氏による、絵本を電子書籍で読んでみた。もう愛犬の介護を終えてから、既に、6年余りの時を経過していても、思わず、読みながら、涙が頬を伝って落ちてきてしまう。

犬の寿命がいくら延びたからと謂っても、普通は、どう見ても、人間の寿命の方が長くて、従って、人間の目からみたところの、<ペット・ロス>が、主眼となるのに、この本の主人公である、<みきちゃんという小さな女の子の子犬のシロ>は、ご主人さまというよりも、むしろ、お友達とでも謂う関係性のみきちゃんと、幸せの真っ只中で、<突然の永遠のお別れ>を、逆に、強いられることになる。いつも、一緒に遊んでいた、一緒に並んでお食事をしていたみきちゃんが、いなくなってしまった。幸福の絶頂から、不幸のどん底へ、子犬のシロは突き落とされてしまう。病死なのか、事故死なのか?理由は分からぬが、<突然のお別れ>だけは、間違いない現実であることは、否定しがたい事実である。どこを探しても、いない、いつも一緒にいたのに、隣にはいない、<ずっと、一緒にいられると思っていた>のに、悲しくて、とても、さみしくて、せつなくて、、、、、、、。そして、ある日、子犬のシロは、<目をつむってと、考える>と、みきちゃんのなつかしい声が、聞こえてきて、<今も、これからも、ずっと変わらない>、<まぶたのうちで、僕らは変わらない、あの時のまま>、<とおくて近いところにいたんだね>と、、、、、、、改めて納得するのです。

 一緒に生活していたペット・ロスという視点とは逆に、子犬のシロは、人間の子どもに置き換えても、或いは、家族や長年生活を共にした連れ合いだったり、様々なシーンの中で、突然の別れを受け入れ、そして、立ち直る力を取り戻せるのかを、考えさせられるものがある。我が愛犬は、3ヶ月の保護犬で、口笛の呼びかけに応じて、自分から近寄ってきてから、18歳4ヶ月の齢を全うしたが、考えてみれば、一緒にかわいがってくれていた子供達の成長や成人の日や独立を見送ったし、父や母との別れをも見送ってくれたわけであり、最期は、私が看取ってあげたわけだが、<動物の一生から、人の一生を勉強させて貰った>わけである。ちいさな子供達と共に、一緒に、読み聞かせたい絵本である。

我が家では、部屋中に、亡き愛犬の写真や絵やイラスト画を、飾ってあり、<いつでも会えるように>、<いつも、変わらず、一緒である>。

 

求人広告から透けて見えるもの:

求人広告から透けて見えるもの:

 

眼が衰えてきたせいか、新聞の広告なども、昔は、マーケティングの為に、結構詳細に、読んだものであるが、この歳では、もうそんな必要ないから、目もくれなくなってしまった。たまたま、新聞を読もうかと思い、開いたところ、中から<地域限定の求人広告>、<しごと情報のチラシ>が、まとまってパラリと出てきた。今更、<人生100年、定年70歳>まで、働こうというわけでもあるまいが、何気なしに、内容をチラ見していたら、見事に、その内容に吸い込まれるように、隅から隅までじっくりと読み進んでしまった。

なかなか、紙面構成もよく出来ていて、QRコードまで、印刷されていて、直接、携帯電話からもアクセス出来るし、雇用形態別(正社員・アルバイト・パート・契約社員・嘱託社員・派遣社員・職業紹介・職員・業務委託・その他)、待遇条件別アイコン(交通費支給・日払い可・週払い可・未経験者歓迎・社会保険有り・長期雇用・短期雇用・土日祝休み・週一日・制服貸与・高校生可・扶養控除内考慮・食事付き・深夜勤務・寮完備・車通勤可)、そして、仕事内容、給与、勤務場所、実働勤務期間、休暇、待遇、資格、イメージ写真、こんな内容で、検索も容易である。

