小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

ゴーン会見から何を学ぶか?:

ゴーン会見から何を学ぶか?:

 

国法を犯してまで、国外逃亡、密航を果たした等というまるで、幕末時代の吉田松陰の密航を想い出させるような報道であるが、その志は、全く、<天と地の違い>で、レバノンでの自作自演のPR会社と綿密に打ち合わせた協同ショーの効果は、残念ながら、同じ時間帯に生じたトランプの対イランからの攻撃に対する声明に、引きずられる形で、相殺されてしまった感じが、なきにしもあらずである。

それにしても、日本における<人質司法制度>や<取り締まり時点での弁護士の立ち会いがないこと>、或いは、<取り調べでの可視化>とか、<ミランダ警告・自己負罪拒否権>・<司法取引手法>とか、様々な問題が、日本の警察司法制度にはあるにせよ、莫大な金額の<金融商取引法違反や会社法違反による背任横領の容疑>で、保釈中での身柄であるにもかかわらず、カネにものをいわせて、密出国した事実は、どのように、自身の身の潔白を、司法の場以外の空間で、国際世論を味方につけようとしても、なかなか、日本では、或いは、世界的にも、理解されないであろうと思われる。尤も、そもそも、日本や、日本人をターゲット相手に想定しているとも思えない。逆に、日本人というものは、いつまで経っても、<内向きの密室仲間内議論>ばかりであって、決して、<外部へ、世界に向かって発信することを前提にはしていない>ことは、誠に、残念である。

嬉々として、これまでの鬱憤を払うかの如く、<多言語での情報発信者であるゴーン被告>は、まるで、新車発表会のプレゼンテーション張りの独演会であるのに対して、受け手であるメディアの方は、日本側の同時通訳者にしても、結局、英語・フランス語のみで、全く、アラビア語(レバノン)・ポルトガル語(ブラジル)に至っては、何を話しているのか、さっぱり、解らなかったのは、極めて、残念な事である。レバノンの国法である、イスラエル渡航を禁止しているにもかかわらず、そして、ルノー時代には、渡航していることが、問題視されているにも関わらず、イスラエルという言葉は聞き取れたものの、具体的に何を質疑応答しているのかは、解らなかったことは、極めて、残念な事である。それにしても、<選ばれし日本側の記者達>は、一体、どんな真実を追求し、質問できたのであろうか?政府関係者の名前も、エビデンスも公表すると謂っていたにも関わらず、全く、肩すかしであったし、密出国という罪を訴追されることを恐れたのか、或いは、レバノン政府との裏取引での国内外での協力者が、暴露されるのを恐れたのか、今後、小出しにしてくることが、考えられるものの、果たして、どれほどの<日本人が知らない真実>が、あるのであろうか?ドキュメンタリー・番組や、多国語言語で翻訳された暴露本でも作って、高く、メディア関係者に、商業主義さながらに、売りつけるのであろうか?そして、それで、果たして、日産と検察とのクーデター陰謀説で、自身の潔白が証明されるのであろうか?

それにしても、本人が、嬉々として、話せば話すほど、或いは、ジェスチャーたっぷりに、質問に答えれば答えるほど、本質論から、はぐらかされた挙げ句に、<議論のすり替え>で、まるで、<どこかの国の首相にそっくり似てくる>不毛な様相を呈し始めてくる。それにしても、原稿もなしに、1時間以上、4カ国語で、まくし立てられるだけのエネルギーは、流石、百戦錬磨の多国籍グローバル企業経営者で、その点では、たいしたものである。これに対して、深夜での日本の法務大臣の記者会見は、全く、難しい日本語の専用語の羅列で、一体、世界に対して、これで、情報発信やカウンター・メッセージを送っていることになるのであろうか?法務省にも、英語やフランス語・アラビア語ポルトガル語が、堪能な人間はいるはずで、韓国のミサイル照射事件の時もそうであったが、<多国語言語での広報>の在り方は、全く、問題解決に至ってないこと奇しくも露呈してしまった。英語だけでも、情報発信すれば、日本語の一億人に対して、恐らく、一桁以上の数のオーディエンスに達するであろうが、極めて、残念な対応である。全く、グローバルな広報が当たり前な時代に、前時代的な、内向きな対応は、英語の入試延期問題にも共通するような問題である。

今更ICPOに妻の逮捕請求をしたところで、やらないよりはましかもしれぬが、何故、ファーウェイの副社長のカナダでのGPS機器装着の拘束などにみられるような対応が、裁判所内で、検討されなかったのであろうか?如何にも、お上の中でのガイジン・アレルギーが、はびこっていることを露呈するだけではなくて、旧来型の人間が、旧内務省的な人材から、今日でも、脱皮し切れていないことを、国内外に、奇しくも、露呈してしまったようである。一体、いつになったら、<多国語言語で、同時に、リアルタイムで、グローバルに、意思表示を行える>国に、日本はなれるのであろうか? 何とも、ライブ映像をネットでみていながら、心寒い思いがしたことは、残念至極である。もう、若い人達に期待する以外に手はないのであろうか?おおいに、考えさせられた。

 

HD違法売買と個人情報漏洩におもう:

HD違法売買と個人情報漏洩におもう:

そもそも、名刺を交換した段階から、或いは、メール・アドレスを一度公開しただけでも、既にこの時点から、個人情報の漏洩が、スタートするといわれているが、それにしても、個人情報の保存されているHDを消去・廃棄する専門の会社の従業員が、小遣い銭稼ぎに、自分の事務所に、窃盗目的で侵入して、その盗んだHDをオークションに販売するとは、一体、管理そのものが、どうなっているのかと全く、首をひねりたくなってしまう。一体全体、どうなっているのであろうか?

 そんなものが、オークション自体に出品されることすら、私は、知らなかったので、全く、驚愕の一言である。購入した人間が善意の購入者だったから、まだしも、これが、反社会的な勢力だったら、どうなっているのかと思うだけでも、ゾクッとしまう。HDデータ消去を専門にしている会社自体の内部監査システムもさることながら、民間の業者で、何の資格も、肝心要のセキュリティ対策も法的にないとは、全く、お粗末な限りである。しかも、オークションにしても基本的に、そもそも、盗品かどうかを、全くスクリーニングすることなく、自由に売買出来ること自体も、オークション主催者という存在も、実に、不可思議な存在である。自分は、ヤフオクとか、オークション自体をこれまで活用してこなかったし、又、その仕組み自体を余り信用していないから、今流行のメルカリなどは、きっと盗品だらけなのかもしれない。いや、もう既に、どこかの反社会組織などは、きっと巧妙に、窃盗団とオークションサイトと資金洗浄を分業として、<一種のビジネスモデルを構築>して、海外窃盗団の組織的なグループ・ネットを構築して、巧みに、名簿業者なども含めて、ある種の詐欺名簿やそれこそ、私は1億円以上の現金や宝石を持っていますよなどと脳天気な人間の名簿も、情報管理しているのかもしれない。

 逆に、こういう状況が全く夢物語ではないとすると、コンビニで、1回500円くらいでも、支払ってPCのHDデータを強力な磁気で、瞬時に、自分の手で消去するというサービスも、成立するかもしれない。自らの安全と個人情報を自らの手で、如何にして守るのか?本当に困ったことである。外付けHDではなくて、サーバー上のクラウドに、MSNのOne Drive やGoogleGoogle Drive等に、保管されている膨大な写真や文書データなどは、一体全体、個人情報が担保されているのであろうか?そういえば、利用する前に、細かな契約書を、読んだような、読んでいないような記憶が全く不確かな状態で、現在進行形で利用しているように、思えなくもない。尤も、保管されているデータも、何でも、突然気がつくと、<ゴミ箱に移管されていて、データが見当たらない>ことがあるようにも、風聞しているが、、、、本当に、大丈夫なのであろうか?

 昨今、GAFAではないが、FB等でも、広告や宣伝、或いは、お薦め商品も、膨大なデータを情報処理した上で、特定の個人向けに、ピン・ポイントで、あちら側から(?)、一体どこからなのであろうか(?)知らぬ間に、送られてくる。そもそも、御願いもしていないにも関わらず、<あちら側>から、常時、送られてくると謂う手法が、<常態化してきつつ>ある。もうこうなると、ステルス・マーケティングどころか、はっきりと、あちら側は、<ある種の目的意識と明確な意図>の下に、<情報操作と無意識化>を、狙っているのではないかとも、実感してしまう。さすがに、法的な規制を掛けて、個人情報の利用拒否とか、クッキーの規制とかを、選択制にすることを考えているようだが、本当に、そんな規制で、<自己防衛が担保できる>のであろうか?IT技術やAI技術は、遙かに、我々の想像を超えたスピードを以て、凌駕してしまうのではなかろうか?嘗て、スノーデンが、関わっていたように、どこかで、密かに、<情報管理と操作と漏洩>とが、一つのパッケージとなって、売買される危険性がないとも言えない。危険性ではなくして、そういう<事実が既に過去にあった>こと、又、依然として、<現在も進行中である>こと。

 既に、銀行は、フィンテックに押される形で、これまでの長い歴史の中で、蓄積されてきた個人の信用情報の売買、もちろん、個々人の許諾条件という括弧付きではあるものの、志向・趣味・年収・家族構成・資産内容、ありとあらゆる分野の情報も、これからは、銀行だけではなくて、全ての業種や分野を超越して、<膨大な個人情報の売買>が、可能になる時代が、既に、<本人だけが気がつかないだけ>で、密かに、現在進行形で、足許から、揺らぎ始めているのかもしれない。一歩外に出れば、スマホGPSが、どこに、何時に出かけ、何を購入し、POSデータと共に、紐付けされて、瞬時に、購買理由と履歴が分析され、需要予測から、次回購入時予定日や、お薦め商品の案内が来る仕組みが、何も、歩いてお出かけするだけではなくて、鉄道でもバスでも自動車でも、あらゆる交通手段と紐付きで、きっと、密かに、この人物は、毎週金曜日の夜には、国会デモに参加しているとかも、<あちら側は、合点承知の助>なのかもしれない。マイ・ナンバーで、e-TAX申告をしている以上、もはや、GPS地図情報サービスの常時設定をOFFにしていても、それだけでは済まされない状況なのかもしれない。

 昔は、電話帳に、自分の自宅の電話番号を載せなければ、むやみやたらに、見知らぬ人間から、電話が掛かってこない旧きよき時代が、あったかもしれないが、今日、クーポンはいじめ、<お得な情報>という形で、ありとあらゆる形で、<あちら側から>有無を言わさずにやってくる時代である。確かに、忙しい時代である。そして、便利な反面、<危うい時代>でもある。今般。改めて、このニュース報道に接するに際して、全く、考えさせられた次第である。そう思いつつも、<無人島暮らし>を選択できるほどの勇気も、もはや、ないが、、、、、どうしたものであろうか?どのように、生き残り、どのようにして、もう少し、生きていかねばならないのであろうか?

