小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

人は死して後、ヒトを残せるのか?:追悼野村克也

人は死して後、ヒトを残せるのか?:追悼野村克也

 

小さな子どもの頃は、23区内でも、家の周りには、未だ、空き地や雑木林が散在していて、友達同士で、ゴロ・ベースや三角ベースで、野球を、学校帰りには、陽が暮れるのも忘れて、暗くなってから、帰宅して、よく、母親から叱られたものである。その頃は、遊びやスポーツと謂えば、今日のように、多様化していなくて、サッカーとか、Vリーグとかではなくて、相撲か、野球と相場が決まっていたものである。

子どもの詠む少年誌には、必ずと言って良いほど、その当時のスタープレイヤーが、バットを持って、或いは、グローブを振りかぶって、今にも剛速球を投げそうな写真が、表紙を飾っていたものである。千葉・大下・川上や、稲尾や中西や、杉下、金田とか、往年の名選手達が、そして、その後の世代では、長嶋・王・野村・張本と続いたものである。そんな中で、三原の西鉄黄金時代の後から、南海で現役選手兼任で、監督に就任した野村のことは、どういうわけか、記憶に残っている。確か、就任した頃は、余り成績が振るわず、やはり、名選手は、必ずしも、監督としては成功しないものであると、喧伝されたことを思い起こす。後に、監督に就任した金田や長嶋も、皮肉にも、就任間もない頃は、似たような結果に陥ることになるのであるが、同じ日本一を勝ち得ても、野村語録のような、或いは、野村再生工場のような、そんな<ヒトを育てる>という、<死して、虎は皮を残す>というような評価は、残すことはなかった。今や、<昔の巨人・大鵬・卵焼き>の世代には、今日の金権まみれの渡辺路線には、大いに、違和感を覚えることになろう。

それとは対照的に、野村は、ID野球と称して、頭を使うこと、プレイヤーの前に、<考えるヒトを作ること>を、育てることに、舵を切ることになる。確かに、それは、勝者の論理に対抗すべき<弱者の論理>だったのかもしれない。今日の育成選手を一軍に、あげてゆくような手法なのかもしれない。なかなか、<野村語録>というモノは、興味深いものがある。<勝ちに不思議の勝ちあり、負けに、不思議の負けはなし>、成る程、これはもはや、まるであの<失敗の本質>をわかりやすく謂っているようなものである。

それにしても、野球の監督業というモノは、優勝すれば、そのリーダーシップや野球理論に関する書物が、公開されて、まるで、あまたあるゴルフ理論のようなモノで、三原マジックの路代、川上の哲のカーテン、西本・仰木の時代、<勝てば官軍>ではないが、勝ち将軍の監督は、<商品の賞味期限と同じ>で、いつの日にか、劣化が始まるし、選手の世代交代は、長嶋や王の引退後の例をみるまでもなく、悲惨なものがある。監督業とは、コーチ業との差は、一体どこにあるのであろうか、私は、相撲やボクシングを見ていて、いつも、不思議に思えるのは、システムとして、ボクシングのように、具体的な名伯楽コーチが存在しているのに対して、相撲などは、旧態依然たるしごき体質が蔓延していて、相変わらず、近代的な合理的な分業態勢ではない。恐らく、野村が監督をしていた時代のコーチは、誰だったのであろうか?選手は、確かに、小早川や山崎のような野村再生工場の代表格はわかりやすいし、又、赤星などの走塁の分業専門家を育成発掘したことなど、納得できるが、それならば、何故、直接薫陶を得た古田のような選手は、監督として、成功しえなかったのであろうか?どこにその差は、あるのであろうか?戦争孤児・母子家庭の赤貧の中で育ち、ユニフォームも買えない中で、野球に励み、甲子園とも無縁な中で、閑古鳥の鳴くパリーグの球場で、ひたすら、まばゆい太陽を夢見つつ、月を眺めながら、自らを<月見草>と揶揄してきた、反骨の人生は、ぼやきを、<その選手の性格やTPO>に応じて、使い分ける手法は、まさに、人生そのもの、普遍的な人の生き方、処世術にも、繋がるモノではなかろうか?

昔、<数字の裏を読め>とよく言われたが、ID野球もビッグ・データ分析野球も、結局は、昔の鉄道系や新聞社系から、今や、IT関連企業に変貌しつつある以上、本来ならば、ソフトバンク楽天も、或いは、DNAにしても、もっともっと、素晴らしい成績をビッグ・データから解析して、活用できるはずだが、そうもゆかないところをみると、やはり、<データを解析するヒト>次第なのであろうか?やはり、泥臭い話なのであろうか?

それにしても、杉下も稲尾も金田も、そして、後任として、バトンタッチした星野も、そして、野村が鬼籍に入り、もう残るのは、ライバルだった巨人のOBだけだろうか?何とも、さみしい限りである。新たなヒーローと野村イズムを継承発展させられる人間の登場を待ち望むのは、ひとり、私だけではなかろう。球春も、間近である。

 

絵本、<いつでも会える>を読む:

絵本、<いつでも会える>を読む:

 

1999年に、ボローニャ国際児童図書展児童賞の特別賞を受賞し欧州各国で100万部以上を販売した、イラストレーターでもある、菊田まりこ氏による、絵本を電子書籍で読んでみた。もう愛犬の介護を終えてから、既に、6年余りの時を経過していても、思わず、読みながら、涙が頬を伝って落ちてきてしまう。

犬の寿命がいくら延びたからと謂っても、普通は、どう見ても、人間の寿命の方が長くて、従って、人間の目からみたところの、<ペット・ロス>が、主眼となるのに、この本の主人公である、<みきちゃんという小さな女の子の子犬のシロ>は、ご主人さまというよりも、むしろ、お友達とでも謂う関係性のみきちゃんと、幸せの真っ只中で、<突然の永遠のお別れ>を、逆に、強いられることになる。いつも、一緒に遊んでいた、一緒に並んでお食事をしていたみきちゃんが、いなくなってしまった。幸福の絶頂から、不幸のどん底へ、子犬のシロは突き落とされてしまう。病死なのか、事故死なのか?理由は分からぬが、<突然のお別れ>だけは、間違いない現実であることは、否定しがたい事実である。どこを探しても、いない、いつも一緒にいたのに、隣にはいない、<ずっと、一緒にいられると思っていた>のに、悲しくて、とても、さみしくて、せつなくて、、、、、、、。そして、ある日、子犬のシロは、<目をつむってと、考える>と、みきちゃんのなつかしい声が、聞こえてきて、<今も、これからも、ずっと変わらない>、<まぶたのうちで、僕らは変わらない、あの時のまま>、<とおくて近いところにいたんだね>と、、、、、、、改めて納得するのです。

 一緒に生活していたペット・ロスという視点とは逆に、子犬のシロは、人間の子どもに置き換えても、或いは、家族や長年生活を共にした連れ合いだったり、様々なシーンの中で、突然の別れを受け入れ、そして、立ち直る力を取り戻せるのかを、考えさせられるものがある。我が愛犬は、3ヶ月の保護犬で、口笛の呼びかけに応じて、自分から近寄ってきてから、18歳4ヶ月の齢を全うしたが、考えてみれば、一緒にかわいがってくれていた子供達の成長や成人の日や独立を見送ったし、父や母との別れをも見送ってくれたわけであり、最期は、私が看取ってあげたわけだが、<動物の一生から、人の一生を勉強させて貰った>わけである。ちいさな子供達と共に、一緒に、読み聞かせたい絵本である。

我が家では、部屋中に、亡き愛犬の写真や絵やイラスト画を、飾ってあり、<いつでも会えるように>、<いつも、変わらず、一緒である>。

 

求人広告から透けて見えるもの:

求人広告から透けて見えるもの:

 

眼が衰えてきたせいか、新聞の広告なども、昔は、マーケティングの為に、結構詳細に、読んだものであるが、この歳では、もうそんな必要ないから、目もくれなくなってしまった。たまたま、新聞を読もうかと思い、開いたところ、中から<地域限定の求人広告>、<しごと情報のチラシ>が、まとまってパラリと出てきた。今更、<人生100年、定年70歳>まで、働こうというわけでもあるまいが、何気なしに、内容をチラ見していたら、見事に、その内容に吸い込まれるように、隅から隅までじっくりと読み進んでしまった。

なかなか、紙面構成もよく出来ていて、QRコードまで、印刷されていて、直接、携帯電話からもアクセス出来るし、雇用形態別(正社員・アルバイト・パート・契約社員・嘱託社員・派遣社員・職業紹介・職員・業務委託・その他)、待遇条件別アイコン(交通費支給・日払い可・週払い可・未経験者歓迎・社会保険有り・長期雇用・短期雇用・土日祝休み・週一日・制服貸与・高校生可・扶養控除内考慮・食事付き・深夜勤務・寮完備・車通勤可)、そして、仕事内容、給与、勤務場所、実働勤務期間、休暇、待遇、資格、イメージ写真、こんな内容で、検索も容易である。

仮に、自分の希望ではなく、客観的に、<年齢と資格と職歴と肉体的条件>を考慮しながら、読み進んでゆくと、確かに、仕事も限定され、結局、パソコン事務、データ入力作業、社員寮やマンションの管理人か、学校の用務員勤務くらいしかないわけで、炎天下で長時間屋外で立ち続けながら、トイレも我慢し続けることも無理であるし、スーパーやレストランでのホール接客や店内スタッフも、無愛想な年寄りが今更口角を上げて笑顔を取り繕うことも難しそうである。足や腰を曲げたり、かがみ込みながらのトイレやビルのオフィス清掃作業も、もはや、早朝・深夜勤務も含めて、如何なものであろうか?保育士の資格や栄養管理士・調理師や薬剤師の資格もなく、普通免許でも出来るデイ・ケア・センターでの送迎の運転手か、結構ハードな配送補助要員か、今更ウーバー・イーツのような外食宅配デリバリーや薬の配送配達員でもあるまいし、どんなに、マシュマロみたいな先輩指導員(そのような表現がしてある)が、丁寧にマニュアルを教えてくれようが、<専門知識も経験なくても>、<性別・年齢不問>、<お友達同士応募歓迎>、<未経験者大歓迎・><履歴書不要>、<意欲次第・積極採用>という言葉の裏には、<人手不足>というキーワードが、見え隠れする。

それにしても、どうやら、AIがどんなに発達しようが、最終的に運搬する作業や清掃する作業やもちろん、無人化店舗の実験とかドローンでの配達やロボット接客の実験が進行中であるものの、当分は、まだまだ、<AIに取って代わられることはない>であろうし、自動作業ではなくて、飽くまでも作業支援や補助的な立場が、<人間には未だ保証されている>ように思われる。それでも、実質賃金が伸びることなく、果てしなく、労働形態が細分化され、待遇・雇用形態も、一見、個々人の労働ニーズの多様性に応じているかの如く、きらびやかにみられるが、果たして、本当に、それは<働き手の立場に立ったものであるかどうか>は疑わしいものがある。今日、ありとあらゆる場面に、民営化による<下請け業務委託方式>が、蔓延しており、機械化に加えて、<人材派遣業務>自体が、区役所でも、会社のデータ入力でも、受付でも、家庭内でも、様々な形で細分化された上に、成立しているように思われる。時給@1000円で、8時間毎日働き、月20日勤務しても、月16万円でしかなく、25日でも、月20万円であり、果たして手取り実質賃金は、いくらくらいになり、残業手当がなくて、幸福な生活満足度が得られるのであろうか?