仮に、自分の希望ではなく、客観的に、<年齢と資格と職歴と肉体的条件>を考慮しながら、読み進んでゆくと、確かに、仕事も限定され、結局、パソコン事務、データ入力作業、社員寮やマンションの管理人か、学校の用務員勤務くらいしかないわけで、炎天下で長時間屋外で立ち続けながら、トイレも我慢し続けることも無理であるし、スーパーやレストランでのホール接客や店内スタッフも、無愛想な年寄りが今更口角を上げて笑顔を取り繕うことも難しそうである。足や腰を曲げたり、かがみ込みながらのトイレやビルのオフィス清掃作業も、もはや、早朝・深夜勤務も含めて、如何なものであろうか?保育士の資格や栄養管理士・調理師や薬剤師の資格もなく、普通免許でも出来るデイ・ケア・センターでの送迎の運転手か、結構ハードな配送補助要員か、今更ウーバー・イーツのような外食宅配デリバリーや薬の配送配達員でもあるまいし、どんなに、マシュマロみたいな先輩指導員(そのような表現がしてある)が、丁寧にマニュアルを教えてくれようが、<専門知識も経験なくても>、<性別・年齢不問>、<お友達同士応募歓迎>、<未経験者大歓迎・><履歴書不要>、<意欲次第・積極採用>という言葉の裏には、<人手不足>というキーワードが、見え隠れする。

それにしても、どうやら、AIがどんなに発達しようが、最終的に運搬する作業や清掃する作業やもちろん、無人化店舗の実験とかドローンでの配達やロボット接客の実験が進行中であるものの、当分は、まだまだ、<AIに取って代わられることはない>であろうし、自動作業ではなくて、飽くまでも作業支援や補助的な立場が、<人間には未だ保証されている>ように思われる。それでも、実質賃金が伸びることなく、果てしなく、労働形態が細分化され、待遇・雇用形態も、一見、個々人の労働ニーズの多様性に応じているかの如く、きらびやかにみられるが、果たして、本当に、それは<働き手の立場に立ったものであるかどうか>は疑わしいものがある。今日、ありとあらゆる場面に、民営化による<下請け業務委託方式>が、蔓延しており、機械化に加えて、<人材派遣業務>自体が、区役所でも、会社のデータ入力でも、受付でも、家庭内でも、様々な形で細分化された上に、成立しているように思われる。時給@1000円で、8時間毎日働き、月20日勤務しても、月16万円でしかなく、25日でも、月20万円であり、果たして手取り実質賃金は、いくらくらいになり、残業手当がなくて、幸福な生活満足度が得られるのであろうか?

現在、26種の通訳などの特定業種に限定されている派遣社員契約期間も、今後は、女性登用拡大の名の下に、無期限に、如何なる職業へも拡大、適用される恐れがでてきつつある。黒字決算の上場企業の中ですら、40-50歳代の中間管理職への合理化レイ・オフ、人件費の削減、人員削減を実施しつつあり、何が何でも、固定費の削減の方向へと向かってゆく中で、65歳、或いは、70歳定年制の方向性とは別に、ハッキリとした安い労働力の確保を、全く、実質賃金の上昇を行うことなく、徐々に、組織のロイヤリティーも萎え果てた上に、将来への不安だけが、進行してゆくのであろうか?

滅多にじっくり見ない求人広告の紙面の裏側では、きっと、様々な表舞台には出てこない様々な事象が、まさに、現在進行中なのであろうことは、容易に、想像がつく。Gig Economyのような形のネットを通じた似而非個人事業主のような形態の非正規雇用型の労働形態が出始めて、働き方改革などと喧伝されされ始めると、様々な落とし穴が出てきて危うい限りである。ある日、突然、天災や交通事故や、或いは、健康を害して病気になり、寝たきりの状態にでもなれば、貯蓄を崩しながら、或いは、自己資産を切り売りしながら、生計を立ててゆかなければ、あっという間に、<下流老人の仲間入り>をすることになるのであろうか?求人広告を改めて読み直して、色々な問題が垣間見られる。その求人広告紙にも、派遣社員の募集広告が掲載されていた。