 

 

M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式  

M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式

 

何年かぶりかに、M1グランプリをたまたま、テレビで観る機会を得たが、同時に、その優勝者の決定後にネットのGYAOで、配信された<忖度なしの反省会>というものを併せて観た。成る程、テレビというものも、今や、ネットでの裏番組に、押されるわけで、一般的な上っ面だけでの評論とは、別の面白みが、ネット配信にはあることが、容易に理解されよう。つまり、<笑いの科学>というか、<笑いの方程式>というものが、わかりやすく解説されていて、興味深いものがある。漫才とか、コントなども、演者だけではなくて、原作者をもっと、明らかにして、歌手だけでなくて、作詞家・作曲家ではないが、放送作家やコント作家も名前を公表してみたら如何なものであろうか?むしろ、芥川賞などの作家のデビューを手助けするように、<若手のコント作家を広く公募>して、笑いの方程式や笑いの科学の新たな試みを試すような機会を創出するべきではないだろうか?実際、漫才師は、突っ込みやぼけのどちらかが、原作を作る傾向がある以上、笑い飯のネット上での解説には、一定の重みが感じられた。ボケとツッコミとの往復とか、観客との対話とか、或いは、昔のコント55号が初めて使った掟破りと謂われる画面の横へのはみ出し移動と、(身長差による)縦の伸縮などの手法とか、言葉だけでなくて、様々な視覚的なテクニックとか、言葉というツールを使いながら、笑いの方程式を、次々に、緻密に、論じてゆくものである。どうやら、唯単に、浮かれた感じのおちゃらけやブサイクやキモカワイイを売り物にするキャラクターだけでは、笑いの方程式は完成せず、観客の笑いは、とれないらしい。その意味で、優勝した関東では無名に近いミルクボーイよりも、既に実績のあるかまいたちの方が、<玄人受けする複雑な方程式を提示>していたような気がしてならない。尤も、既にキング・オブ・コントでの実績がある以上、業界的には、苦節10数年のテレビでは無名に近い実績の無い、ミルクボーイの方が、コーンフレークや最中というキー・ワードの中での展開の方を、テレビ的には、吉本興行的には、優先されていたのではないだろうか?業界的には、その方が、丸く各方面の関係筋には良かったことであろうし、優勝者も、次点も、3位も、全て美味しいものではないだろうか?尤も、気の毒なのは、敗者復活からのし上がってきた和牛こそが、冷や飯を食わされたようである。おまけに上沼恵美子から、余計なコメントまでもらった挙げ句に、決定戦を準備中に敗退してしまったことは、悔やまれようが、既に、ある程度の実績を残している以上、仕方ないことではなろうか、ここは、<煮え湯を飲むという選択肢>もやむを得ないのではないだろうか?優勝者を決定するというテレビ的な手法の前では、確かに、<くじ運による順番>も、この<笑いの科学>の前には、方程式通りとはゆかないわけで、<松本人志の特異のツッコミ役の持論>は別にして、インディアンズにしても、ナイツの土屋がコメントしていたように、斬新な歌による掛け合い漫才も、所詮は、トップ・バッターによるある種の基準点のような意味合いも有り、本来は、何らかの+加点でも与えてあげなければ、<審査員による好悪という壁>の前では、撃沈されてしまわざるを得ないのかもしれない。それも又、<ある種の不運>なのかもしれない。それにしても、優勝することで、一夜にして、その知名度が上がり、その瞬間から、その人生も一変するわけだから、厳しいといえば、厳しいものがある。尤も、それすらも、実力がなければ、その後の一年後の活動も、持たないわけであるから、余程、実力が無ければ、全く、話にならないことは、この世界では、当たり前なのかもしれない。それにしても、吉本の会社組織を挙げてのバック・アップ支援と漫才を試す機会を劇場ライブも含めて、総力を挙げて実現する手法は、古典的な寄席中心の落語の世界の営業とは異なり、立川志らく当たりには、羨ましい限りではないだろうか?大御所と謂われる居並ぶ審査員の力量も、<様々な眼に見えない思惑>が垣間見られて、面白いが、それもこれも、GYAOのネット配信でのパンクブーブー麒麟笑い飯、ナイツ、小薮による司会の<忖度なしの解説コメント>のお陰だったのかもしれない。ツイッターによる同時コメントを観ながら、ネット視聴するのも、テレビの副音声とは違った意味での新しい楽しみ方なのかもしれない。久しぶりに、なかなか、面白い<表と裏、建前と本音のM1グランプリ>であった。

映画<JOKER>の<笑いと狂気>

=映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

 

美術館での絵画の鑑賞には、私は、いつも解説のイヤホンを余程のことがない限り、借りることなく、ますは、自分の感性を信じて、自分なりの想像の中で、画家と対話することにしている。ここのところ、幾つかの映画を観ることになったが、映画の場合には、DVDでも、再度、シーンをじっくりと、見直すことも可能であるから、実に面白い。その意味では、この<JOKER - put on a happy face>という映画も、じっくりと、それぞれのシーンやカットに、込められた脚本家・監督・役者・カメラマン達の<挑戦的な問いかけ>が、解らずに、見逃してしまいそうである。風聞するところでは、主役のホアキン・フェニックスが、お気に入りのシーンですら、監督に、バサリと削除カットされてしまったとか、それならば、完全ノーカット版というのが、仮にあるとすれば、それはどんなモノなのか、一体何故、どうして、こうなったのか、、、、そして、この映画の続編は製作されるのであろうか?期待したい作品である。一体、<どこからどこまでが事実>であり、<どこから先が、妄想>なのか?今風に言えば、<FACTとは何で、FAKEはどこまで>?といったところであろうか、果たして、アーサーという主人公が、ジョーカーという人物なのであろうか?一般的には、ジョーカー誕生までのストーリーであり、それでは、富豪の両親を射殺されてしまうブルース・ウェインという子どもが、結局長じて、バットマンになるのか?別に、私は、バットマンの映画をシリーズで観ているわけではないから、細かな人物の設定まで、コミックスを読んでもいないから、知識はないが、ある程度は、推測可能なのかもしれない。唯、事は、そう簡単には、この映画の脚本家も監督も役者もカメラマンも、卸してくれそうもない。そもそも、様々なシーンに、どこかの映画で観たようなシーンや、雰囲気が、<謎めいたパズル>のように、意図的に、ちりばめられているように感じてならない。

例えば、<笑いとダンス>のシーンが、様々な場面で垣間見られる。元来、笑いというものは、人間だけが有するもので、類人猿でも、仲間内でも、敵意がないことを示す顔つきはしても、心からの笑いというものはなく、ましてや、文化としてのコメディーやコントや落語、などは、あり得ないわけで、もっとも、その根源には、対比としての<悲しみ・悲劇>があることも忘れてはならない。その意味では、アーサーが、奇しくも言うように、<人生の悲劇は喜劇>にもなることに繋がっているのかもしれない。そして、役者としてのホアキン・フェニックスの真骨頂は、その<笑いとダンス>のシーンに、数々の場面で、遺憾なく発揮されているように思われる。まるで、コンテンポラリー・パーフォーマーが、即興で踊るように、その高揚感と悲しみを、このダンスの場面で、<心の高揚感・充足度>として、まるで表現しているようで、その変化は、微妙に、アーサーというコメディアンを目指していたピエロが、徐々に、ジョーカーへと変貌してゆく過程でもあろう。年老いた母との二人でのダンス、地下鉄階段での様々なシーンでのダンス、トイレの鏡に映し出された自分の分身である姿を見ながらのダンス、他、明らかに、そこには、<ある種のメッセージ性>が隠されていると思われる。重い足取り、軽いステップ、歩き方にも、細かい心境の変化がちりばめられているように感じられてならない。明らかに、映画を観ている観客への挑戦であろう。

目だけ、或いは、表面面の顔だけが笑っていても、心の底からは、決して、笑っていない、笑えない心境を、表現している演技なのだろう、脳の障害の為に予期せぬ時に、笑ってしまう病気なので、お許し下さい、というメッセージを準備して、バスの中で黒人の子どもの母親から、構わないで下さいと言われるシーンでも、第一の殺人を犯すきっかけとなる地下鉄車両の中でのピエロの衣装をまとったままでの突然の笑いも、様々なシーンでの笑いが、観られる。

この映画は、どこまでが、事実で、或いは、妄想であるか、解らないと評したが、それを判断するのは、観る側の想像力で大きく評価が分かれるところであるが、今日的な病巣である、厳然たるFACT(事実)であるところの<精神疾患>、<出自の秘密>、<幼少期でのネグレクト・DV・体罰>、<シングル・マザー>、<貧困格差>、<1%の富裕層>、<ソーシャル・ワーカー>、<暴動・暴力・殺人・治安>等の問題が、更には、<テレビのショー番組>という<エスタブリッシュメント>が、ゴッサムという都市の中で、描かれている。

出自・出生の秘密に絶望し、隣人女性に拒絶され、職場を解雇・失職され、自分の居場所を喪失してゆく、そして、福祉予算支援も削られ ソーシャル・ワーカーによる相談も廃止の憂き目に遭うこととなり、自分の尊厳と存在そのものも、喪失してゆく。そんな折に、偶然、ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンという人気司会者のショーに、出演するきっかけを掴むが、、、、、、。既に、そこに至る過程で、自身の人生は悲劇だ!これが、今や、喜劇と化す、一大ライブ・ショーを自らが、演じることになる。そして、それは、<我々はピエロだ!存在そのものも>、、、、、、というあたかも、<we are not 1%>或いは、ウォール・ストリートを占拠せよというムーブメントに呼応するかのように、<暴動・略奪・殺人>が、デモと共に、起こる。ここから先は、ネタばれにもなってしまうので、是非、映画を観てもらいたいものである。

私は、バットマンやジョーカーの俳優に関して、全くの門外漢であるが、(カッコーの巣の上で)のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーの役を、今回のホアキン・フェニックスは、十分、凌駕するにたる演技ではないだろうか、R+15という映画だから、ある程度の殺人場面は、やむを得ぬが、これらも、今日的な意味合いからすれば、FACTなのであろうから、やむを得ないのかもしれない。こびと症の同僚を、唯一、良くしてくれたのは、君だけだったからという理由から、解放したり、幾つかの<心理的な葛藤>が、その演技の中に、垣間見られる。

最期のラストシーンは、どのように、解釈したら良いのであろうか?