現在、26種の通訳などの特定業種に限定されている派遣社員契約期間も、今後は、女性登用拡大の名の下に、無期限に、如何なる職業へも拡大、適用される恐れがでてきつつある。黒字決算の上場企業の中ですら、40-50歳代の中間管理職への合理化レイ・オフ、人件費の削減、人員削減を実施しつつあり、何が何でも、固定費の削減の方向へと向かってゆく中で、65歳、或いは、70歳定年制の方向性とは別に、ハッキリとした安い労働力の確保を、全く、実質賃金の上昇を行うことなく、徐々に、組織のロイヤリティーも萎え果てた上に、将来への不安だけが、進行してゆくのであろうか?

滅多にじっくり見ない求人広告の紙面の裏側では、きっと、様々な表舞台には出てこない様々な事象が、まさに、現在進行中なのであろうことは、容易に、想像がつく。Gig Economyのような形のネットを通じた似而非個人事業主のような形態の非正規雇用型の労働形態が出始めて、働き方改革などと喧伝されされ始めると、様々な落とし穴が出てきて危うい限りである。ある日、突然、天災や交通事故や、或いは、健康を害して病気になり、寝たきりの状態にでもなれば、貯蓄を崩しながら、或いは、自己資産を切り売りしながら、生計を立ててゆかなければ、あっという間に、<下流老人の仲間入り>をすることになるのであろうか?求人広告を改めて読み直して、色々な問題が垣間見られる。その求人広告紙にも、派遣社員の募集広告が掲載されていた。

映画、パラサイト~半地下の生活を観て:

映画、パラサイト~半地下の生活を観て:

 

平日の昼間だというのに、なかなかの入りである。カンヌ映画祭パルムドール受賞作品であるせいなのだろうか、それとも、今後、日本でも、予想される格差社会招来に対する密かな関心と微妙な最近の日韓関係を危惧している中年韓流マダム達のグループが後押ししているせいだろうか、よく事情は、飲み込めぬが、なかなか、興味深いものがある。

それにしても、多少はブラックコメディー風な筋書きであるものの、映画を観る立場の側の観客からすれば、心の奥底では、ひょっとしたら、上流富裕階層に寄生するパラサイト生活がヒョッとしたら、うまくゆき、ハッピーエンドに終わるのではないかと、淡い期待を抱かせてしまうものであるが、映画の脚本とは、そもそも、そんなに甘いものではないのが、この映画を見終わって初めて知ることになる。ネタバレは決してしないで貰いたいというポン・ジュノ監督の気持ちも分からなくはない。

日本では、半地下なる方向へ向かうのではなくて、寧ろ、上へ上へと高層化を果たしたのに対して、1960年代の北朝鮮と対峙してきたという政治的・軍事的な状況から、どうしても、地下壕や地下室避難は、不可欠な建築様式でもあり、成る程、有事の避難場所であることを推奨されたことも、納得されるものがある。そのことは、映画の中でも、奇しくも同じような境遇であることを共通項に持つ二つの家族の地下生活家族同士の会話の中にも、金正恩のおなじみの演説の応酬にも垣間見られて面白い。

それにしても、半地下式の<窓>を通じて、<社会の窓>を<下から上へ><高低差>として眺めることは、如何にも、現実社会の<階級格差の上下階層>を象徴しているようであるし、様々な場面で展開される、<階段や石段>も、そして、そこから<躓いたり、転げ落ちる>行為なるものも、又、<中産階級からの転落・没落を暗示>しているとも考えられる。それは考えすぎだろうか?それとも、<まだ、没落を実感していない人間の上から目線的余裕>なのであろうか?

 人生は、自分の意図した計画通りに、進むものでもないし、むしろ、予期せぬ方向へと現実は自分を推し進めてゆくものであることを、改めて父と息子は洪水被害に遭って命からがら逃げてきた避難所でしみじみと、友人の祖父から譲り受けた<山水景石>を金運の象徴の如く、持ち出すのも、何か、自分の中で、<譲れないもの>、一種の誇りのようなもののようにも、目に映ってしまう。それにしても、父にしても様々な事業に失敗し、母にしても、スポーツ競技の中で、大成できず、主人公も、大学受験に何度も失敗し、妹にしても、まんまと絵画心療療法なるものを使って、優れたコンピューター・スキルがあるにも関わらず、気軽な感じで、いとも簡単に、まるで、タマネギ男と揶揄されたどこかの国の前法相の妻同様に、いとも簡単に、美術大学の在学証明省を私文書偽造してしまうことは、一度、失敗して、階段を踏み外してしまうと、<敗者復活制度>がなく、又、<セイフティー・ネット>という網からも、外れてしまうことになるのかもしれない。否、そんなものすら存在することのない、<非情な競争社会制度>であり、だからこそ、芸能人の韓流歌手でも、自殺率外乗に高い社会背景があるのかもしれない。

まるで、大雨の豪雨は、何もかも流し去ってくれるし、あたかも、それは、万人に平等であるかのように、<罪も悪も>等しく、帳消しにしてくれることを暗示しているのであろうか?それでも、どんなに、分をわきまえつつも、一線を越えないという父親の運転手としての矜持も、所詮は、突然の雷鳴の轟きの如く、<貧しさの臭い>というものは、着衣に、染みついている<かび臭い、すえたような、下水や汚水が、丁度、マンホールの蓋から逆流して溢れてきたような臭い>が、子どもには、それとなく、分かってしまうものなのであろうか?臭いと謂えば、昔、50年ほども前、新入社員時代に、韓国の取引先の関係者と金浦空港に入国するときの臭いが、キムチ臭がすると私の上司が言ったところ、それなら、羽田空港は、どんな臭いがするだろうかと議論になり、味噌汁か、たくあん臭いねなどと冗談交じりに話したことを想い出す。もはや今日では、日本の公衆トイレも含めて、消臭付き設備で、あのおつりの来る独特な臭いのする和式便所から、快適な化粧室空間へと世界的にも評価が上がってきているのは、何ともおかしな風景である。あの当時の韓国の取引先の関係者達は、50年後の今日どうしていることだろうか?この映画を観ているだろうか?

尤も、我々の中に潜むところの<心理的な臭いによる差別感>というものは、それが、トリガーとなり、やがて、映画の中でみられた、父親の目付きのなかに、微妙に変化が現れていて、それが、<怒りへと転嫁・醸成>されていくようである。尤も、韓国での経営者に対するリスペクトという言葉は、余り、日本人には、理解出来ないものがあるかもしれないし、緑の芝生での息子のお誕生日会のパーティー設営の際のテーブルの並べ方にも、日本に対する歴史認識が、垣間見られて、なかなか、手が込んでいて面白い。

<父子の関係性>というものも、母子との関係性とは若干、別なものとして如何にも、男子中心の儒教の影響の濃い見方が、富裕層にも貧乏人の中でも<共通な心情>を描かれていることは、実に興味深い。主人公が、奇跡的に、回復し、父に手紙を出す中で、もう一度やり直して、未来に希望を見いだし、父とのいつの日にかの再会を果たそうとする意思表示(迎い入れようとする幻想的な希望?)には、何か、やるせない、もはや、この社会には<そう選択せざるを得ないような現実しかないのか!>と、父子のほのぼのとした関係を感じると共に、実に、やるせない忸怩たる思いを感じざるを得ないのは、<これが逃げられない現実社会なのか>と、複雑な思いで、エンディングを迎える。主題曲の訳詞にある、<爪の隙間に染みこむ垢が湿ってくる>という言葉は、映画の中でみられた<父の両脚裏の黒さ>とも重ね合わせると、思わず、自分の爪と脚裏を見つめ直してしまう。それにしても、映画を鑑賞していて、いつも、感じる事であるが、どうして、一部の観客は、最期のエンディング・ロールに流れる音楽と終了後の映画鑑賞後の余韻を、愉しむことなく、そそくさと、まだ暗い中で、出口へと向かうのであろうか?誠に、勿体ない、犯罪的な所業で、映画制作者への敬意もない、冒涜にしか他ならないのではないだろうか?実にこのマナーは、残念である。一連の映画でも、<ジョーカー>、<万引家族>、<パラサイト>と、米国・日本・韓国とそれぞれに共通する課題である<格差社会>をみてきたが、どれ一つとっても、映画の中の出来事であるとは思えないのは、<余りにも重い現実>で、<それぞれに登場する子供達>は、その後、一体、どうなっているのであろうかと思いを巡らせると、実に、<心苦しく、心痛い思い>がする。それは映画の上でのエンディングとは別に、観客が想像するしかないけれども、、、、、、。