映画、パラサイト~半地下の生活を観て:

映画、パラサイト~半地下の生活を観て:

 

平日の昼間だというのに、なかなかの入りである。カンヌ映画祭パルムドール受賞作品であるせいなのだろうか、それとも、今後、日本でも、予想される格差社会招来に対する密かな関心と微妙な最近の日韓関係を危惧している中年韓流マダム達のグループが後押ししているせいだろうか、よく事情は、飲み込めぬが、なかなか、興味深いものがある。

それにしても、多少はブラックコメディー風な筋書きであるものの、映画を観る立場の側の観客からすれば、心の奥底では、ひょっとしたら、上流富裕階層に寄生するパラサイト生活がヒョッとしたら、うまくゆき、ハッピーエンドに終わるのではないかと、淡い期待を抱かせてしまうものであるが、映画の脚本とは、そもそも、そんなに甘いものではないのが、この映画を見終わって初めて知ることになる。ネタバレは決してしないで貰いたいというポン・ジュノ監督の気持ちも分からなくはない。

日本では、半地下なる方向へ向かうのではなくて、寧ろ、上へ上へと高層化を果たしたのに対して、1960年代の北朝鮮と対峙してきたという政治的・軍事的な状況から、どうしても、地下壕や地下室避難は、不可欠な建築様式でもあり、成る程、有事の避難場所であることを推奨されたことも、納得されるものがある。そのことは、映画の中でも、奇しくも同じような境遇であることを共通項に持つ二つの家族の地下生活家族同士の会話の中にも、金正恩のおなじみの演説の応酬にも垣間見られて面白い。

それにしても、半地下式の<窓>を通じて、<社会の窓>を<下から上へ><高低差>として眺めることは、如何にも、現実社会の<階級格差の上下階層>を象徴しているようであるし、様々な場面で展開される、<階段や石段>も、そして、そこから<躓いたり、転げ落ちる>行為なるものも、又、<中産階級からの転落・没落を暗示>しているとも考えられる。それは考えすぎだろうか?それとも、<まだ、没落を実感していない人間の上から目線的余裕>なのであろうか?

 人生は、自分の意図した計画通りに、進むものでもないし、むしろ、予期せぬ方向へと現実は自分を推し進めてゆくものであることを、改めて父と息子は洪水被害に遭って命からがら逃げてきた避難所でしみじみと、友人の祖父から譲り受けた<山水景石>を金運の象徴の如く、持ち出すのも、何か、自分の中で、<譲れないもの>、一種の誇りのようなもののようにも、目に映ってしまう。それにしても、父にしても様々な事業に失敗し、母にしても、スポーツ競技の中で、大成できず、主人公も、大学受験に何度も失敗し、妹にしても、まんまと絵画心療療法なるものを使って、優れたコンピューター・スキルがあるにも関わらず、気軽な感じで、いとも簡単に、まるで、タマネギ男と揶揄されたどこかの国の前法相の妻同様に、いとも簡単に、美術大学の在学証明省を私文書偽造してしまうことは、一度、失敗して、階段を踏み外してしまうと、<敗者復活制度>がなく、又、<セイフティー・ネット>という網からも、外れてしまうことになるのかもしれない。否、そんなものすら存在することのない、<非情な競争社会制度>であり、だからこそ、芸能人の韓流歌手でも、自殺率外乗に高い社会背景があるのかもしれない。