連行されるパトカーの中から、暴徒達に、助け出されて、カリスマ的な悪の犯罪リーダーとしてのジョーカーの誕生に、この当人が至ることになるのか、それとも、それは、単なる妄想の中で、アーカム州立病院の精神科の中に幽閉されてしまう精神病患者の連続殺人犯が現実なのか、一体、どちらなのか、どう解釈したら良いのであろうか?仮に、ジョーカーなる人物は、アーサーではなくて、<アーサーが作り出した仮面のジョーカーの哲学>に、共鳴した別の人物が、トーマス・ウェイン夫妻を殺害して、その子どもである、ブルース・ウェインが、後のバットマンに、なるのであろうか?そうなると、バットマンの執事は、誰なのであろうか?(それはどうでも良いかな)

 追伸):映画で、いつも楽しみなのは、音楽である。門外漢の私でも、チャップリンの映画、モダンタイムスの中で使われているスマイルの曲は、<どんな辛いときにも、スマイルすれば、乗り越えられる>、というメッセージは、母親から言われた、<どんなときも笑顔で、、、、、>も、まるで、皮肉にも受け取れてしまう。スローテンポの映画内の甘いメロディーは、まるで、<懐かしいよき時代のアメリカ>と大きな対比なのであろうか?字幕の歌詞も、意味深長なものである。想像力がかき立てられ、<現実のギャップ>として、浮き出てこよう。

Dr. Nakamura の突然の訃報

=Dr. Nakamura の突然の訃報:

自分が未だ子どもの頃には、マハトマ・ガンジーとか、密林の聖者と謂われたシュバイツァー博士とか、或いは、やはり、医師であったチェ・ゲバラとか、様々な同時代の同じ空気を自分も吸っていたであろう先人達が、人道主義者が、現に存在していた事を、ふと思い出した。国連難民高等弁務官を務めていた緒方貞子氏も、つい先頃、亡くなり、そして、突然、中村哲医師が、銃弾に斃れてしまったとの一方が、ネットに流れてきた。

それにしても医師として、人々の命を救おうとする中で、何故、土木作業を伴う、水利事業をアフガニスタンで、しかも、30余年という長きに亘り、取り組むことになったのか?

<不作為>とか、<忖度>という言葉の影で、<品格>とか、<矜持>とかいう言葉が、既に、忘れ去られようとする今の時代の中で、ハッキリと、自衛隊の海外派兵は、全く無意味で、むしろ、中村哲医師が目指すような運動への援助をヒト・モノ・カネの面で、積極的に行うことの方が、ずっと、効果的であるという趣旨の国会での発言にも、おおいに、考えさせられる。

医師として、命を助ける中で、幼い幼児の命も、老人の死も、結局は、死という事実の前では、命の長さに、価値があるのではなくて、弱い者から、犠牲になる事実は変わらず、むしろ、清らかな飲料水を提供することで、そこから、まずは、井戸を掘ることから始め、クナール川の急激な流れを自分の故郷の伝統的な山田堰などによる水の流れの変更と灌漑水利事業へと、更には、農地改革と農業による地域65万人にも及ぶ、砂漠の緑化事業へと、30有余年を掛けて、実現へ向かってゆくわけである。それにしても、医師による医療活動を通じる中で、何故、自らも、工事用重機を運転してまでも、日本人スタッフの殺害をも乗り越えて、、、、<危険な現場での活動>に拘ったのであろうか?

Sow the Flagを、インド洋での自衛隊による補給艦や、米軍のミサイルなどではなくて、全く、別の形で、日本人として、アンチテーゼを樹立したことは、不毛な政治家による対米追従路線とは別の道筋を示したように感じられる。国境なき医師団などとは異なる、<100人の医師の派遣よりも、1本の水路を!>というテーゼの確立と、その事業の実行という方向性、テロとの戦いは、貧困との闘いで、水の確保、治水事業、緑の大地と砂漠の克服、農業の振興を、現地の人への尊厳と敬意、家族の安全と、現地人材育成、専門知識の習得の機会と仕組み作りへの邁進、等などという別の異なる手法の確立。

どうもその辺を考える時、そのルーツには、ファミリー・ヒストリー(?)が、関係しているのかもしれない。中村の叔父は、火野葦平芥川賞作家であり、その本名は、玉井勝則で、<麦と兵隊>や<花と龍>の著作を著し、同時に、今の北九州市若松区沖仲仕だった、玉井金五郎の長男であり、玉井組の2代目でもある。(そんな中で、余談だが、石原裕次郎が主演の映画、<花と龍>、母のまん役は、浅丘ルリ子だった。まぁ、それは、どうでも宜しいが、)火野葦平の妹の息子こそが、Dr. Nakamuraで、甥っ子に当たるわけである。祖父、玉井金五郎の顔写真は、そっくりの顔立ちであることにも改めて驚く。

<社会正義感>というものを初めて感じて成人してゆく課程には、何らかのこうした家族環境というか、ファミリーの血の中に、何らかの形で、色濃く影響されながら、引き継がれてゆくものなのであろうか?それとも、幼少期や少年期で、火野葦平の影響が何らかの形で、その後の医師としての、或いは、アフガンでの活動に、どのような影響があったのかは、今となっては、わからないが、、、、、、。<社会貢献>などという概念は、或いは、<貧しい人の為に尽くす>という概念は、ある種の教育で育てられるものなのであろうか?昔の武士の時代のように、武士道とか、忠義とかを、子どもの頃から、教え込まれてきたならいざしらず、73歳になっても、海外、しかも、命の危険を伴うアフガニスタンで、<人道支援事業>を30有余年も継続し続けるというその基になるものとは、何なのであろうか?そして、年齢的にも今や近くなりつつある現在、翻って自分の過去を振り返るときに、同じように、海外事業で、尤も、こちらは、自らの生業のために、やむなく、海外での事業展開に30数余年同じように関わってきたものの、私心というものと、公の心とも、呼べるものが、果たして、少しでも有り、そして、その<開発途上国への何らかの貢献>が、あったのであろうかと自問自答するとき、<技術の移転とヒト作り>くらいは、現地の幹部スタッフには、足跡の一つも残せたかなくらいの誇りは、心の片隅に、一種の結果としての拝金主義的な成功者を、その後に、残してしまったのではないかという罪悪感とともに、反面、持ち合わせているのが、正直なところであろうか?。<現地への利益の完全還元・寄与>という究極な崇高な高い意思は、どうしたら、培われるのであろうか?私のように、生業として、ビジネスとして、やむなく、洗濯せざるを得なかったものには、何とも、ずしりと重くのしかかってくるDr.Nakamuraの訃報でしかない。主亡き後、現地のスタッフ達は、どのように、今後、この事業を推敲継続し、次の30年後に、どのような国作りをするのであろうか?そして、この日本から、若い人達が、Dr.Nakamuraの遺志を継ぐ形で、輩出してくるのであろうか?

吊るし干し柿作りを愉しみながら、訃報に接するとき、非常に、複雑な思いと共に、今、何が、自分に出来るのであろうかと自問自答せざるを得ない。そろそろ、自分史とファミリー・ヒストリーでも整理し始める時期が、近づいてきたのであろうかとも思える。

合掌と共に、その遺志が、一人一人の各自の行動の中に、永遠に引き継がれることを祈りつつ、

BS 映画<キューポラのあるまち>を観る:

1962年(昭和37年)の未だ白黒映画時代の吉永小百合浜田光夫や、往年の今は亡き俳優達が多数出演している映画で、題名は知っているものの映画をしっかり観たという記憶が定かでなく、たまたま、テレビ欄で眼に飛び込んできたので、観ることにした。

それにしても、当時17歳だった吉永小百合が、ティンネージャーから、女性俳優へと脱皮してゆく時期の過渡期での作品であり、又今村昌平と後の夢千代日記などで有名になる浦山桐郎監督との共同作品で、五十有余年後の今日、改めて、観ても、その映画の中で、追求していこうとした数々の課題は、未だに、解決していないことを考えると、映画の問いかける時代の普遍性とは大変重いことを改めて、思わざるを得ない。

キューポラとは、ラテン語の樽を意味するそうで、そこから、転じて、溶鉱炉を意味するもので、当時の鋳物工場で有名であった川口という一地方都市の物語で、組合活動やオートメ化に伴う産業構造の変化や、労働者階級や職人階級という存在、在日朝鮮人差別と祖国帰還事業により家族が引き裂かれてゆく状況や、中学卒や定時制高校・夜間高校、貧富の格差、頑固親父との親子関係、担任教師との関係性や思春期の性の悩み、集団就職と職場での歌声運動、そして、今では懐かしい言葉となってしまった、<様々な放送禁止・差別用語>が、新聞配達や当時の町並みや風景の中や親子喧嘩の中で、垣間見られるのも、又、<そういう時代だった故>なのだろうか?それにしても、今でも、修学旅行のお小遣いや集金袋の回収など、気がつけば未だに、身近で、解決されていない問題にも、改めて気づかされてしまう。