映画館のパンフレットを見ていると、これからは、2月には、斎藤工初監督による、<コンプライアンス>、中学生の頃に読んだ<ジャック・ロンドンの野生の呼び声>の映画化作品、3月に、<三島由起夫と東大全共闘(50年目の真実)>、5月には、司馬遼太郎の<燃えよ剣>の映画化、他にも、問題作の<岬の兄妹>など、映画鑑賞も忙しそうである。

 

 

ゴーン会見から何を学ぶか?:

ゴーン会見から何を学ぶか?:

 

国法を犯してまで、国外逃亡、密航を果たした等というまるで、幕末時代の吉田松陰の密航を想い出させるような報道であるが、その志は、全く、<天と地の違い>で、レバノンでの自作自演のPR会社と綿密に打ち合わせた協同ショーの効果は、残念ながら、同じ時間帯に生じたトランプの対イランからの攻撃に対する声明に、引きずられる形で、相殺されてしまった感じが、なきにしもあらずである。

それにしても、日本における<人質司法制度>や<取り締まり時点での弁護士の立ち会いがないこと>、或いは、<取り調べでの可視化>とか、<ミランダ警告・自己負罪拒否権>・<司法取引手法>とか、様々な問題が、日本の警察司法制度にはあるにせよ、莫大な金額の<金融商取引法違反や会社法違反による背任横領の容疑>で、保釈中での身柄であるにもかかわらず、カネにものをいわせて、密出国した事実は、どのように、自身の身の潔白を、司法の場以外の空間で、国際世論を味方につけようとしても、なかなか、日本では、或いは、世界的にも、理解されないであろうと思われる。尤も、そもそも、日本や、日本人をターゲット相手に想定しているとも思えない。逆に、日本人というものは、いつまで経っても、<内向きの密室仲間内議論>ばかりであって、決して、<外部へ、世界に向かって発信することを前提にはしていない>ことは、誠に、残念である。

嬉々として、これまでの鬱憤を払うかの如く、<多言語での情報発信者であるゴーン被告>は、まるで、新車発表会のプレゼンテーション張りの独演会であるのに対して、受け手であるメディアの方は、日本側の同時通訳者にしても、結局、英語・フランス語のみで、全く、アラビア語(レバノン)・ポルトガル語(ブラジル)に至っては、何を話しているのか、さっぱり、解らなかったのは、極めて、残念な事である。レバノンの国法である、イスラエル渡航を禁止しているにもかかわらず、そして、ルノー時代には、渡航していることが、問題視されているにも関わらず、イスラエルという言葉は聞き取れたものの、具体的に何を質疑応答しているのかは、解らなかったことは、極めて、残念な事である。それにしても、<選ばれし日本側の記者達>は、一体、どんな真実を追求し、質問できたのであろうか?政府関係者の名前も、エビデンスも公表すると謂っていたにも関わらず、全く、肩すかしであったし、密出国という罪を訴追されることを恐れたのか、或いは、レバノン政府との裏取引での国内外での協力者が、暴露されるのを恐れたのか、今後、小出しにしてくることが、考えられるものの、果たして、どれほどの<日本人が知らない真実>が、あるのであろうか?ドキュメンタリー・番組や、多国語言語で翻訳された暴露本でも作って、高く、メディア関係者に、商業主義さながらに、売りつけるのであろうか?そして、それで、果たして、日産と検察とのクーデター陰謀説で、自身の潔白が証明されるのであろうか?

それにしても、本人が、嬉々として、話せば話すほど、或いは、ジェスチャーたっぷりに、質問に答えれば答えるほど、本質論から、はぐらかされた挙げ句に、<議論のすり替え>で、まるで、<どこかの国の首相にそっくり似てくる>不毛な様相を呈し始めてくる。それにしても、原稿もなしに、1時間以上、4カ国語で、まくし立てられるだけのエネルギーは、流石、百戦錬磨の多国籍グローバル企業経営者で、その点では、たいしたものである。これに対して、深夜での日本の法務大臣の記者会見は、全く、難しい日本語の専用語の羅列で、一体、世界に対して、これで、情報発信やカウンター・メッセージを送っていることになるのであろうか?法務省にも、英語やフランス語・アラビア語ポルトガル語が、堪能な人間はいるはずで、韓国のミサイル照射事件の時もそうであったが、<多国語言語での広報>の在り方は、全く、問題解決に至ってないこと奇しくも露呈してしまった。英語だけでも、情報発信すれば、日本語の一億人に対して、恐らく、一桁以上の数のオーディエンスに達するであろうが、極めて、残念な対応である。全く、グローバルな広報が当たり前な時代に、前時代的な、内向きな対応は、英語の入試延期問題にも共通するような問題である。

今更ICPOに妻の逮捕請求をしたところで、やらないよりはましかもしれぬが、何故、ファーウェイの副社長のカナダでのGPS機器装着の拘束などにみられるような対応が、裁判所内で、検討されなかったのであろうか?如何にも、お上の中でのガイジン・アレルギーが、はびこっていることを露呈するだけではなくて、旧来型の人間が、旧内務省的な人材から、今日でも、脱皮し切れていないことを、国内外に、奇しくも、露呈してしまったようである。一体、いつになったら、<多国語言語で、同時に、リアルタイムで、グローバルに、意思表示を行える>国に、日本はなれるのであろうか? 何とも、ライブ映像をネットでみていながら、心寒い思いがしたことは、残念至極である。もう、若い人達に期待する以外に手はないのであろうか?おおいに、考えさせられた。

 

HD違法売買と個人情報漏洩におもう:

HD違法売買と個人情報漏洩におもう:

そもそも、名刺を交換した段階から、或いは、メール・アドレスを一度公開しただけでも、既にこの時点から、個人情報の漏洩が、スタートするといわれているが、それにしても、個人情報の保存されているHDを消去・廃棄する専門の会社の従業員が、小遣い銭稼ぎに、自分の事務所に、窃盗目的で侵入して、その盗んだHDをオークションに販売するとは、一体、管理そのものが、どうなっているのかと全く、首をひねりたくなってしまう。一体全体、どうなっているのであろうか?

 そんなものが、オークション自体に出品されることすら、私は、知らなかったので、全く、驚愕の一言である。購入した人間が善意の購入者だったから、まだしも、これが、反社会的な勢力だったら、どうなっているのかと思うだけでも、ゾクッとしまう。HDデータ消去を専門にしている会社自体の内部監査システムもさることながら、民間の業者で、何の資格も、肝心要のセキュリティ対策も法的にないとは、全く、お粗末な限りである。しかも、オークションにしても基本的に、そもそも、盗品かどうかを、全くスクリーニングすることなく、自由に売買出来ること自体も、オークション主催者という存在も、実に、不可思議な存在である。自分は、ヤフオクとか、オークション自体をこれまで活用してこなかったし、又、その仕組み自体を余り信用していないから、今流行のメルカリなどは、きっと盗品だらけなのかもしれない。いや、もう既に、どこかの反社会組織などは、きっと巧妙に、窃盗団とオークションサイトと資金洗浄を分業として、<一種のビジネスモデルを構築>して、海外窃盗団の組織的なグループ・ネットを構築して、巧みに、名簿業者なども含めて、ある種の詐欺名簿やそれこそ、私は1億円以上の現金や宝石を持っていますよなどと脳天気な人間の名簿も、情報管理しているのかもしれない。

 逆に、こういう状況が全く夢物語ではないとすると、コンビニで、1回500円くらいでも、支払ってPCのHDデータを強力な磁気で、瞬時に、自分の手で消去するというサービスも、成立するかもしれない。自らの安全と個人情報を自らの手で、如何にして守るのか?本当に困ったことである。外付けHDではなくて、サーバー上のクラウドに、MSNのOne Drive やGoogleGoogle Drive等に、保管されている膨大な写真や文書データなどは、一体全体、個人情報が担保されているのであろうか?そういえば、利用する前に、細かな契約書を、読んだような、読んでいないような記憶が全く不確かな状態で、現在進行形で利用しているように、思えなくもない。尤も、保管されているデータも、何でも、突然気がつくと、<ゴミ箱に移管されていて、データが見当たらない>ことがあるようにも、風聞しているが、、、、本当に、大丈夫なのであろうか?

 昨今、GAFAではないが、FB等でも、広告や宣伝、或いは、お薦め商品も、膨大なデータを情報処理した上で、特定の個人向けに、ピン・ポイントで、あちら側から(?)、一体どこからなのであろうか(?)知らぬ間に、送られてくる。そもそも、御願いもしていないにも関わらず、<あちら側>から、常時、送られてくると謂う手法が、<常態化してきつつ>ある。もうこうなると、ステルス・マーケティングどころか、はっきりと、あちら側は、<ある種の目的意識と明確な意図>の下に、<情報操作と無意識化>を、狙っているのではないかとも、実感してしまう。さすがに、法的な規制を掛けて、個人情報の利用拒否とか、クッキーの規制とかを、選択制にすることを考えているようだが、本当に、そんな規制で、<自己防衛が担保できる>のであろうか?IT技術やAI技術は、遙かに、我々の想像を超えたスピードを以て、凌駕してしまうのではなかろうか?嘗て、スノーデンが、関わっていたように、どこかで、密かに、<情報管理と操作と漏洩>とが、一つのパッケージとなって、売買される危険性がないとも言えない。危険性ではなくして、そういう<事実が既に過去にあった>こと、又、依然として、<現在も進行中である>こと。

 既に、銀行は、フィンテックに押される形で、これまでの長い歴史の中で、蓄積されてきた個人の信用情報の売買、もちろん、個々人の許諾条件という括弧付きではあるものの、志向・趣味・年収・家族構成・資産内容、ありとあらゆる分野の情報も、これからは、銀行だけではなくて、全ての業種や分野を超越して、<膨大な個人情報の売買>が、可能になる時代が、既に、<本人だけが気がつかないだけ>で、密かに、現在進行形で、足許から、揺らぎ始めているのかもしれない。一歩外に出れば、スマホGPSが、どこに、何時に出かけ、何を購入し、POSデータと共に、紐付けされて、瞬時に、購買理由と履歴が分析され、需要予測から、次回購入時予定日や、お薦め商品の案内が来る仕組みが、何も、歩いてお出かけするだけではなくて、鉄道でもバスでも自動車でも、あらゆる交通手段と紐付きで、きっと、密かに、この人物は、毎週金曜日の夜には、国会デモに参加しているとかも、<あちら側は、合点承知の助>なのかもしれない。マイ・ナンバーで、e-TAX申告をしている以上、もはや、GPS地図情報サービスの常時設定をOFFにしていても、それだけでは済まされない状況なのかもしれない。

 昔は、電話帳に、自分の自宅の電話番号を載せなければ、むやみやたらに、見知らぬ人間から、電話が掛かってこない旧きよき時代が、あったかもしれないが、今日、クーポンはいじめ、<お得な情報>という形で、ありとあらゆる形で、<あちら側から>有無を言わさずにやってくる時代である。確かに、忙しい時代である。そして、便利な反面、<危うい時代>でもある。今般。改めて、このニュース報道に接するに際して、全く、考えさせられた次第である。そう思いつつも、<無人島暮らし>を選択できるほどの勇気も、もはや、ないが、、、、、どうしたものであろうか?どのように、生き残り、どのようにして、もう少し、生きていかねばならないのであろうか?