まるで、大雨の豪雨は、何もかも流し去ってくれるし、あたかも、それは、万人に平等であるかのように、<罪も悪も>等しく、帳消しにしてくれることを暗示しているのであろうか?それでも、どんなに、分をわきまえつつも、一線を越えないという父親の運転手としての矜持も、所詮は、突然の雷鳴の轟きの如く、<貧しさの臭い>というものは、着衣に、染みついている<かび臭い、すえたような、下水や汚水が、丁度、マンホールの蓋から逆流して溢れてきたような臭い>が、子どもには、それとなく、分かってしまうものなのであろうか?臭いと謂えば、昔、50年ほども前、新入社員時代に、韓国の取引先の関係者と金浦空港に入国するときの臭いが、キムチ臭がすると私の上司が言ったところ、それなら、羽田空港は、どんな臭いがするだろうかと議論になり、味噌汁か、たくあん臭いねなどと冗談交じりに話したことを想い出す。もはや今日では、日本の公衆トイレも含めて、消臭付き設備で、あのおつりの来る独特な臭いのする和式便所から、快適な化粧室空間へと世界的にも評価が上がってきているのは、何ともおかしな風景である。あの当時の韓国の取引先の関係者達は、50年後の今日どうしていることだろうか?この映画を観ているだろうか?

尤も、我々の中に潜むところの<心理的な臭いによる差別感>というものは、それが、トリガーとなり、やがて、映画の中でみられた、父親の目付きのなかに、微妙に変化が現れていて、それが、<怒りへと転嫁・醸成>されていくようである。尤も、韓国での経営者に対するリスペクトという言葉は、余り、日本人には、理解出来ないものがあるかもしれないし、緑の芝生での息子のお誕生日会のパーティー設営の際のテーブルの並べ方にも、日本に対する歴史認識が、垣間見られて、なかなか、手が込んでいて面白い。

<父子の関係性>というものも、母子との関係性とは若干、別なものとして如何にも、男子中心の儒教の影響の濃い見方が、富裕層にも貧乏人の中でも<共通な心情>を描かれていることは、実に興味深い。主人公が、奇跡的に、回復し、父に手紙を出す中で、もう一度やり直して、未来に希望を見いだし、父とのいつの日にかの再会を果たそうとする意思表示(迎い入れようとする幻想的な希望?)には、何か、やるせない、もはや、この社会には<そう選択せざるを得ないような現実しかないのか!>と、父子のほのぼのとした関係を感じると共に、実に、やるせない忸怩たる思いを感じざるを得ないのは、<これが逃げられない現実社会なのか>と、複雑な思いで、エンディングを迎える。主題曲の訳詞にある、<爪の隙間に染みこむ垢が湿ってくる>という言葉は、映画の中でみられた<父の両脚裏の黒さ>とも重ね合わせると、思わず、自分の爪と脚裏を見つめ直してしまう。それにしても、映画を鑑賞していて、いつも、感じる事であるが、どうして、一部の観客は、最期のエンディング・ロールに流れる音楽と終了後の映画鑑賞後の余韻を、愉しむことなく、そそくさと、まだ暗い中で、出口へと向かうのであろうか?誠に、勿体ない、犯罪的な所業で、映画制作者への敬意もない、冒涜にしか他ならないのではないだろうか?実にこのマナーは、残念である。一連の映画でも、<ジョーカー>、<万引家族>、<パラサイト>と、米国・日本・韓国とそれぞれに共通する課題である<格差社会>をみてきたが、どれ一つとっても、映画の中の出来事であるとは思えないのは、<余りにも重い現実>で、<それぞれに登場する子供達>は、その後、一体、どうなっているのであろうかと思いを巡らせると、実に、<心苦しく、心痛い思い>がする。それは映画の上でのエンディングとは別に、観客が想像するしかないけれども、、、、、、。

映画館のパンフレットを見ていると、これからは、2月には、斎藤工初監督による、<コンプライアンス>、中学生の頃に読んだ<ジャック・ロンドンの野生の呼び声>の映画化作品、3月に、<三島由起夫と東大全共闘(50年目の真実)>、5月には、司馬遼太郎の<燃えよ剣>の映画化、他にも、問題作の<岬の兄妹>など、映画鑑賞も忙しそうである。