 私たちが、未だ、幼かった昭和30年から35年頃には、等しく、みんな、貧しかったが故からか、貧乏人も、お手伝いさんのいるお坊ちゃまのお家で、三時のおやつに、ひとしきり、遊びほうけた後で、手も洗わずに、食い散らかしては、帰宅後に、母から、こっぴどく、叱られたことを、今でも、クラス会の時に、当時の仲間と共に、想い出しては、懐かしく語れるものの、賛否はあるものの、帰還事業で、北朝鮮へ、渡った在日朝鮮人達は、まさに、楽園と言われた彼の地で、ダブル・スタンダードの過酷な差別に苦しめられて、どうなっているのであろうか?その後の吉永小百合の信念にしても、影響があった、往年の映画には、それぞれの影響を及ぼしたであろう台詞が、そこここに、散見されている。それにしても、ただ、等しく、皆貧しかった時代には、何故、皆、これ、良しとしてしまうのであろうか?それは、皆、等しく、平等に、程度の差はあれ、皆、生活が豊かになり、物心両面でのほどほどの成功感と達成感という充足を味わえたからなのだろうか?さすれば、毛沢東時代の中国とキム三代の北朝鮮や韓国との比較の中で、相対的に、日本は、上記の幸福度は、達成感と充足度のバランスが、とれていると言うことなのであろうか?そして、何にもまして、当時の日本人の有する、考え方、<一生懸命働けば、明日は、今日よりも良い日が来る>という、一種の<勤勉精神と明日への向上期待信仰>への確信が、現として、存在していたのであろうか?もしそうであるとするなら、今日、何もかも、当時の面影は、無くなってしまった今日、鋳物工場も、海外工場へ移転され、人手不足から、在日外国人移民が増加して、ゴミ問題や言葉の障害による地域社会の対立があったり、労働組合は崩壊して、非正規雇用パート・タイマーで溢れ、既に、右肩上がりの経済モデルは、少子化高齢化社会の中で、崩壊してしまい、家族関係も分断され、<親リッチ>とは無縁な、ショービニズムに犯された嫌韓、ネト右のはびこる、ギスギスした、<正義と本質の見えずらい社会>に、いつしか、なってしまった。猫の目のように、映画の中で輝いていた当時17歳の吉永小百合の瞳には、何が、一体、今日、見えているのであろうか?キューボラのない街は、今日、もう一度、映画を撮るとしたら、何をテーマに、撮影して、どんな俳優が演じるのであろうか?それにしても、東野英治郎菅井きん、北村谷栄、殿山泰司加藤武小林昭二小沢昭一吉行和子浜田光夫、懐かしい白黒映画時代の俳優たちである。

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

2年程前の秋になるだろうか、同じく、湯本香樹美原作の、主演、本田望結、中村珠緒の『ポプラの秋』を、幼なじみのクラスメートのご主人がカメラマンだったことから、映画を観たことを想い起こすが、その時から、こちらの映画も、一寸、気になっていた。どちらも、肉親ではないが、知り合いである『老人の死』を通じて、子供達が、成長して行く過程を、繊細な文章と暖かい眼をもって、見守り、応援する中で、子供達は、やがて、少年・少女から、大人へと成長して行くというストーリーであろうか。児童文芸賞を受賞しただけあって、この映画も、三國連太郎のお爺さん役は、今となっては、もう、観られないのは、残念である。単なる子供達の仲間の肉親の葬式から、独居老人のその死の過程を見守ろうとする中で、やがて、そのゴミ屋敷同然の家の庭の雑草除去から始まって、家の室内外の改修へと、自発的に、行動を起こし、やがて、お爺さんの体験した辛い戦争中の、身重の女性を手に掛けてしまった話や、その復員後の結婚生活の破綻などの身の上話を通じて、少年達が成長してゆく過程も、そのクラス担任の若い女の先生が、実は、そのお爺さんの別れた奥さんの孫だということが、後に判るとか、そして、その奥さんに、遺産を実は、密かに、遺言で、残していたことなどが、葬式の際に、判るとか、最後の焼き場での、痴呆症を発症した奥さんが、跪きながら、一言、『お帰りなさい、ご苦労様でした!』という一言も、この3人の少年達の尽きぬ行動力とそのモチベーションの源泉とは、一体、何処から湧き出てきたのであろうか?微妙に、それぞれの少年達の家庭環境が、映画の中で、ちりばめられていて、とても、興味深い。何気ない日常生活の中でも、それは、様々なシーンに、例えば、庭の雑草を抜く場面でも、魚屋の少年が、錆びた包丁を研ぐときでも、スイカを美味しく、一緒に食べるときでも、アイロン掛けをするときも、台風の大雨の時でも、綺麗になった、広々とした庭にコスモスの種を播くときも、身の上話を聞くときも、成る程、冒頭の雨の中のサッカーの練習も、後で、見終わって初めて、気が付くモノがある。伊集院静が、『別れる力』か、何かで、云っていたが、『人間は、肉親でも、知り合いでも、誰であれ、別れることで、成長し、その別れることを体験する力をもつという事自体も、必要なのである』と、とりわけ、それが、死別であれ、別の種類の別れであれ、ふとしたきっかけで、知り合いになった、お爺さんとの『心の交流』から、その死別を通じて、これらの3人の少年達は、きっと、大人になっていったことであろう。主題歌を歌っていたザードの坂井も、逝ってしまったし、三國連太郎も、淡島千景も、亡くなってしまったが、この少年達を演じた子役達は、今、どうしているのであろうかとふと、考えてしまう。それぞれに、どんな別れ方をして、大人の階段を登っていったのであろうか?相米慎二監督による何気ない日常の情景に込められた小説の一文一文の描写は、なかなか、俳優達の演技とは別に、又、見終わった後に、じわじわと、印象に残るものである。小説に於ける想像力とは異なり、映画の描写も、実に面白いではないか。

 

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

2年程前の秋になるだろうか、同じく、湯本香樹美原作の、主演、本田望結、中村珠緒の『ポプラの秋』を、幼なじみのクラスメートのご主人がカメラマンだったことから、映画を観たことを想い起こすが、その時から、こちらの映画も、一寸、気になっていた。どちらも、肉親ではないが、知り合いである『老人の死』を通じて、子供達が、成長して行く過程を、繊細な文章と暖かい眼をもって、見守り、応援する中で、子供達は、やがて、少年・少女から、大人へと成長して行くというストーリーであろうか。児童文芸賞を受賞しただけあって、この映画も、三國連太郎のお爺さん役は、今となっては、もう、観られないのは、残念である。単なる子供達の仲間の肉親の葬式から、独居老人のその死の過程を見守ろうとする中で、やがて、そのゴミ屋敷同然の家の庭の雑草除去から始まって、家の室内外の改修へと、自発的に、行動を起こし、やがて、お爺さんの体験した辛い戦争中の、身重の女性を手に掛けてしまった話や、その復員後の結婚生活の破綻などの身の上話を通じて、少年達が成長してゆく過程も、そのクラス担任の若い女の先生が、実は、そのお爺さんの別れた奥さんの孫だということが、後に判るとか、そして、その奥さんに、遺産を実は、密かに、遺言で、残していたことなどが、葬式の際に、判るとか、最後の焼き場での、痴呆症を発症した奥さんが、跪きながら、一言、『お帰りなさい、ご苦労様でした!』という一言も、この3人の少年達の尽きぬ行動力とそのモチベーションの源泉とは、一体、何処から湧き出てきたのであろうか?微妙に、それぞれの少年達の家庭環境が、映画の中で、ちりばめられていて、とても、興味深い。何気ない日常生活の中でも、それは、様々なシーンに、例えば、庭の雑草を抜く場面でも、魚屋の少年が、錆びた包丁を研ぐときでも、スイカを美味しく、一緒に食べるときでも、アイロン掛けをするときも、台風の大雨の時でも、綺麗になった、広々とした庭にコスモスの種を播くときも、身の上話を聞くときも、成る程、冒頭の雨の中のサッカーの練習も、後で、見終わって初めて、気が付くモノがある。伊集院静が、『別れる力』か、何かで、云っていたが、『人間は、肉親でも、知り合いでも、誰であれ、別れることで、成長し、その別れることを体験する力をもつという事自体も、必要なのである』と、とりわけ、それが、死別であれ、別の種類の別れであれ、ふとしたきっかけで、知り合いになった、お爺さんとの『心の交流』から、その死別を通じて、これらの3人の少年達は、きっと、大人になっていったことであろう。主題歌を歌っていたザードの坂井も、逝ってしまったし、三國連太郎も、淡島千景も、亡くなってしまったが、この少年達を演じた子役達は、今、どうしているのであろうかとふと、考えてしまう。それぞれに、どんな別れ方をして、大人の階段を登っていったのであろうか?相米慎二監督による何気ない日常の情景に込められた小説の一文一文の描写は、なかなか、俳優達の演技とは別に、又、見終わった後に、じわじわと、印象に残るものである。小説に於ける想像力とは異なり、映画の描写も、実に面白いではないか。

 

映画、『スノーデン』を観る:

映画、『スノーデン』を観る:

一寸、用事が立て込んだ関係で、休日に映画を観る羽目になったことは、皮肉である、いつもなら、がらがらの映画館なのに、ネットで、確認したところ、何と、この映画もまた、ほとんど、満席同様な状態であった。何とも、不可思議な光景である。最近観た三作品の映画共に、皆、ほぼ、満席状態であったとは、驚いてしまう。『プラトーン』や、『74日に生まれて』という、これまでのアカデミー受賞作品の延長線上で、或いは、歴代の大領を扱ったJFK,ニクソン、ブッシュ、等の作品を挙げるまでもなく、オリバー・ストーン監督脚本の問題作のドキュメンタリーを基にした映画である。1995年に、サンドラ・ブロックが、主演で演じられた『ザ・インターネット』で、糸も容易く、自分という保証(?)された存在すらも、ネット上の操作で、なりすましの危うさに、驚かされたものであるが、今日、その後のネット上や仮想空間で繰り広げられた犯罪の手口を考えるときに、改めて、その危険性と進化のスピードに驚かされるものである。それでも、ごく、最近、約3-4年程前の20136月に、実際に、起こったこの事件には、その後の展開を見聞きするときに、改めて、その衝撃の小さくないこと、或いは、成る程、こういうことだったのかと、改めて、問い返される。ましてや、トランプの登場以後には、フェイクニュースも、ポスト・トゥルースも、今や、現実なのであろうか?