 

 

M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式  

M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式

 

何年かぶりかに、M1グランプリをたまたま、テレビで観る機会を得たが、同時に、その優勝者の決定後にネットのGYAOで、配信された<忖度なしの反省会>というものを併せて観た。成る程、テレビというものも、今や、ネットでの裏番組に、押されるわけで、一般的な上っ面だけでの評論とは、別の面白みが、ネット配信にはあることが、容易に理解されよう。つまり、<笑いの科学>というか、<笑いの方程式>というものが、わかりやすく解説されていて、興味深いものがある。漫才とか、コントなども、演者だけではなくて、原作者をもっと、明らかにして、歌手だけでなくて、作詞家・作曲家ではないが、放送作家やコント作家も名前を公表してみたら如何なものであろうか?むしろ、芥川賞などの作家のデビューを手助けするように、<若手のコント作家を広く公募>して、笑いの方程式や笑いの科学の新たな試みを試すような機会を創出するべきではないだろうか?実際、漫才師は、突っ込みやぼけのどちらかが、原作を作る傾向がある以上、笑い飯のネット上での解説には、一定の重みが感じられた。ボケとツッコミとの往復とか、観客との対話とか、或いは、昔のコント55号が初めて使った掟破りと謂われる画面の横へのはみ出し移動と、(身長差による)縦の伸縮などの手法とか、言葉だけでなくて、様々な視覚的なテクニックとか、言葉というツールを使いながら、笑いの方程式を、次々に、緻密に、論じてゆくものである。どうやら、唯単に、浮かれた感じのおちゃらけやブサイクやキモカワイイを売り物にするキャラクターだけでは、笑いの方程式は完成せず、観客の笑いは、とれないらしい。その意味で、優勝した関東では無名に近いミルクボーイよりも、既に実績のあるかまいたちの方が、<玄人受けする複雑な方程式を提示>していたような気がしてならない。尤も、既にキング・オブ・コントでの実績がある以上、業界的には、苦節10数年のテレビでは無名に近い実績の無い、ミルクボーイの方が、コーンフレークや最中というキー・ワードの中での展開の方を、テレビ的には、吉本興行的には、優先されていたのではないだろうか?業界的には、その方が、丸く各方面の関係筋には良かったことであろうし、優勝者も、次点も、3位も、全て美味しいものではないだろうか?尤も、気の毒なのは、敗者復活からのし上がってきた和牛こそが、冷や飯を食わされたようである。おまけに上沼恵美子から、余計なコメントまでもらった挙げ句に、決定戦を準備中に敗退してしまったことは、悔やまれようが、既に、ある程度の実績を残している以上、仕方ないことではなろうか、ここは、<煮え湯を飲むという選択肢>もやむを得ないのではないだろうか?優勝者を決定するというテレビ的な手法の前では、確かに、<くじ運による順番>も、この<笑いの科学>の前には、方程式通りとはゆかないわけで、<松本人志の特異のツッコミ役の持論>は別にして、インディアンズにしても、ナイツの土屋がコメントしていたように、斬新な歌による掛け合い漫才も、所詮は、トップ・バッターによるある種の基準点のような意味合いも有り、本来は、何らかの+加点でも与えてあげなければ、<審査員による好悪という壁>の前では、撃沈されてしまわざるを得ないのかもしれない。それも又、<ある種の不運>なのかもしれない。それにしても、優勝することで、一夜にして、その知名度が上がり、その瞬間から、その人生も一変するわけだから、厳しいといえば、厳しいものがある。尤も、それすらも、実力がなければ、その後の一年後の活動も、持たないわけであるから、余程、実力が無ければ、全く、話にならないことは、この世界では、当たり前なのかもしれない。それにしても、吉本の会社組織を挙げてのバック・アップ支援と漫才を試す機会を劇場ライブも含めて、総力を挙げて実現する手法は、古典的な寄席中心の落語の世界の営業とは異なり、立川志らく当たりには、羨ましい限りではないだろうか?大御所と謂われる居並ぶ審査員の力量も、<様々な眼に見えない思惑>が垣間見られて、面白いが、それもこれも、GYAOのネット配信でのパンクブーブー麒麟笑い飯、ナイツ、小薮による司会の<忖度なしの解説コメント>のお陰だったのかもしれない。ツイッターによる同時コメントを観ながら、ネット視聴するのも、テレビの副音声とは違った意味での新しい楽しみ方なのかもしれない。久しぶりに、なかなか、面白い<表と裏、建前と本音のM1グランプリ>であった。

映画<JOKER>の<笑いと狂気>

=映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

 

美術館での絵画の鑑賞には、私は、いつも解説のイヤホンを余程のことがない限り、借りることなく、ますは、自分の感性を信じて、自分なりの想像の中で、画家と対話することにしている。ここのところ、幾つかの映画を観ることになったが、映画の場合には、DVDでも、再度、シーンをじっくりと、見直すことも可能であるから、実に面白い。その意味では、この<JOKER - put on a happy face>という映画も、じっくりと、それぞれのシーンやカットに、込められた脚本家・監督・役者・カメラマン達の<挑戦的な問いかけ>が、解らずに、見逃してしまいそうである。風聞するところでは、主役のホアキン・フェニックスが、お気に入りのシーンですら、監督に、バサリと削除カットされてしまったとか、それならば、完全ノーカット版というのが、仮にあるとすれば、それはどんなモノなのか、一体何故、どうして、こうなったのか、、、、そして、この映画の続編は製作されるのであろうか?期待したい作品である。一体、<どこからどこまでが事実>であり、<どこから先が、妄想>なのか?今風に言えば、<FACTとは何で、FAKEはどこまで>?といったところであろうか、果たして、アーサーという主人公が、ジョーカーという人物なのであろうか?一般的には、ジョーカー誕生までのストーリーであり、それでは、富豪の両親を射殺されてしまうブルース・ウェインという子どもが、結局長じて、バットマンになるのか?別に、私は、バットマンの映画をシリーズで観ているわけではないから、細かな人物の設定まで、コミックスを読んでもいないから、知識はないが、ある程度は、推測可能なのかもしれない。唯、事は、そう簡単には、この映画の脚本家も監督も役者もカメラマンも、卸してくれそうもない。そもそも、様々なシーンに、どこかの映画で観たようなシーンや、雰囲気が、<謎めいたパズル>のように、意図的に、ちりばめられているように感じてならない。

例えば、<笑いとダンス>のシーンが、様々な場面で垣間見られる。元来、笑いというものは、人間だけが有するもので、類人猿でも、仲間内でも、敵意がないことを示す顔つきはしても、心からの笑いというものはなく、ましてや、文化としてのコメディーやコントや落語、などは、あり得ないわけで、もっとも、その根源には、対比としての<悲しみ・悲劇>があることも忘れてはならない。その意味では、アーサーが、奇しくも言うように、<人生の悲劇は喜劇>にもなることに繋がっているのかもしれない。そして、役者としてのホアキン・フェニックスの真骨頂は、その<笑いとダンス>のシーンに、数々の場面で、遺憾なく発揮されているように思われる。まるで、コンテンポラリー・パーフォーマーが、即興で踊るように、その高揚感と悲しみを、このダンスの場面で、<心の高揚感・充足度>として、まるで表現しているようで、その変化は、微妙に、アーサーというコメディアンを目指していたピエロが、徐々に、ジョーカーへと変貌してゆく過程でもあろう。年老いた母との二人でのダンス、地下鉄階段での様々なシーンでのダンス、トイレの鏡に映し出された自分の分身である姿を見ながらのダンス、他、明らかに、そこには、<ある種のメッセージ性>が隠されていると思われる。重い足取り、軽いステップ、歩き方にも、細かい心境の変化がちりばめられているように感じられてならない。明らかに、映画を観ている観客への挑戦であろう。

目だけ、或いは、表面面の顔だけが笑っていても、心の底からは、決して、笑っていない、笑えない心境を、表現している演技なのだろう、脳の障害の為に予期せぬ時に、笑ってしまう病気なので、お許し下さい、というメッセージを準備して、バスの中で黒人の子どもの母親から、構わないで下さいと言われるシーンでも、第一の殺人を犯すきっかけとなる地下鉄車両の中でのピエロの衣装をまとったままでの突然の笑いも、様々なシーンでの笑いが、観られる。

この映画は、どこまでが、事実で、或いは、妄想であるか、解らないと評したが、それを判断するのは、観る側の想像力で大きく評価が分かれるところであるが、今日的な病巣である、厳然たるFACT(事実)であるところの<精神疾患>、<出自の秘密>、<幼少期でのネグレクト・DV・体罰>、<シングル・マザー>、<貧困格差>、<1%の富裕層>、<ソーシャル・ワーカー>、<暴動・暴力・殺人・治安>等の問題が、更には、<テレビのショー番組>という<エスタブリッシュメント>が、ゴッサムという都市の中で、描かれている。