『個人の自由と安全』というバランス、とりわけ、9.11以降の世界的な風潮である、『私権の制限と安全』というバランスは、もろくも、法の支配による自由の制約や、法律には至らぬが、規範による、制限や、更には、緩い宗教的な道徳や、公徳心という範疇での『自主規制』とは明らかに、異なるところの、『安全最優先に基づく自由の制限』へと、『テロとの戦い』という錦の御旗の元で、ありとあらゆる生活の側面で、現在進行中(?)である。NSA(米国国家安全保障局)や、CIAは、この当時、29歳の元海兵隊出身の天才ITエンジニア、(反面では、ハッカーと、呼ばれて、ホワイト・ナイトなのか、どうかは、判らぬが)に、結局は、国家反逆罪の汚名を着せることでしか、訴追出来ずに、結局は、モスクワへと、逃げられて(?)しまう結果となった。電話、メールでも、チャットでも、SNSでも、トランプのツイッターも含めて(?)そして、ありとあらゆる通信、ビッグ・データも、友達の友達やあらゆるインターネット・プロバイダーも、ネット・サイバー上では、行き過ぎた監視体制の下、『対テロ戦争の為に』という錦の御旗で、サイバー空間も含めて、ドローンによる、或いは、無人攻撃機による攻撃まで、様々なシステムが、その唯一の目的のために、『テロには、本来関係無いのない私的な情報』も含めて、『政府の覇権を守るが故に、』、使われてきたし、現に、それは、映画の上だけではなくて、どういう政治体制をも問わずに、例外なく、『実際に、これまでも行われてきたし、現在も、そして、これからも、制限がなされようがなされまいが、断固として、行われることに間違いはない』ようである。そして、実際に、止まることを知らずに、厳然として、機能し続けているのが『現実』であることは、恐ろしいことである。『地球上で尤も、怖れられ追われている男の真実』とは、最近の『Fake News』や、『Post Truth』ではないが、アメリカにせよ、中国にせよ、ロシアにせよ、あの北朝鮮ですら、寸分も、違うことはないのが、現実であろう。国家反逆罪の罪から逃れることよりも、国家のために働くのではなくて、人々のために働くことを、自らの選択とした彼には、残念乍ら、皮肉にも、CIAからの『安全』は遠い遠い異国のモスクワの地で、保証されたものの、結局、彼の目指した理想の『自由』が、決して、保証されたわけではなかったことは、事実であろう。尤も、エンディング・ロールの最後の一行に、てんかんの持病を有するスノーデンを心配して、一緒に、ハワイへ、旅立った恋人も、結局は、事件後には、モスクワに渡航して、現在も、一緒に、生活している由であるという一文が、一抹の朗報とでも云えようか?それでも、自身の信念を貫く一方で、職場の同僚や、上司は、その後、どんな処分が科されることになったかは、告げられずに、エンディングになってしまったが、ガーディアンの記者達や、関係者は、どうなってしまったのであろうか?オバマから、トランプへと、更に、政治情勢が変わる中で、逆に、CIA、軍情報機関機能が、強化されるような傾向のなか、ロシア情報機関によるアメリカ大統領選挙へのサイバー攻撃が実際になされたとか、トランプの私的な不適切な情報が、リークされたとか、云われているが、一体、スノーデンや、ウィキリークス、アサンジーらは、モスクワから、今日の劇的な変化をどのような視点で、眺めているのであろうか?何とも、興味深いものがある。そして、この映画の中で、スノーデンが、デル・コンピューターや、日本でも、勤務していた実態が明かされたり、自衛隊の幹部が、ハワイを訪問して、情報監視システムを見学しているという事実を、我々は、どのように、考えたら良いのであろうか?日本での個人情報の監視と盗聴とコントロールは、どのように、現在進行形で、行われているのであろうか?映画の切符を購入するシステムもきっと、それなりに、分析されているのであろう!すると、最近観た3本の映画、『アイヒマンを追え』、『沈黙―サイレンス』、『スノーデン』も、人工知能のスクリーニングで、どのように、思考分類、或いは、思想分類されているのであろうか?パソコンのウェッブ・カメラが、突然、知らぬ間に、碧く点滅したら、やはり、ガムテープで、目隠しすべきなのであろうか?困ったものである!全く、考えさせられるも、では、どのように、このような便利なサイバー空間の中で、自分は、その自由と安全を守り抜いたら良いのであろうか?全く、考えさせられてしまう。

 
 

映画、『スノーデン』を観る:

映画、『スノーデン』を観る:

一寸、用事が立て込んだ関係で、休日に映画を観る羽目になったことは、皮肉である、いつもなら、がらがらの映画館なのに、ネットで、確認したところ、何と、この映画もまた、ほとんど、満席同様な状態であった。何とも、不可思議な光景である。最近観た三作品の映画共に、皆、ほぼ、満席状態であったとは、驚いてしまう。『プラトーン』や、『7月4日に生まれて』という、これまでのアカデミー受賞作品の延長線上で、或いは、歴代の大領を扱ったJFK,ニクソン、ブッシュ、等の作品を挙げるまでもなく、オリバー・ストーン監督脚本の問題作のドキュメンタリーを基にした映画である。1995年に、サンドラ・ブロックが、主演で演じられた『ザ・インターネット』で、糸も容易く、自分という保証(?)された存在すらも、ネット上の操作で、なりすましの危うさに、驚かされたものであるが、今日、その後のネット上や仮想空間で繰り広げられた犯罪の手口を考えるときに、改めて、その危険性と進化のスピードに驚かされるものである。それでも、ごく、最近、約3-4年程前の2013年6月に、実際に、起こったこの事件には、その後の展開を見聞きするときに、改めて、その衝撃の小さくないこと、或いは、成る程、こういうことだったのかと、改めて、問い返される。ましてや、トランプの登場以後には、フェイクニュースも、ポスト・トゥルースも、今や、現実なのであろうか?

『個人の自由と安全』というバランス、とりわけ、9.11以降の世界的な風潮である、『私権の制限と安全』というバランスは、もろくも、法の支配による自由の制約や、法律には至らぬが、規範による、制限や、更には、緩い宗教的な道徳や、公徳心という範疇での『自主規制』とは明らかに、異なるところの、『安全最優先に基づく自由の制限』へと、『テロとの戦い』という錦の御旗の元で、ありとあらゆる生活の側面で、現在進行中(?)である。NSA(米国国家安全保障局)や、CIAは、この当時、29歳の元海兵隊出身の天才ITエンジニア、(反面では、ハッカーと、呼ばれて、ホワイト・ナイトなのか、どうかは、判らぬが)に、結局は、国家反逆罪の汚名を着せることでしか、訴追出来ずに、結局は、モスクワへと、逃げられて(?)しまう結果となった。電話、メールでも、チャットでも、SNSでも、トランプのツイッターも含めて(?)そして、ありとあらゆる通信、ビッグ・データも、友達の友達やあらゆるインターネット・プロバイダーも、ネット・サイバー上では、行き過ぎた監視体制の下、『対テロ戦争の為に』という錦の御旗で、サイバー空間も含めて、ドローンによる、或いは、無人攻撃機による攻撃まで、様々なシステムが、その唯一の目的のために、『テロには、本来関係無いのない私的な情報』も含めて、『政府の覇権を守るが故に、』、使われてきたし、現に、それは、映画の上だけではなくて、どういう政治体制をも問わずに、例外なく、『実際に、これまでも行われてきたし、現在も、そして、これからも、制限がなされようがなされまいが、断固として、行われることに間違いはない』ようである。そして、実際に、止まることを知らずに、厳然として、機能し続けているのが『現実』であることは、恐ろしいことである。『地球上で尤も、怖れられ追われている男の真実』とは、最近の『Fake News』や、『Post Truth』ではないが、アメリカにせよ、中国にせよ、ロシアにせよ、あの北朝鮮ですら、寸分も、違うことはないのが、現実であろう。国家反逆罪の罪から逃れることよりも、国家のために働くのではなくて、人々のために働くことを、自らの選択とした彼には、残念乍ら、皮肉にも、CIAからの『安全』は遠い遠い異国のモスクワの地で、保証されたものの、結局、彼の目指した理想の『自由』が、決して、保証されたわけではなかったことは、事実であろう。尤も、エンディング・ロールの最後の一行に、てんかんの持病を有するスノーデンを心配して、一緒に、ハワイへ、旅立った恋人も、結局は、事件後には、モスクワに渡航して、現在も、一緒に、生活している由であるという一文が、一抹の朗報とでも云えようか?それでも、自身の信念を貫く一方で、職場の同僚や、上司は、その後、どんな処分が科されることになったかは、告げられずに、エンディングになってしまったが、ガーディアンの記者達や、関係者は、どうなってしまったのであろうか?オバマから、トランプへと、更に、政治情勢が変わる中で、逆に、CIA、軍情報機関機能が、強化されるような傾向のなか、ロシア情報機関によるアメリカ大統領選挙へのサイバー攻撃が実際になされたとか、トランプの私的な不適切な情報が、リークされたとか、云われているが、一体、スノーデンや、ウィキリークス、アサンジーらは、モスクワから、今日の劇的な変化をどのような視点で、眺めているのであろうか?何とも、興味深いものがある。そして、この映画の中で、スノーデンが、デル・コンピューターや、日本でも、勤務していた実態が明かされたり、自衛隊の幹部が、ハワイを訪問して、情報監視システムを見学しているという事実を、我々は、どのように、考えたら良いのであろうか?日本での個人情報の監視と盗聴とコントロールは、どのように、現在進行形で、行われているのであろうか?映画の切符を購入するシステムもきっと、それなりに、分析されているのであろう!すると、最近観た3本の映画、『アイヒマンを追え』、『沈黙―サイレンス』、『スノーデン』も、人工知能のスクリーニングで、どのように、思考分類、或いは、思想分類されているのであろうか?パソコンのウェッブ・カメラが、突然、知らぬ間に、碧く点滅したら、やはり、ガムテープで、目隠しすべきなのであろうか?困ったものである!全く、考えさせられるも、では、どのように、このような便利なサイバー空間の中で、自分は、その自由と安全を守り抜いたら良いのであろうか?全く、考えさせられてしまう。

 

 

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

いつも、映画は、がらがらの中で、観ているものであるから、こんな満席の中で、映画を観るのは、久しぶりである。それにしても、斜陽産業と云われて久しいが、こんなに、大勢の人が観に来るとは、やはり、良い作品を、作り上げれば、結構、需要があると謂うことなのであろう。買うものがないとか、既に、飽和であるなどと云われているものの、まだまだ、商品企画と丁寧な商品つくりを行えば、需要はあるということに決して、間違いはない。