出自・出生の秘密に絶望し、隣人女性に拒絶され、職場を解雇・失職され、自分の居場所を喪失してゆく、そして、福祉予算支援も削られ ソーシャル・ワーカーによる相談も廃止の憂き目に遭うこととなり、自分の尊厳と存在そのものも、喪失してゆく。そんな折に、偶然、ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンという人気司会者のショーに、出演するきっかけを掴むが、、、、、、。既に、そこに至る過程で、自身の人生は悲劇だ!これが、今や、喜劇と化す、一大ライブ・ショーを自らが、演じることになる。そして、それは、<我々はピエロだ!存在そのものも>、、、、、、というあたかも、<we are not 1%>或いは、ウォール・ストリートを占拠せよというムーブメントに呼応するかのように、<暴動・略奪・殺人>が、デモと共に、起こる。ここから先は、ネタばれにもなってしまうので、是非、映画を観てもらいたいものである。

私は、バットマンやジョーカーの俳優に関して、全くの門外漢であるが、(カッコーの巣の上で)のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーの役を、今回のホアキン・フェニックスは、十分、凌駕するにたる演技ではないだろうか、R+15という映画だから、ある程度の殺人場面は、やむを得ぬが、これらも、今日的な意味合いからすれば、FACTなのであろうから、やむを得ないのかもしれない。こびと症の同僚を、唯一、良くしてくれたのは、君だけだったからという理由から、解放したり、幾つかの<心理的な葛藤>が、その演技の中に、垣間見られる。

最期のラストシーンは、どのように、解釈したら良いのであろうか?

連行されるパトカーの中から、暴徒達に、助け出されて、カリスマ的な悪の犯罪リーダーとしてのジョーカーの誕生に、この当人が至ることになるのか、それとも、それは、単なる妄想の中で、アーカム州立病院の精神科の中に幽閉されてしまう精神病患者の連続殺人犯が現実なのか、一体、どちらなのか、どう解釈したら良いのであろうか?仮に、ジョーカーなる人物は、アーサーではなくて、<アーサーが作り出した仮面のジョーカーの哲学>に、共鳴した別の人物が、トーマス・ウェイン夫妻を殺害して、その子どもである、ブルース・ウェインが、後のバットマンに、なるのであろうか?そうなると、バットマンの執事は、誰なのであろうか?(それはどうでも良いかな)

 追伸):映画で、いつも楽しみなのは、音楽である。門外漢の私でも、チャップリンの映画、モダンタイムスの中で使われているスマイルの曲は、<どんな辛いときにも、スマイルすれば、乗り越えられる>、というメッセージは、母親から言われた、<どんなときも笑顔で、、、、、>も、まるで、皮肉にも受け取れてしまう。スローテンポの映画内の甘いメロディーは、まるで、<懐かしいよき時代のアメリカ>と大きな対比なのであろうか?字幕の歌詞も、意味深長なものである。想像力がかき立てられ、<現実のギャップ>として、浮き出てこよう。

Dr. Nakamura の突然の訃報

=Dr. Nakamura の突然の訃報:

自分が未だ子どもの頃には、マハトマ・ガンジーとか、密林の聖者と謂われたシュバイツァー博士とか、或いは、やはり、医師であったチェ・ゲバラとか、様々な同時代の同じ空気を自分も吸っていたであろう先人達が、人道主義者が、現に存在していた事を、ふと思い出した。国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子氏も、つい先頃、亡くなり、そして、突然、中村哲医師が、銃弾に斃れてしまったとの一方が、ネットに流れてきた。

それにしても医師として、人々の命を救おうとする中で、何故、土木作業を伴う、水利事業をアフガニスタンで、しかも、30余年という長きに亘り、取り組むことになったのか?

<不作為>とか、<忖度>という言葉の影で、<品格>とか、<矜持>とかいう言葉が、既に、忘れ去られようとする今の時代の中で、ハッキリと、自衛隊の海外派兵は、全く無意味で、むしろ、中村哲医師が目指すような運動への援助をヒト・モノ・カネの面で、積極的に行うことの方が、ずっと、効果的であるという趣旨の国会での発言にも、おおいに、考えさせられる。

医師として、命を助ける中で、幼い幼児の命も、老人の死も、結局は、死という事実の前では、命の長さに、価値があるのではなくて、弱い者から、犠牲になる事実は変わらず、むしろ、清らかな飲料水を提供することで、そこから、まずは、井戸を掘ることから始め、クナール川の急激な流れを自分の故郷の伝統的な山田堰などによる水の流れの変更と灌漑水利事業へと、更には、農地改革と農業による地域65万人にも及ぶ、砂漠の緑化事業へと、30有余年を掛けて、実現へ向かってゆくわけである。それにしても、医師による医療活動を通じる中で、何故、自らも、工事用重機を運転してまでも、日本人スタッフの殺害をも乗り越えて、、、、<危険な現場での活動>に拘ったのであろうか?

Sow the Flagを、インド洋での自衛隊による補給艦や、米軍のミサイルなどではなくて、全く、別の形で、日本人として、アンチテーゼを樹立したことは、不毛な政治家による対米追従路線とは別の道筋を示したように感じられる。国境なき医師団などとは異なる、<100人の医師の派遣よりも、1本の水路を!>というテーゼの確立と、その事業の実行という方向性、テロとの戦いは、貧困との闘いで、水の確保、治水事業、緑の大地と砂漠の克服、農業の振興を、現地の人への尊厳と敬意、家族の安全と、現地人材育成、専門知識の習得の機会と仕組み作りへの邁進、等などという別の異なる手法の確立。

どうもその辺を考える時、そのルーツには、ファミリー・ヒストリー(?)が、関係しているのかもしれない。中村の叔父は、火野葦平芥川賞作家であり、その本名は、玉井勝則で、<麦と兵隊>や<花と龍>の著作を著し、同時に、今の北九州市若松区沖仲仕だった、玉井金五郎の長男であり、玉井組の2代目でもある。(そんな中で、余談だが、石原裕次郎が主演の映画、<花と龍>、母のまん役は、浅丘ルリ子だった。まぁ、それは、どうでも宜しいが、)火野葦平の妹の息子こそが、Dr. Nakamuraで、甥っ子に当たるわけである。祖父、玉井金五郎の顔写真は、そっくりの顔立ちであることにも改めて驚く。

<社会正義感>というものを初めて感じて成人してゆく課程には、何らかのこうした家族環境というか、ファミリーの血の中に、何らかの形で、色濃く影響されながら、引き継がれてゆくものなのであろうか?それとも、幼少期や少年期で、火野葦平の影響が何らかの形で、その後の医師としての、或いは、アフガンでの活動に、どのような影響があったのかは、今となっては、わからないが、、、、、、。<社会貢献>などという概念は、或いは、<貧しい人の為に尽くす>という概念は、ある種の教育で育てられるものなのであろうか?昔の武士の時代のように、武士道とか、忠義とかを、子どもの頃から、教え込まれてきたならいざしらず、73歳になっても、海外、しかも、命の危険を伴うアフガニスタンで、<人道支援事業>を30有余年も継続し続けるというその基になるものとは、何なのであろうか?そして、年齢的にも今や近くなりつつある現在、翻って自分の過去を振り返るときに、同じように、海外事業で、尤も、こちらは、自らの生業のために、やむなく、海外での事業展開に30数余年同じように関わってきたものの、私心というものと、公の心とも、呼べるものが、果たして、少しでも有り、そして、その<開発途上国への何らかの貢献>が、あったのであろうかと自問自答するとき、<技術の移転とヒト作り>くらいは、現地の幹部スタッフには、足跡の一つも残せたかなくらいの誇りは、心の片隅に、一種の結果としての拝金主義的な成功者を、その後に、残してしまったのではないかという罪悪感とともに、反面、持ち合わせているのが、正直なところであろうか?。<現地への利益の完全還元・寄与>という究極な崇高な高い意思は、どうしたら、培われるのであろうか?私のように、生業として、ビジネスとして、やむなく、洗濯せざるを得なかったものには、何とも、ずしりと重くのしかかってくるDr.Nakamuraの訃報でしかない。主亡き後、現地のスタッフ達は、どのように、今後、この事業を推敲継続し、次の30年後に、どのような国作りをするのであろうか?そして、この日本から、若い人達が、Dr.Nakamuraの遺志を継ぐ形で、輩出してくるのであろうか?

吊るし干し柿作りを愉しみながら、訃報に接するとき、非常に、複雑な思いと共に、今、何が、自分に出来るのであろうかと自問自答せざるを得ない。そろそろ、自分史とファミリー・ヒストリーでも整理し始める時期が、近づいてきたのであろうかとも思える。

合掌と共に、その遺志が、一人一人の各自の行動の中に、永遠に引き継がれることを祈りつつ、

BS 映画<キューポラのあるまち>を観る:

1962年(昭和37年)の未だ白黒映画時代の吉永小百合浜田光夫や、往年の今は亡き俳優達が多数出演している映画で、題名は知っているものの映画をしっかり観たという記憶が定かでなく、たまたま、テレビ欄で眼に飛び込んできたので、観ることにした。

それにしても、当時17歳だった吉永小百合が、ティンネージャーから、女性俳優へと脱皮してゆく時期の過渡期での作品であり、又今村昌平と後の夢千代日記などで有名になる浦山桐郎監督との共同作品で、五十有余年後の今日、改めて、観ても、その映画の中で、追求していこうとした数々の課題は、未だに、解決していないことを考えると、映画の問いかける時代の普遍性とは大変重いことを改めて、思わざるを得ない。