それにしても、もう、45年以上も前に、原作を読んだものであるから、映画を見終わってからでも、再び、読み返してみることにでもしようか?篠田正浩監督が、1971年、製作した同名の映画は、記憶にない事からすると、見てはいなかいのかも知れない。原作の本だけである。スコッティー監督の『タクシー・ドライバー』は、記憶にあるが、、、、、、。

 映画を観る上での時代考証と前後の歴史的な経緯を、他方整理してから、論評に入ることにしたい。時は、1641キリシタン弾圧が厳しくなりつつある長崎、五島・生月島での話である。ザビエルが、鹿児島にキリスト教を伝えに、鹿児島に上陸したのが、1549年であり、その少し前の1543年には、種子島に、火縄銃が伝来したとされている。1552年には、ザビエルは、マカオで、ぼっしているから、インドのゴアを拠点とした、マカオ等のイエズス会系の極東への布教活動も、安土桃山時代の、信長・秀吉・家康へと覇権が移行してゆく過程での南蛮貿易キリシタン大名、世界的な政治状況下の中での出来事として、ある程度、理解しておかないと、ポルトガル・オランダ・イギリス・スペインの世界的な覇権をも、充分、念頭に置きながら、観ておかなければ、単なる内面的な『神の問題』としてのみ、尤も、それこそが、主題であることには、変わりはないのであるけれどもである。それは、後半に、論じることにして、これらの一連の流れの中で、1587年の場t4エレン追放令や」九州征伐の過程での秀吉の当時の黙認市井が、1596年サンフェリペ号事件や1597年のフランシスコ会系の日本26聖人処刑事件へと、日本でのキリスト教布教に於ける、ドミニコ系、フランシスコ系、イエズス会系の主導権争いや、日本人奴隷売買の摘発などやらから、これまでの緩やかな間接統治、現地主義から、より根源的な直接的な宣教方式への転換とが相待って、既存仏教宗教勢力への排外主義・衝突も有り、更には、1637年の島原の乱による藩主の切腹ではない、斬首という形で、喧嘩両成敗的に、処罰される絶滅的なキリシタン抹殺へと、突き進んでゆくことになる。それは、皮肉にも、スペイン・ポルトガルから、徐々に、オランダ・イギリス、ウィリアム・アダムスや、八重洲の基になる、ヤン・ヨーステンなどの、事例を皮肉にも、観るまでもなく、世界貿易の実利と宗教の乖離を、徹底して、長崎平戸の出島へと、向かう過程でもあろうか、それは、世界史的にも、丁度、アルマダの海戦から、オランダ独立戦争に至る80年戦争への過程とも、符合する過程なのかも知れない。宗派的には、ポルトガル系のカソリック系から、オランダ流のプロテスタント系へ、或いは、間接統治主義だったキリシタン大名の勃興から、没落へ、至る、二度に亘る大きな殉教事件を引き起こす1619年、1622年という過程を経た上での暗黒の時代の出来事だったという背景を、私達は、十分理解しておかなければならないし、或いは、時の為政者の意図と、思想背景を理解しておかなければ、『内的な問題』、とりわけ、『神の沈黙』、『弱き者達』、『西洋と日本との思想の断絶』、『棄教の背景』、或いは、より、広い意味合いでの『転向・転び』という課題を考えるときに、充分、理解出来ずに、『今日的な課題』として、捉えることを妨げることになりはしないだろうか?心的な課題に立ち入った後で、最後に、映画評論を多生論じてみることにしたい。

 それにしても、中世の魔女狩りではないが、『拷問の歴史』、それは、ゲシュタポでも、北朝鮮の秘密警察でも、戦前の日本の特高でも、江戸時代のキリシタン弾圧の、逆さ吊りで、その血を一滴づつ、何日も掛けて、じわじわ苦しめながら、いたぶるやり方の前では、そんな『善意に満ちた信念』などは、木っ端微塵に、砕け散ってしまうことだけは、明らかであろう。とりわけ、今、若い頃を想い起こすときに、60年代の韓国でのキム・ジハの拷問前に宣誓した自白不当宣言文を、想い起こす。それは、如何なる拷問によっても、自らの信ずる『思想・信条・信念』は、決して変わることなく、強制的な拷問による自白は、有効ではないと宣するモノであった。謂わば、やむなく『踏み絵を踏む』ことと違いはない。『踏むがいい。汝を守る為に、この世に生かされ、痛さを分かつために十字架を背負った』と、どこからか、聞こえてくる、囁き掛ける声は、『弱き者』、『罪深き者』、を赦し、生き延びよとも、諭しているかのようである。『棄教』も、信仰を守りつつ、死にゆくものも、『死という鏡』の表と裏という一対だったのかも知れない。それでも、生き延びた者は、必ずその心の底に、悔悟と悔いを引き釣りながら、苦しみながら、日々、生きて行くことになる。弾圧する為政者の側にも、厳しくしても、根っこを徹底的に、叩きつぶしても、決して、根絶やしにすることは不可能であることを悟り、昔の『一向一揆』ではないが、結局、自分たちにも、或いは、キリシタン側にも、お互いに、都合の良い『形だけで良い転び』を、生み出して行くことになる。これは、『戦争中の転向』ではないが、如何にも、日本的な手法で有り、双方の面子を、互いに、折りの良いところで、融合するという一種の面子を重んじた『妥協的な手段』なのであろうか?『形だけで良い、形だけで良いのだ』という甘い悪魔のような囁きは、なかなか、刺激的なものである。棄教でもなく、背教でもなく、転向でもなく、『転ぶ』、転んでも、再び、『起き上がる』のである。日本的なるものとは、一体、何なのであろうか?そんな『甘い魅惑的な囁き』とは、果たして、何なのであろうか?きっと、日本的な思想と西洋的な思想との衝突から生じた『ある種の断絶』を、この時代には、こうしたやり方で、昇華・止揚してしまったのであろうか?究極的な虐殺という行き着いた先に、見いだしたものこそが、『転び』という八方全て、丸く収まる究極の選択であったのであろうか?

一向門徒も、悪人尚もて、往生すという親鸞の教えも、ジハードを厭わずに、殉教するモスリムも、この時代に、タイムスリップしたら、彼らは、どうしたであろうか?そして、肝心要の観客である我々は、果たして、どんな選択をしたことであろうか?密告もせずに、唯ひたすら、何度も形だけの踏み絵を踏み、唾を吐きかけて、転んでは何度もまた、立ち上がり、懺悔を繰り返しながら、結局、キチジローのように、処刑されるのであろうか?それとも、モキチのように、転びながらも、信念の中で、死んで行く途を選ぶのであろうか?『弱き者』は、どう生きて行けば良いのであろうか?

 窪塚洋介が、日本側での『よわき者』を代表する、片方の主役とすれば、明らかに、その対極にある相手方の主役は、イッセー緒方演じる、奉行であろう、その英語の演技もなかなかなものであると同時に、如何にも、悪意を内に包みながら、その自覚をおくびにも出さずに、飄々として、冷徹な官僚の役で、確信犯的な役柄と心理的な描写の演技は、実に、特筆すべきモノがある。そして、通史役の浅野忠正は、英語の台詞もあることながら、その小役人的な心情が、微妙に、台詞や演技にも、醸し出されていて、実に、これも面白い。それにしても、この時代の『貧困と格差』とは、映画とは云え、想像を遙かに超えるものがある。映画の中では、その後も、思想の再犯チェックは、とりわけ、厳しく、常に、確認、再確認、再々確認が、行われていたことがよく理解出来る。二時間40分程の大作出るから、その間、ずっと、観客は、嗚咽をひたすら、堪えながら、あるときは、堪え忍び、あるときは、堪えきれすにと、息苦しい連続であった。精根尽き果てると云うが、映画を観ながら、そんな感じで、上映後は、皆、押し黙りながら、映画館を後にしていった。少々、年寄りには、体力を必要とする映画であろうか?若い人には、是非、見てもらいたい映画であるし、無論作品を、読んでもらいたいと思う。もう一度、再読することにしようかな。それにしても、来日する中国人観光客が、きっと、中国の地下教会信者に向けて、DVDのコピーを持ち帰ることは必至であろうが、彼らは、中国現地で、どのように観賞するのであろうか?ロケ地が、台湾で、コストを節約するために、重視されたことは、長崎、五島の隠れキリシタンの子孫達には、少々、残念であった事は確かであろう。もっとも、転んだ人達がいなかったら、今日の子孫も存在しないことは、誠に、歴史の皮肉と云うほかないが、、、、、、、、、。

 

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

映画、『沈黙―サイレンス』を観る:

いつも、映画は、がらがらの中で、観ているものであるから、こんな満席の中で、映画を観るのは、久しぶりである。それにしても、斜陽産業と云われて久しいが、こんなに、大勢の人が観に来るとは、やはり、良い作品を、作り上げれば、結構、需要があると謂うことなのであろう。買うものがないとか、既に、飽和であるなどと云われているものの、まだまだ、商品企画と丁寧な商品つくりを行えば、需要はあるということに決して、間違いはない。

それにしても、もう、45年以上も前に、原作を読んだものであるから、映画を見終わってからでも、再び、読み返してみることにでもしようか?篠田正浩監督が、1971年、製作した同名の映画は、記憶にない事からすると、見てはいなかいのかも知れない。原作の本だけである。スコッティー監督の『タクシー・ドライバー』は、記憶にあるが、、、、、、。