キューポラとは、ラテン語の樽を意味するそうで、そこから、転じて、溶鉱炉を意味するもので、当時の鋳物工場で有名であった川口という一地方都市の物語で、組合活動やオートメ化に伴う産業構造の変化や、労働者階級や職人階級という存在、在日朝鮮人差別と祖国帰還事業により家族が引き裂かれてゆく状況や、中学卒や定時制高校・夜間高校、貧富の格差、頑固親父との親子関係、担任教師との関係性や思春期の性の悩み、集団就職と職場での歌声運動、そして、今では懐かしい言葉となってしまった、<様々な放送禁止・差別用語>が、新聞配達や当時の町並みや風景の中や親子喧嘩の中で、垣間見られるのも、又、<そういう時代だった故>なのだろうか?それにしても、今でも、修学旅行のお小遣いや集金袋の回収など、気がつけば未だに、身近で、解決されていない問題にも、改めて気づかされてしまう。

 私たちが、未だ、幼かった昭和30年から35年頃には、等しく、みんな、貧しかったが故からか、貧乏人も、お手伝いさんのいるお坊ちゃまのお家で、三時のおやつに、ひとしきり、遊びほうけた後で、手も洗わずに、食い散らかしては、帰宅後に、母から、こっぴどく、叱られたことを、今でも、クラス会の時に、当時の仲間と共に、想い出しては、懐かしく語れるものの、賛否はあるものの、帰還事業で、北朝鮮へ、渡った在日朝鮮人達は、まさに、楽園と言われた彼の地で、ダブル・スタンダードの過酷な差別に苦しめられて、どうなっているのであろうか?その後の吉永小百合の信念にしても、影響があった、往年の映画には、それぞれの影響を及ぼしたであろう台詞が、そこここに、散見されている。それにしても、ただ、等しく、皆貧しかった時代には、何故、皆、これ、良しとしてしまうのであろうか?それは、皆、等しく、平等に、程度の差はあれ、皆、生活が豊かになり、物心両面でのほどほどの成功感と達成感という充足を味わえたからなのだろうか?さすれば、毛沢東時代の中国とキム三代の北朝鮮や韓国との比較の中で、相対的に、日本は、上記の幸福度は、達成感と充足度のバランスが、とれていると言うことなのであろうか?そして、何にもまして、当時の日本人の有する、考え方、<一生懸命働けば、明日は、今日よりも良い日が来る>という、一種の<勤勉精神と明日への向上期待信仰>への確信が、現として、存在していたのであろうか?もしそうであるとするなら、今日、何もかも、当時の面影は、無くなってしまった今日、鋳物工場も、海外工場へ移転され、人手不足から、在日外国人移民が増加して、ゴミ問題や言葉の障害による地域社会の対立があったり、労働組合は崩壊して、非正規雇用パート・タイマーで溢れ、既に、右肩上がりの経済モデルは、少子化高齢化社会の中で、崩壊してしまい、家族関係も分断され、<親リッチ>とは無縁な、ショービニズムに犯された嫌韓、ネト右のはびこる、ギスギスした、<正義と本質の見えずらい社会>に、いつしか、なってしまった。猫の目のように、映画の中で輝いていた当時17歳の吉永小百合の瞳には、何が、一体、今日、見えているのであろうか?キューボラのない街は、今日、もう一度、映画を撮るとしたら、何をテーマに、撮影して、どんな俳優が演じるのであろうか?それにしても、東野英治郎菅井きん、北村谷栄、殿山泰司加藤武小林昭二小沢昭一吉行和子浜田光夫、懐かしい白黒映画時代の俳優たちである。

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

2年程前の秋になるだろうか、同じく、湯本香樹美原作の、主演、本田望結、中村珠緒の『ポプラの秋』を、幼なじみのクラスメートのご主人がカメラマンだったことから、映画を観たことを想い起こすが、その時から、こちらの映画も、一寸、気になっていた。どちらも、肉親ではないが、知り合いである『老人の死』を通じて、子供達が、成長して行く過程を、繊細な文章と暖かい眼をもって、見守り、応援する中で、子供達は、やがて、少年・少女から、大人へと成長して行くというストーリーであろうか。児童文芸賞を受賞しただけあって、この映画も、三國連太郎のお爺さん役は、今となっては、もう、観られないのは、残念である。単なる子供達の仲間の肉親の葬式から、独居老人のその死の過程を見守ろうとする中で、やがて、そのゴミ屋敷同然の家の庭の雑草除去から始まって、家の室内外の改修へと、自発的に、行動を起こし、やがて、お爺さんの体験した辛い戦争中の、身重の女性を手に掛けてしまった話や、その復員後の結婚生活の破綻などの身の上話を通じて、少年達が成長してゆく過程も、そのクラス担任の若い女の先生が、実は、そのお爺さんの別れた奥さんの孫だということが、後に判るとか、そして、その奥さんに、遺産を実は、密かに、遺言で、残していたことなどが、葬式の際に、判るとか、最後の焼き場での、痴呆症を発症した奥さんが、跪きながら、一言、『お帰りなさい、ご苦労様でした!』という一言も、この3人の少年達の尽きぬ行動力とそのモチベーションの源泉とは、一体、何処から湧き出てきたのであろうか?微妙に、それぞれの少年達の家庭環境が、映画の中で、ちりばめられていて、とても、興味深い。何気ない日常生活の中でも、それは、様々なシーンに、例えば、庭の雑草を抜く場面でも、魚屋の少年が、錆びた包丁を研ぐときでも、スイカを美味しく、一緒に食べるときでも、アイロン掛けをするときも、台風の大雨の時でも、綺麗になった、広々とした庭にコスモスの種を播くときも、身の上話を聞くときも、成る程、冒頭の雨の中のサッカーの練習も、後で、見終わって初めて、気が付くモノがある。伊集院静が、『別れる力』か、何かで、云っていたが、『人間は、肉親でも、知り合いでも、誰であれ、別れることで、成長し、その別れることを体験する力をもつという事自体も、必要なのである』と、とりわけ、それが、死別であれ、別の種類の別れであれ、ふとしたきっかけで、知り合いになった、お爺さんとの『心の交流』から、その死別を通じて、これらの3人の少年達は、きっと、大人になっていったことであろう。主題歌を歌っていたザードの坂井も、逝ってしまったし、三國連太郎も、淡島千景も、亡くなってしまったが、この少年達を演じた子役達は、今、どうしているのであろうかとふと、考えてしまう。それぞれに、どんな別れ方をして、大人の階段を登っていったのであろうか?相米慎二監督による何気ない日常の情景に込められた小説の一文一文の描写は、なかなか、俳優達の演技とは別に、又、見終わった後に、じわじわと、印象に残るものである。小説に於ける想像力とは異なり、映画の描写も、実に面白いではないか。

 

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

2年程前の秋になるだろうか、同じく、湯本香樹美原作の、主演、本田望結、中村珠緒の『ポプラの秋』を、幼なじみのクラスメートのご主人がカメラマンだったことから、映画を観たことを想い起こすが、その時から、こちらの映画も、一寸、気になっていた。どちらも、肉親ではないが、知り合いである『老人の死』を通じて、子供達が、成長して行く過程を、繊細な文章と暖かい眼をもって、見守り、応援する中で、子供達は、やがて、少年・少女から、大人へと成長して行くというストーリーであろうか。児童文芸賞を受賞しただけあって、この映画も、三國連太郎のお爺さん役は、今となっては、もう、観られないのは、残念である。単なる子供達の仲間の肉親の葬式から、独居老人のその死の過程を見守ろうとする中で、やがて、そのゴミ屋敷同然の家の庭の雑草除去から始まって、家の室内外の改修へと、自発的に、行動を起こし、やがて、お爺さんの体験した辛い戦争中の、身重の女性を手に掛けてしまった話や、その復員後の結婚生活の破綻などの身の上話を通じて、少年達が成長してゆく過程も、そのクラス担任の若い女の先生が、実は、そのお爺さんの別れた奥さんの孫だということが、後に判るとか、そして、その奥さんに、遺産を実は、密かに、遺言で、残していたことなどが、葬式の際に、判るとか、最後の焼き場での、痴呆症を発症した奥さんが、跪きながら、一言、『お帰りなさい、ご苦労様でした!』という一言も、この3人の少年達の尽きぬ行動力とそのモチベーションの源泉とは、一体、何処から湧き出てきたのであろうか?微妙に、それぞれの少年達の家庭環境が、映画の中で、ちりばめられていて、とても、興味深い。何気ない日常生活の中でも、それは、様々なシーンに、例えば、庭の雑草を抜く場面でも、魚屋の少年が、錆びた包丁を研ぐときでも、スイカを美味しく、一緒に食べるときでも、アイロン掛けをするときも、台風の大雨の時でも、綺麗になった、広々とした庭にコスモスの種を播くときも、身の上話を聞くときも、成る程、冒頭の雨の中のサッカーの練習も、後で、見終わって初めて、気が付くモノがある。伊集院静が、『別れる力』か、何かで、云っていたが、『人間は、肉親でも、知り合いでも、誰であれ、別れることで、成長し、その別れることを体験する力をもつという事自体も、必要なのである』と、とりわけ、それが、死別であれ、別の種類の別れであれ、ふとしたきっかけで、知り合いになった、お爺さんとの『心の交流』から、その死別を通じて、これらの3人の少年達は、きっと、大人になっていったことであろう。主題歌を歌っていたザードの坂井も、逝ってしまったし、三國連太郎も、淡島千景も、亡くなってしまったが、この少年達を演じた子役達は、今、どうしているのであろうかとふと、考えてしまう。それぞれに、どんな別れ方をして、大人の階段を登っていったのであろうか?相米慎二監督による何気ない日常の情景に込められた小説の一文一文の描写は、なかなか、俳優達の演技とは別に、又、見終わった後に、じわじわと、印象に残るものである。小説に於ける想像力とは異なり、映画の描写も、実に面白いではないか。

 

映画、『スノーデン』を観る:

映画、『スノーデン』を観る:

一寸、用事が立て込んだ関係で、休日に映画を観る羽目になったことは、皮肉である、いつもなら、がらがらの映画館なのに、ネットで、確認したところ、何と、この映画もまた、ほとんど、満席同様な状態であった。何とも、不可思議な光景である。最近観た三作品の映画共に、皆、ほぼ、満席状態であったとは、驚いてしまう。『プラトーン』や、『74日に生まれて』という、これまでのアカデミー受賞作品の延長線上で、或いは、歴代の大領を扱ったJFK,ニクソン、ブッシュ、等の作品を挙げるまでもなく、オリバー・ストーン監督脚本の問題作のドキュメンタリーを基にした映画である。1995年に、サンドラ・ブロックが、主演で演じられた『ザ・インターネット』で、糸も容易く、自分という保証(?)された存在すらも、ネット上の操作で、なりすましの危うさに、驚かされたものであるが、今日、その後のネット上や仮想空間で繰り広げられた犯罪の手口を考えるときに、改めて、その危険性と進化のスピードに驚かされるものである。それでも、ごく、最近、約3-4年程前の20136月に、実際に、起こったこの事件には、その後の展開を見聞きするときに、改めて、その衝撃の小さくないこと、或いは、成る程、こういうことだったのかと、改めて、問い返される。ましてや、トランプの登場以後には、フェイクニュースも、ポスト・トゥルースも、今や、現実なのであろうか?