 映画を観る上での時代考証と前後の歴史的な経緯を、他方整理してから、論評に入ることにしたい。時は、1641年キリシタン弾圧が厳しくなりつつある長崎、五島・生月島での話である。ザビエルが、鹿児島にキリスト教を伝えに、鹿児島に上陸したのが、1549年であり、その少し前の1543年には、種子島に、火縄銃が伝来したとされている。1552年には、ザビエルは、マカオで、ぼっしているから、インドのゴアを拠点とした、マカオ等のイエズス会系の極東への布教活動も、安土桃山時代の、信長・秀吉・家康へと覇権が移行してゆく過程での南蛮貿易キリシタン大名、世界的な政治状況下の中での出来事として、ある程度、理解しておかないと、ポルトガル・オランダ・イギリス・スペインの世界的な覇権をも、充分、念頭に置きながら、観ておかなければ、単なる内面的な『神の問題』としてのみ、尤も、それこそが、主題であることには、変わりはないのであるけれどもである。それは、後半に、論じることにして、これらの一連の流れの中で、1587年の場t4エレン追放令や」九州征伐の過程での秀吉の当時の黙認市井が、1596年サンフェリペ号事件や1597年のフランシスコ会系の日本26聖人処刑事件へと、日本でのキリスト教布教に於ける、ドミニコ系、フランシスコ系、イエズス会系の主導権争いや、日本人奴隷売買の摘発などやらから、これまでの緩やかな間接統治、現地主義から、より根源的な直接的な宣教方式への転換とが相待って、既存仏教宗教勢力への排外主義・衝突も有り、更には、1637年の島原の乱による藩主の切腹ではない、斬首という形で、喧嘩両成敗的に、処罰される絶滅的なキリシタン抹殺へと、突き進んでゆくことになる。それは、皮肉にも、スペイン・ポルトガルから、徐々に、オランダ・イギリス、ウィリアム・アダムスや、八重洲の基になる、ヤン・ヨーステンなどの、事例を皮肉にも、観るまでもなく、世界貿易の実利と宗教の乖離を、徹底して、長崎平戸の出島へと、向かう過程でもあろうか、それは、世界史的にも、丁度、アルマダの海戦から、オランダ独立戦争に至る80年戦争への過程とも、符合する過程なのかも知れない。宗派的には、ポルトガル系のカソリック系から、オランダ流のプロテスタント系へ、或いは、間接統治主義だったキリシタン大名の勃興から、没落へ、至る、二度に亘る大きな殉教事件を引き起こす1619年、1622年という過程を経た上での暗黒の時代の出来事だったという背景を、私達は、十分理解しておかなければならないし、或いは、時の為政者の意図と、思想背景を理解しておかなければ、『内的な問題』、とりわけ、『神の沈黙』、『弱き者達』、『西洋と日本との思想の断絶』、『棄教の背景』、或いは、より、広い意味合いでの『転向・転び』という課題を考えるときに、充分、理解出来ずに、『今日的な課題』として、捉えることを妨げることになりはしないだろうか?心的な課題に立ち入った後で、最後に、映画評論を多生論じてみることにしたい。

 それにしても、中世の魔女狩りではないが、『拷問の歴史』、それは、ゲシュタポでも、北朝鮮の秘密警察でも、戦前の日本の特高でも、江戸時代のキリシタン弾圧の、逆さ吊りで、その血を一滴づつ、何日も掛けて、じわじわ苦しめながら、いたぶるやり方の前では、そんな『善意に満ちた信念』などは、木っ端微塵に、砕け散ってしまうことだけは、明らかであろう。とりわけ、今、若い頃を想い起こすときに、60年代の韓国でのキム・ジハの拷問前に宣誓した自白不当宣言文を、想い起こす。それは、如何なる拷問によっても、自らの信ずる『思想・信条・信念』は、決して変わることなく、強制的な拷問による自白は、有効ではないと宣するモノであった。謂わば、やむなく『踏み絵を踏む』ことと違いはない。『踏むがいい。汝を守る為に、この世に生かされ、痛さを分かつために十字架を背負った』と、どこからか、聞こえてくる、囁き掛ける声は、『弱き者』、『罪深き者』、を赦し、生き延びよとも、諭しているかのようである。『棄教』も、信仰を守りつつ、死にゆくものも、『死という鏡』の表と裏という一対だったのかも知れない。それでも、生き延びた者は、必ずその心の底に、悔悟と悔いを引き釣りながら、苦しみながら、日々、生きて行くことになる。弾圧する為政者の側にも、厳しくしても、根っこを徹底的に、叩きつぶしても、決して、根絶やしにすることは不可能であることを悟り、昔の『一向一揆』ではないが、結局、自分たちにも、或いは、キリシタン側にも、お互いに、都合の良い『形だけで良い転び』を、生み出して行くことになる。これは、『戦争中の転向』ではないが、如何にも、日本的な手法で有り、双方の面子を、互いに、折りの良いところで、融合するという一種の面子を重んじた『妥協的な手段』なのであろうか?『形だけで良い、形だけで良いのだ』という甘い悪魔のような囁きは、なかなか、刺激的なものである。棄教でもなく、背教でもなく、転向でもなく、『転ぶ』、転んでも、再び、『起き上がる』のである。日本的なるものとは、一体、何なのであろうか?そんな『甘い魅惑的な囁き』とは、果たして、何なのであろうか?きっと、日本的な思想と西洋的な思想との衝突から生じた『ある種の断絶』を、この時代には、こうしたやり方で、昇華・止揚してしまったのであろうか?究極的な虐殺という行き着いた先に、見いだしたものこそが、『転び』という八方全て、丸く収まる究極の選択であったのであろうか?

一向門徒も、悪人尚もて、往生すという親鸞の教えも、ジハードを厭わずに、殉教するモスリムも、この時代に、タイムスリップしたら、彼らは、どうしたであろうか?そして、肝心要の観客である我々は、果たして、どんな選択をしたことであろうか?密告もせずに、唯ひたすら、何度も形だけの踏み絵を踏み、唾を吐きかけて、転んでは何度もまた、立ち上がり、懺悔を繰り返しながら、結局、キチジローのように、処刑されるのであろうか?それとも、モキチのように、転びながらも、信念の中で、死んで行く途を選ぶのであろうか?『弱き者』は、どう生きて行けば良いのであろうか?

 窪塚洋介が、日本側での『よわき者』を代表する、片方の主役とすれば、明らかに、その対極にある相手方の主役は、イッセー緒方演じる、奉行であろう、その英語の演技もなかなかなものであると同時に、如何にも、悪意を内に包みながら、その自覚をおくびにも出さずに、飄々として、冷徹な官僚の役で、確信犯的な役柄と心理的な描写の演技は、実に、特筆すべきモノがある。そして、通史役の浅野忠正は、英語の台詞もあることながら、その小役人的な心情が、微妙に、台詞や演技にも、醸し出されていて、実に、これも面白い。それにしても、この時代の『貧困と格差』とは、映画とは云え、想像を遙かに超えるものがある。映画の中では、その後も、思想の再犯チェックは、とりわけ、厳しく、常に、確認、再確認、再々確認が、行われていたことがよく理解出来る。二時間40分程の大作出るから、その間、ずっと、観客は、嗚咽をひたすら、堪えながら、あるときは、堪え忍び、あるときは、堪えきれすにと、息苦しい連続であった。精根尽き果てると云うが、映画を観ながら、そんな感じで、上映後は、皆、押し黙りながら、映画館を後にしていった。少々、年寄りには、体力を必要とする映画であろうか?若い人には、是非、見てもらいたい映画であるし、無論作品を、読んでもらいたいと思う。もう一度、再読することにしようかな。それにしても、来日する中国人観光客が、きっと、中国の地下教会信者に向けて、DVDのコピーを持ち帰ることは必至であろうが、彼らは、中国現地で、どのように観賞するのであろうか?ロケ地が、台湾で、コストを節約するために、重視されたことは、長崎、五島の隠れキリシタンの子孫達には、少々、残念であった事は確かであろう。もっとも、転んだ人達がいなかったら、今日の子孫も存在しないことは、誠に、歴史の皮肉と云うほかないが、、、、、、、、、。

 

稀勢の里に思う

稀勢の里に思う:

何とも、糖尿病と闘い、苦しんだ往年のおしん横綱でもあり、又、師匠であった、隆の里親方にも、通じる土俵人生模様である。それでも、『そんなに急いで横綱にならずとも良い』とは、思っていたものの、瞬間的な短期的な二場所程度の勢いで、あっという間に、先を越されそうな状況の中では、おいおい、本当に、いつも、ここ一番と云うときには、期待を裏切る、気弱な大関であると、呆れ果てられてしまう矢先の出来事である。誠に、今時、流行らない、叩き上げの中学出の愚直で、要領の悪い、不器用な力士で、まるで、醜いアヒルの卵のようであろうか?これまでも、ここぞという、肝心な一番には、負けてしまうのは、メンタル・トレーニングや、コーチが、相撲界には、いなかったのであろうか?これ程までに、科学的なスポーツ・トレーニングが、進んでいる今日でも、相撲界という所は、祭器と士魂とが、宿る神聖不可侵な土俵という聖域なのであり、スポーツは無縁の場所だったのであろうか?昔、何かのスポーツ番組で、横綱になる力士の条件を、その時の

横綱の年齢・成績・怪我と休場の回数とかをデータ分析してみて、誰が、近い将来、横綱になれそうで、又、なれそうにないかということを推理していたことを想い出すが、やはり、力士の商品ライフサイクルではないが、そういう、伸び盛りか、下降時期なのかということも、ある意味では、生まれたときが悪かった式なタイミングもあるのかも知れない。大鵬がいなければ、柏戸ももっと、優勝回数が増えていたかも知れないし、稀勢の里も、白鵬がいたから、或いは、モンゴル勢に囲まれて、これまで、散々煮え湯を飲まされてきたのかも知れない、そう思うと、なかなか、相撲界も、人生模様を観ているようで、なかなか、面白いモノがある。今回は、流石に、白鵬も、変わることなく、正々堂々と、真っ向勝負で、力の限りに、といっても、自分の衰えを自覚しながらかも知れないが、短期決戦で、勝負に、強引に出てきたのかも知れない。そうしないと、勝てないのかとも、うすうす、自覚していたのかもし得ない。どう考えても、これまでの実績がなくて、負け越しや、休場や怪我で負け越しているのに、突然変異の如く、全勝優勝などが出来てしまう相撲というスポーツも、実に、面白いではないか?優勝しても、翌場所が振るわないなどと云うのも、これも又、妙なことである。時間が、かかった分、人は、その地位により、その器量が備わることになると云われていますが、これからが、本当の始まりで、これからの稀勢の里の活躍に期待しましょう、そして、これまで通り、師匠の教えをしっかりと守り実行出来るか、一番苦しい稽古をしてきたから、勝利する自信が生まれてくるはずで、嬉しくとも、土俵上では、表情に表さないという、祭儀の礼儀を、横綱として、常に、実行出来るのかが、改めて、これからの土俵上で真に、その横綱としての品格が、試されることになるのかも知れない。力士の怪我が多い中で、これまで、休場がなかったと云うことは、又、優勝のない力士の最多勝利獲得ということも、特筆されるべきことである。元大乃国や、元霧島などの優勝が出来なかったことへのコメントを解説で聞いていても、人生、実力だけでなくて、プラスの運も味方すると謂うこともあるものである。それにしても、地位がその人を作るように、大器晩成でもよいから、急がずに、自分なりの横綱像を築き上げて貰いたいことを願ってやまない。

 

稀勢の里に思う

稀勢の里に思う:

何とも、糖尿病と闘い、苦しんだ往年のおしん横綱でもあり、又、師匠であった、隆の里親方にも、通じる土俵人生模様である。それでも、『そんなに急いで横綱にならずとも良い』とは、思っていたものの、瞬間的な短期的な二場所程度の勢いで、あっという間に、先を越されそうな状況の中では、おいおい、本当に、いつも、ここ一番と云うときには、期待を裏切る、気弱な大関であると、呆れ果てられてしまう矢先の出来事である。誠に、今時、流行らない、叩き上げの中学出の愚直で、要領の悪い、不器用な力士で、まるで、醜いアヒルの卵のようであろうか?これまでも、ここぞという、肝心な一番には、負けてしまうのは、メンタル・トレーニングや、コーチが、相撲界には、いなかったのであろうか?これ程までに、科学的なスポーツ・トレーニングが、進んでいる今日でも、相撲界という所は、祭器と士魂とが、宿る神聖不可侵な土俵という聖域なのであり、スポーツは無縁の場所だったのであろうか?昔、何かのスポーツ番組で、横綱になる力士の条件を、その時の

横綱の年齢・成績・怪我と休場の回数とかをデータ分析してみて、誰が、近い将来、横綱になれそうで、又、なれそうにないかということを推理していたことを想い出すが、やはり、力士の商品ライフサイクルではないが、そういう、伸び盛りか、下降時期なのかということも、ある意味では、生まれたときが悪かった式なタイミングもあるのかも知れない。大鵬がいなければ、柏戸ももっと、優勝回数が増えていたかも知れないし、稀勢の里も、白鵬がいたから、或いは、モンゴル勢に囲まれて、これまで、散々煮え湯を飲まされてきたのかも知れない、そう思うと、なかなか、相撲界も、人生模様を観ているようで、なかなか、面白いモノがある。今回は、流石に、白鵬も、変わることなく、正々堂々と、真っ向勝負で、力の限りに、といっても、自分の衰えを自覚しながらかも知れないが、短期決戦で、勝負に、強引に出てきたのかも知れない。そうしないと、勝てないのかとも、うすうす、自覚していたのかもし得ない。どう考えても、これまでの実績がなくて、負け越しや、休場や怪我で負け越しているのに、突然変異の如く、全勝優勝などが出来てしまう相撲というスポーツも、実に、面白いではないか?優勝しても、翌場所が振るわないなどと云うのも、これも又、妙なことである。時間が、かかった分、人は、その地位により、その器量が備わることになると云われていますが、これからが、本当の始まりで、これからの稀勢の里の活躍に期待しましょう、そして、これまで通り、師匠の教えをしっかりと守り実行出来るか、一番苦しい稽古をしてきたから、勝利する自信が生まれてくるはずで、嬉しくとも、土俵上では、表情に表さないという、祭儀の礼儀を、横綱として、常に、実行出来るのかが、改めて、これからの土俵上で真に、その横綱としての品格が、試されることになるのかも知れない。力士の怪我が多い中で、これまで、休場がなかったと云うことは、又、優勝のない力士の最多勝利獲得ということも、特筆されるべきことである。元大乃国や、元霧島などの優勝が出来なかったことへのコメントを解説で聞いていても、人生、実力だけでなくて、プラスの運も味方すると謂うこともあるものである。それにしても、地位がその人を作るように、大器晩成でもよいから、急がずに、自分なりの横綱像を築き上げて貰いたいことを願ってやまない。

 

映画『アイヒマンを追え』を観る (渋谷:BUNKAMURA ル・シネマ)

=映画『アイヒマンを追え』を観る (渋谷:BUNKAMURA ル・シネマ)

東京という都市は、随分と便利且つ、贅沢なところである。平日の午後だというのに、良い映画を観たいという中年の映画ファン達に、席がほとんど、埋められているのには、驚かされる。丁度3年程も前のことだろうか、映画『ハンナカーレント』を新宿で観た時と、同じような情景である。同じホロコーストの『アイヒマン』を題材にしているものの、こちらは、裁判そのものではなくて、拉致・裁判に至る迄のドイツ人検事総長とその周辺の関係者の内面に関わる、ナチス残党(というよりも温存されたエスタブリッシュメント)との闘い、ドイツ人の歴史認識精算に関する問題、そういう観点から、翻って、日本人は、一体どうだったのであろうかと、考えると、実に、考えさせられる内容の映画である。

アイヒマン裁判は、子供の頃に、その逮捕と裁判の記事を今でも、子供心に想い出す。考えてみれば、自分が生まれた頃は、未だ、戦後復興と戦後政治秩序の処理とかが、ニュールンベルグ裁判も、東京裁判も、そうかも知れないが、歴史認識に対する政治ショー的な、東西冷戦の中での互いによるむき出しな凌ぎ合いのような様相で、フリッツ・バウアー検事総長も、決して、その枠外であったわけでは決してない。それにしても、我々は、どうやら、ドイツ人の、ドイツ人による、『ナチズムに対する歴史認識の成功的な精算』という事実は、正しくなかったことが、どうやら、改めて、この映画を観る限りは、再認識される。同じように、日本も、戦後間もなく始まった朝鮮戦争による経済再復興の最優先と、国民に開かれた(?)皇室と天皇制による政治的な統合のマヌーバーにより、日本人による、真の日本人のための、『歴史認識の精算』は、果たして、なされたのであろうか?それは、未だに、二度に亘る安保闘争学生運動の高揚の時代を経ても、虚しく、戦後民主主義の課題、沖縄基地の問題、原発事故の問題、韓国慰安婦問題、日露の領土・戦後処理、中国との歴史認識の対立、対米従属、地位協定の問題など、明らかに、今日まで、70年以上経過していても、問題が先遅れされていることも事実であろう。考えてみれば、ユダヤ人としての出自を有しながらも、復讐ではなく、正義と信念に基づき、当時のアデナウアー首相などのドイツ政府高官の政治的な恥部を、明らかに、すべく、ドイツでの裁判公開を目論むものの、当時の東西冷戦や、既に芽生え始めているユダヤとアラブの対立や、東西冷戦、西ベルリンと東ベルリンという、東西冷戦の影響など、我々が、いやが上にも、否定しきれない状況に、当時は、もっと、制約されていたことが、改めて、認識される。当時の若者とのテレビの議論でも、考えてみれば、20代・30代のドイツの若者達も、実は、ナチスの躍進してくる頃に、幼い頃を過ごすか、教育を受けてきた世代であることも、実に、皮肉以外の何ものでないであろう。謂わば、日本での『皇国少年・少女』と、彼ら、『ヒットラー・ユーゲント世代』とは、どのように、対比、考察されるべきなのであろうか?更に云えば、世界的な、『スチューデント・パワー世代』と『紅衛兵世代』は、今日、どんな、立場で、どのような考え方で、社会の中で、根付いているのであろうか?或いは、彼らの子供や、孫の世代へ、どのように、今日的な歴史的認識という意識は、継承されているのであろうか?そう考えると、戦後ドイツに温存され、根深く巣くったナチスの残党の影響というモノは、ひょっとすると、今日の『民族浄化』や『民族排外主義』とか、『移民排斥』や、『差別・格差』、『新たな見えない敵への恐怖の創出』へと、繋がっているのであろうか?こうした観点から、この映画を観ていると、『ニュールンベルグ裁判』と、『東京裁判』、『アイヒマン裁判』というものも、『イラク戦犯裁判』も含めて、とても、興味深く思えてくる。『人は、何を裁き?何のために、裁くのか?』そして、戦争犯罪を、『正義・公正』の名の下に、戦争犯罪人として、本当に裁けるのか?アイヒマンとは、『誰でもが、簡単に、アイヒマンになれてしまうこと』に、そのナチズムの恐ろしさがあると、ハンナアーレントは、アイヒマン裁判を見守る中で、語っていたが、東京裁判での過程で、原爆投下責任論や、戦争犯罪を裁判で裁けるのかという重い課題をハル検事達が、問題提起していることを、一体、どれ程の日本人が、知らされているであろうか?アイヒマンの居場所情報を、モサドにリークさせたという事実は、バウアーの死後、10年経過して後に、初めて開示されたとか、云われているが、それ程までに、国家反逆罪という重い法的な拘束とナチス残党による政府官僚組織、或いは、メルセデス・ベンツなども含めた形での産軍共同体による資金的・人的・組織的なナチス残党への支援などを観ていると、日本でも、戦後は、同じようなことが、温存されていることは、決して、否定してもし切れない何かがあろう。若い部下が、結局、スキャンダルによる脅しを断固拒否して、自らの家庭と職をなげうつことと引き替えに、その秘密を秘守したことは、自らが『過去に犯した妥協と亡命による延命』という選択を、皮肉にも、対比しているかのようである。正義と信念を貫くことで、自らの命の断たざるを得なかった友人達は、バウアーが選択した『途』を、果たして、是としたのであろうか?それとも、結局、芋づる式に、犯罪行為を暴けなかった結果、或いは、アイヒマン一人だけに罪を被せて終了してしまったと言う結果に対して、どのような評価を加えたのであろうか?そして、我々、日本人は、『どれ程までに、自らの手で、日本人の手で、』、『自らの責任と結果』を、これまで、総括したのであろうか?そう考えると、未だに、70年経た今日でも、我々日本人は、再びの豊かさを求め、『経済復興・最優先』であり、60年代から始まる、所得倍増計画や、その後に続く『奇蹟の戦後復興・経済成長』という図式は、今でも、やはり、『すべてに、経済的な復興が、豊かさが、最優先される』という図式が、全く、変わっていないことは、どうしたものだろうか?それにしても、アメリカ映画の全盛の中で、やはり、ドイツ映画や、フランス、イタリア映画などは、興味深いモノがある。次は、遠藤周作、原作の映画『沈黙 サイレンス』、121日からが楽しみである。こちらも、『転向と形だけの転びと棄教』と言う観点から、共通する課題だろうか?冬の間は、少々、映画観賞に明け暮れルとしようか、、、、、、、。