『個人の自由と安全』というバランス、とりわけ、9.11以降の世界的な風潮である、『私権の制限と安全』というバランスは、もろくも、法の支配による自由の制約や、法律には至らぬが、規範による、制限や、更には、緩い宗教的な道徳や、公徳心という範疇での『自主規制』とは明らかに、異なるところの、『安全最優先に基づく自由の制限』へと、『テロとの戦い』という錦の御旗の元で、ありとあらゆる生活の側面で、現在進行中(?)である。NSA(米国国家安全保障局)や、CIAは、この当時、29歳の元海兵隊出身の天才ITエンジニア、(反面では、ハッカーと、呼ばれて、ホワイト・ナイトなのか、どうかは、判らぬが)に、結局は、国家反逆罪の汚名を着せることでしか、訴追出来ずに、結局は、モスクワへと、逃げられて(?)しまう結果となった。電話、メールでも、チャットでも、SNSでも、トランプのツイッターも含めて(?)そして、ありとあらゆる通信、ビッグ・データも、友達の友達やあらゆるインターネット・プロバイダーも、ネット・サイバー上では、行き過ぎた監視体制の下、『対テロ戦争の為に』という錦の御旗で、サイバー空間も含めて、ドローンによる、或いは、無人攻撃機による攻撃まで、様々なシステムが、その唯一の目的のために、『テロには、本来関係無いのない私的な情報』も含めて、『政府の覇権を守るが故に、』、使われてきたし、現に、それは、映画の上だけではなくて、どういう政治体制をも問わずに、例外なく、『実際に、これまでも行われてきたし、現在も、そして、これからも、制限がなされようがなされまいが、断固として、行われることに間違いはない』ようである。そして、実際に、止まることを知らずに、厳然として、機能し続けているのが『現実』であることは、恐ろしいことである。『地球上で尤も、怖れられ追われている男の真実』とは、最近の『Fake News』や、『Post Truth』ではないが、アメリカにせよ、中国にせよ、ロシアにせよ、あの北朝鮮ですら、寸分も、違うことはないのが、現実であろう。国家反逆罪の罪から逃れることよりも、国家のために働くのではなくて、人々のために働くことを、自らの選択とした彼には、残念乍ら、皮肉にも、CIAからの『安全』は遠い遠い異国のモスクワの地で、保証されたものの、結局、彼の目指した理想の『自由』が、決して、保証されたわけではなかったことは、事実であろう。尤も、エンディング・ロールの最後の一行に、てんかんの持病を有するスノーデンを心配して、一緒に、ハワイへ、旅立った恋人も、結局は、事件後には、モスクワに渡航して、現在も、一緒に、生活している由であるという一文が、一抹の朗報とでも云えようか?それでも、自身の信念を貫く一方で、職場の同僚や、上司は、その後、どんな処分が科されることになったかは、告げられずに、エンディングになってしまったが、ガーディアンの記者達や、関係者は、どうなってしまったのであろうか?オバマから、トランプへと、更に、政治情勢が変わる中で、逆に、CIA、軍情報機関機能が、強化されるような傾向のなか、ロシア情報機関によるアメリカ大統領選挙へのサイバー攻撃が実際になされたとか、トランプの私的な不適切な情報が、リークされたとか、云われているが、一体、スノーデンや、ウィキリークス、アサンジーらは、モスクワから、今日の劇的な変化をどのような視点で、眺めているのであろうか?何とも、興味深いものがある。そして、この映画の中で、スノーデンが、デル・コンピューターや、日本でも、勤務していた実態が明かされたり、自衛隊の幹部が、ハワイを訪問して、情報監視システムを見学しているという事実を、我々は、どのように、考えたら良いのであろうか?日本での個人情報の監視と盗聴とコントロールは、どのように、現在進行形で、行われているのであろうか?映画の切符を購入するシステムもきっと、それなりに、分析されているのであろう!すると、最近観た3本の映画、『アイヒマンを追え』、『沈黙―サイレンス』、『スノーデン』も、人工知能のスクリーニングで、どのように、思考分類、或いは、思想分類されているのであろうか?パソコンのウェッブ・カメラが、突然、知らぬ間に、碧く点滅したら、やはり、ガムテープで、目隠しすべきなのであろうか?困ったものである!全く、考えさせられるも、では、どのように、このような便利なサイバー空間の中で、自分は、その自由と安全を守り抜いたら良いのであろうか?全く、考えさせられてしまう。

 
 

映画、『スノーデン』を観る:

映画、『スノーデン』を観る:

一寸、用事が立て込んだ関係で、休日に映画を観る羽目になったことは、皮肉である、いつもなら、がらがらの映画館なのに、ネットで、確認したところ、何と、この映画もまた、ほとんど、満席同様な状態であった。何とも、不可思議な光景である。最近観た三作品の映画共に、皆、ほぼ、満席状態であったとは、驚いてしまう。『プラトーン』や、『7月4日に生まれて』という、これまでのアカデミー受賞作品の延長線上で、或いは、歴代の大領を扱ったJFK,ニクソン、ブッシュ、等の作品を挙げるまでもなく、オリバー・ストーン監督脚本の問題作のドキュメンタリーを基にした映画である。1995年に、サンドラ・ブロックが、主演で演じられた『ザ・インターネット』で、糸も容易く、自分という保証(?)された存在すらも、ネット上の操作で、なりすましの危うさに、驚かされたものであるが、今日、その後のネット上や仮想空間で繰り広げられた犯罪の手口を考えるときに、改めて、その危険性と進化のスピードに驚かされるものである。それでも、ごく、最近、約3-4年程前の2013年6月に、実際に、起こったこの事件には、その後の展開を見聞きするときに、改めて、その衝撃の小さくないこと、或いは、成る程、こういうことだったのかと、改めて、問い返される。ましてや、トランプの登場以後には、フェイクニュースも、ポスト・トゥルースも、今や、現実なのであろうか?

『個人の自由と安全』というバランス、とりわけ、9.11以降の世界的な風潮である、『私権の制限と安全』というバランスは、もろくも、法の支配による自由の制約や、法律には至らぬが、規範による、制限や、更には、緩い宗教的な道徳や、公徳心という範疇での『自主規制』とは明らかに、異なるところの、『安全最優先に基づく自由の制限』へと、『テロとの戦い』という錦の御旗の元で、ありとあらゆる生活の側面で、現在進行中(?)である。NSA(米国国家安全保障局)や、CIAは、この当時、29歳の元海兵隊出身の天才ITエンジニア、(反面では、ハッカーと、呼ばれて、ホワイト・ナイトなのか、どうかは、判らぬが)に、結局は、国家反逆罪の汚名を着せることでしか、訴追出来ずに、結局は、モスクワへと、逃げられて(?)しまう結果となった。電話、メールでも、チャットでも、SNSでも、トランプのツイッターも含めて(?)そして、ありとあらゆる通信、ビッグ・データも、友達の友達やあらゆるインターネット・プロバイダーも、ネット・サイバー上では、行き過ぎた監視体制の下、『対テロ戦争の為に』という錦の御旗で、サイバー空間も含めて、ドローンによる、或いは、無人攻撃機による攻撃まで、様々なシステムが、その唯一の目的のために、『テロには、本来関係無いのない私的な情報』も含めて、『政府の覇権を守るが故に、』、使われてきたし、現に、それは、映画の上だけではなくて、どういう政治体制をも問わずに、例外なく、『実際に、これまでも行われてきたし、現在も、そして、これからも、制限がなされようがなされまいが、断固として、行われることに間違いはない』ようである。そして、実際に、止まることを知らずに、厳然として、機能し続けているのが『現実』であることは、恐ろしいことである。『地球上で尤も、怖れられ追われている男の真実』とは、最近の『Fake News』や、『Post Truth』ではないが、アメリカにせよ、中国にせよ、ロシアにせよ、あの北朝鮮ですら、寸分も、違うことはないのが、現実であろう。国家反逆罪の罪から逃れることよりも、国家のために働くのではなくて、人々のために働くことを、自らの選択とした彼には、残念乍ら、皮肉にも、CIAからの『安全』は遠い遠い異国のモスクワの地で、保証されたものの、結局、彼の目指した理想の『自由』が、決して、保証されたわけではなかったことは、事実であろう。尤も、エンディング・ロールの最後の一行に、てんかんの持病を有するスノーデンを心配して、一緒に、ハワイへ、旅立った恋人も、結局は、事件後には、モスクワに渡航して、現在も、一緒に、生活している由であるという一文が、一抹の朗報とでも云えようか?それでも、自身の信念を貫く一方で、職場の同僚や、上司は、その後、どんな処分が科されることになったかは、告げられずに、エンディングになってしまったが、ガーディアンの記者達や、関係者は、どうなってしまったのであろうか?オバマから、トランプへと、更に、政治情勢が変わる中で、逆に、CIA、軍情報機関機能が、強化されるような傾向のなか、ロシア情報機関によるアメリカ大統領選挙へのサイバー攻撃が実際になされたとか、トランプの私的な不適切な情報が、リークされたとか、云われているが、一体、スノーデンや、ウィキリークス、アサンジーらは、モスクワから、今日の劇的な変化をどのような視点で、眺めているのであろうか?何とも、興味深いものがある。そして、この映画の中で、スノーデンが、デル・コンピューターや、日本でも、勤務していた実態が明かされたり、自衛隊の幹部が、ハワイを訪問して、情報監視システムを見学しているという事実を、我々は、どのように、考えたら良いのであろうか?日本での個人情報の監視と盗聴とコントロールは、どのように、現在進行形で、行われているのであろうか?映画の切符を購入するシステムもきっと、それなりに、分析されているのであろう!すると、最近観た3本の映画、『アイヒマンを追え』、『沈黙―サイレンス』、『スノーデン』も、人工知能のスクリーニングで、どのように、思考分類、或いは、思想分類されているのであろうか?パソコンのウェッブ・カメラが、突然、知らぬ間に、碧く点滅したら、やはり、ガムテープで、目隠しすべきなのであろうか?困ったものである!全く、考えさせられるも、では、どのように、このような便利なサイバー空間の中で、自分は、その自由と安全を守り抜いたら良いのであろうか?全く、考えさせられてしまう。

 

 

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

いつも、映画は、がらがらの中で、観ているものであるから、こんな満席の中で、映画を観るのは、久しぶりである。それにしても、斜陽産業と云われて久しいが、こんなに、大勢の人が観に来るとは、やはり、良い作品を、作り上げれば、結構、需要があると謂うことなのであろう。買うものがないとか、既に、飽和であるなどと云われているものの、まだまだ、商品企画と丁寧な商品つくりを行えば、需要はあるということに決して、間違いはない。

それにしても、もう、45年以上も前に、原作を読んだものであるから、映画を見終わってからでも、再び、読み返してみることにでもしようか?篠田正浩監督が、1971年、製作した同名の映画は、記憶にない事からすると、見てはいなかいのかも知れない。原作の本だけである。スコッティー監督の『タクシー・ドライバー』は、記憶にあるが、、、、、、。

 映画を観る上での時代考証と前後の歴史的な経緯を、他方整理してから、論評に入ることにしたい。時は、1641キリシタン弾圧が厳しくなりつつある長崎、五島・生月島での話である。ザビエルが、鹿児島にキリスト教を伝えに、鹿児島に上陸したのが、1549年であり、その少し前の1543年には、種子島に、火縄銃が伝来したとされている。1552年には、ザビエルは、マカオで、ぼっしているから、インドのゴアを拠点とした、マカオ等のイエズス会系の極東への布教活動も、安土桃山時代の、信長・秀吉・家康へと覇権が移行してゆく過程での南蛮貿易キリシタン大名、世界的な政治状況下の中での出来事として、ある程度、理解しておかないと、ポルトガル・オランダ・イギリス・スペインの世界的な覇権をも、充分、念頭に置きながら、観ておかなければ、単なる内面的な『神の問題』としてのみ、尤も、それこそが、主題であることには、変わりはないのであるけれどもである。それは、後半に、論じることにして、これらの一連の流れの中で、1587年の場t4エレン追放令や」九州征伐の過程での秀吉の当時の黙認市井が、1596年サンフェリペ号事件や1597年のフランシスコ会系の日本26聖人処刑事件へと、日本でのキリスト教布教に於ける、ドミニコ系、フランシスコ系、イエズス会系の主導権争いや、日本人奴隷売買の摘発などやらから、これまでの緩やかな間接統治、現地主義から、より根源的な直接的な宣教方式への転換とが相待って、既存仏教宗教勢力への排外主義・衝突も有り、更には、1637年の島原の乱による藩主の切腹ではない、斬首という形で、喧嘩両成敗的に、処罰される絶滅的なキリシタン抹殺へと、突き進んでゆくことになる。それは、皮肉にも、スペイン・ポルトガルから、徐々に、オランダ・イギリス、ウィリアム・アダムスや、八重洲の基になる、ヤン・ヨーステンなどの、事例を皮肉にも、観るまでもなく、世界貿易の実利と宗教の乖離を、徹底して、長崎平戸の出島へと、向かう過程でもあろうか、それは、世界史的にも、丁度、アルマダの海戦から、オランダ独立戦争に至る80年戦争への過程とも、符合する過程なのかも知れない。宗派的には、ポルトガル系のカソリック系から、オランダ流のプロテスタント系へ、或いは、間接統治主義だったキリシタン大名の勃興から、没落へ、至る、二度に亘る大きな殉教事件を引き起こす1619年、1622年という過程を経た上での暗黒の時代の出来事だったという背景を、私達は、十分理解しておかなければならないし、或いは、時の為政者の意図と、思想背景を理解しておかなければ、『内的な問題』、とりわけ、『神の沈黙』、『弱き者達』、『西洋と日本との思想の断絶』、『棄教の背景』、或いは、より、広い意味合いでの『転向・転び』という課題を考えるときに、充分、理解出来ずに、『今日的な課題』として、捉えることを妨げることになりはしないだろうか?心的な課題に立ち入った後で、最後に、映画評論を多生論じてみることにしたい。

 それにしても、中世の魔女狩りではないが、『拷問の歴史』、それは、ゲシュタポでも、北朝鮮の秘密警察でも、戦前の日本の特高でも、江戸時代のキリシタン弾圧の、逆さ吊りで、その血を一滴づつ、何日も掛けて、じわじわ苦しめながら、いたぶるやり方の前では、そんな『善意に満ちた信念』などは、木っ端微塵に、砕け散ってしまうことだけは、明らかであろう。とりわけ、今、若い頃を想い起こすときに、60年代の韓国でのキム・ジハの拷問前に宣誓した自白不当宣言文を、想い起こす。それは、如何なる拷問によっても、自らの信ずる『思想・信条・信念』は、決して変わることなく、強制的な拷問による自白は、有効ではないと宣するモノであった。謂わば、やむなく『踏み絵を踏む』ことと違いはない。『踏むがいい。汝を守る為に、この世に生かされ、痛さを分かつために十字架を背負った』と、どこからか、聞こえてくる、囁き掛ける声は、『弱き者』、『罪深き者』、を赦し、生き延びよとも、諭しているかのようである。『棄教』も、信仰を守りつつ、死にゆくものも、『死という鏡』の表と裏という一対だったのかも知れない。それでも、生き延びた者は、必ずその心の底に、悔悟と悔いを引き釣りながら、苦しみながら、日々、生きて行くことになる。弾圧する為政者の側にも、厳しくしても、根っこを徹底的に、叩きつぶしても、決して、根絶やしにすることは不可能であることを悟り、昔の『一向一揆』ではないが、結局、自分たちにも、或いは、キリシタン側にも、お互いに、都合の良い『形だけで良い転び』を、生み出して行くことになる。これは、『戦争中の転向』ではないが、如何にも、日本的な手法で有り、双方の面子を、互いに、折りの良いところで、融合するという一種の面子を重んじた『妥協的な手段』なのであろうか?『形だけで良い、形だけで良いのだ』という甘い悪魔のような囁きは、なかなか、刺激的なものである。棄教でもなく、背教でもなく、転向でもなく、『転ぶ』、転んでも、再び、『起き上がる』のである。日本的なるものとは、一体、何なのであろうか?そんな『甘い魅惑的な囁き』とは、果たして、何なのであろうか?きっと、日本的な思想と西洋的な思想との衝突から生じた『ある種の断絶』を、この時代には、こうしたやり方で、昇華・止揚してしまったのであろうか?究極的な虐殺という行き着いた先に、見いだしたものこそが、『転び』という八方全て、丸く収まる究極の選択であったのであろうか?

一向門徒も、悪人尚もて、往生すという親鸞の教えも、ジハードを厭わずに、殉教するモスリムも、この時代に、タイムスリップしたら、彼らは、どうしたであろうか?そして、肝心要の観客である我々は、果たして、どんな選択をしたことであろうか?密告もせずに、唯ひたすら、何度も形だけの踏み絵を踏み、唾を吐きかけて、転んでは何度もまた、立ち上がり、懺悔を繰り返しながら、結局、キチジローのように、処刑されるのであろうか?それとも、モキチのように、転びながらも、信念の中で、死んで行く途を選ぶのであろうか?『弱き者』は、どう生きて行けば良いのであろうか?

 窪塚洋介が、日本側での『よわき者』を代表する、片方の主役とすれば、明らかに、その対極にある相手方の主役は、イッセー緒方演じる、奉行であろう、その英語の演技もなかなかなものであると同時に、如何にも、悪意を内に包みながら、その自覚をおくびにも出さずに、飄々として、冷徹な官僚の役で、確信犯的な役柄と心理的な描写の演技は、実に、特筆すべきモノがある。そして、通史役の浅野忠正は、英語の台詞もあることながら、その小役人的な心情が、微妙に、台詞や演技にも、醸し出されていて、実に、これも面白い。それにしても、この時代の『貧困と格差』とは、映画とは云え、想像を遙かに超えるものがある。映画の中では、その後も、思想の再犯チェックは、とりわけ、厳しく、常に、確認、再確認、再々確認が、行われていたことがよく理解出来る。二時間40分程の大作出るから、その間、ずっと、観客は、嗚咽をひたすら、堪えながら、あるときは、堪え忍び、あるときは、堪えきれすにと、息苦しい連続であった。精根尽き果てると云うが、映画を観ながら、そんな感じで、上映後は、皆、押し黙りながら、映画館を後にしていった。少々、年寄りには、体力を必要とする映画であろうか?若い人には、是非、見てもらいたい映画であるし、無論作品を、読んでもらいたいと思う。もう一度、再読することにしようかな。それにしても、来日する中国人観光客が、きっと、中国の地下教会信者に向けて、DVDのコピーを持ち帰ることは必至であろうが、彼らは、中国現地で、どのように観賞するのであろうか?ロケ地が、台湾で、コストを節約するために、重視されたことは、長崎、五島の隠れキリシタンの子孫達には、少々、残念であった事は確かであろう。もっとも、転んだ人達がいなかったら、今日の子孫も存在しないことは、誠に、歴史の皮肉と云うほかないが、、、、、、、、、。