小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

それにしても、50年も前の若者は、古稀を過ぎてから、眼が衰え、レンズを交換して、すっかり、読書量が激減し、最近では、新型コロナウィル禍の為もあり、映画鑑賞の代わりに、ビデオの視聴が多くなってきたのはどうしたモノだろうか、尤も、友人に勧められて以降、KINDLEをダウンロードしてからは、i-padにダウンロードしたE-bookを読む回数が増えてきた。

新型コロナウィルス禍により、山ごもり状態であるが、今日(3月20日)から上映開始されるというので、山から下りて、映画館のネット・チケットをスマホで予約して、席もなるべく2席ほどの距離を開けて、とったにも関わらず、後から来た客は、何と私の隣の席に座ったので、やむなく上映開始と共に、一寸離れた席に移動して、マスクをしっかり装着して、再びじっくり見ることにした。それにしても、濃厚接触を回避する為に、ネット上では空席が明記されているのに、このおばさん夫婦は、何を考えているのであろうか?

 

それはさておき、TBSが所蔵していた4時間に亘る1969年5月13日の討論会のドキュメンタリー・フィルムを編集しながら、当時の関係者等のコメントをちりばめながら、この<言葉が未だ力のあった最後の時代>を、50年後の我々は、如何に、今日的に考えたら良いのであろうか?ここに登場する人物達の何名かは、主役を含めて、双方共に、既に今は亡く、もしも生きていたならば、どのように、再び、往時を総括するのであろうか?

当時は、全国的に燎原の火の如く拡がった、医局待遇改善や授業料値上げ反対闘争とも相俟って、世界的なベトナム反戦運動や、佐世保への原子力空母エンタープライズの寄港や王子野戦病院反対闘争や、ジェット燃料輸送阻止や、4・28沖縄奪還闘争や10・21国際反戦デー、新宿騒乱事件や東大安田講堂落城など、枚挙にいとまがないほどの政治闘争の真っ只中の中で、単身、敵対するであろう1000人もの意見を異にする若者を相手に、<正々堂々、真摯に敬意を払い>ながら、<言葉と言葉の激突する決闘の場に、臨んだその誠意>には、改めて、敬意を表すると共に、今日の官僚によるメモと原稿を棒読みをしたり、議事録・公文書を改竄したり、或いは、部下を自殺に追いやっても平然とその地位に甘んじている政治家や高級官僚などと比べるのも、誠に、おぞましく感じられる。

このドキュメンタリー映画を見終わって、そういえば、当時、この討論会の詳細な本を読んだ記憶を想い出し、改めて、本棚を探してみたら、文化防衛論や英霊の声の本の間に、副題:<美と共同体と東大闘争>新潮社版Yen250と記された177頁の本が出てきたので、ドキュメンタリー・フィルムと並行して、論じてみることにしよう。写真とかでは色々と現場の雰囲気を伝えるモノを見ているが、改めて、50年後にビジュアルで、観てみると、その<双方の圧倒的な熱量、熱い思い、濃いい情念>が、大画面から、三島の大きなギョロッとした眼から、上腕から、直接に、伝わってくる。それは、50年前に読んだ時に、本に記された自分の○や棒線・付箋から、感じられるある種のキーワード的なそれとは、異なる心を映像的に、揺さぶられるものではなかろうか。しかしながら、本に記載された内容を読み進むにつれて、改めて、<映像の時代と文字の時代>の違い、とりわけ、同じ<言葉を通じた表現の違い>はあるものの、未だ、確かに、当時は、言葉を媒介にした、立場を異なる者達同士が、<真摯に、言葉で互いをリスペクト>しながら、<言葉を武器として決闘の場に、正々堂々と自分の論理を展開したコト>には、50年後の現在には、絶対にあり得ないことであろう。<言霊が会場を飛び交い、そして、自決という言葉を残して>、三島は会場を後に去って行くことになる。<空っ風野郎>というヤクザ映画に出演したり、<人斬り>で切腹を演じてみたり、この討論会から、イヤな予感はあったものの、この1年半後に、市ヶ谷自衛隊総監部での割腹自決に至るとは、未だ、この時点では誰が想像し得たであろうか?確かに、12頁の中頃に、50年前の私は、<自決>という箇所に、○でこの文字を囲んでいる。

 

本の 目 次:

=暴力はいかんということはいったつもりはない、、、、、、、

=筋や論理はどうでもいいじゃないか、兎に角秩序が大切である、、、、、、

=行動を起こすときは結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。

=非合法で決闘の思想において、、、、、、、自決でも何でもして死にたいと思うのです。

反知性主義丸山真男について、、、、、、

  • <自我と肉体>:
  • <他者の存在とは>:

サルトルの<存在と無>を引用しつつ、暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。、、、、、

=暴力という形じゃなくて、、、、、<対決の論理・決闘の論理>に立っているのだと思われる。大江健三郎も引用しつつ、、、、

  • <自然対人間>:
  • 階級闘争と自然に帰る闘い>:

バリケードに供された教室の机の存在の考察を通じて、生産関係の根本に労働対象としての自然概念と暴力の根源的衝動について、、、、、、、、

  • <ゲーム或いは遊戯における時間と空間>:

=あなた方が作った歪んだ空間、その空間がそこに存在する時間はどういう風に持続しますか?

=解放区の問題を論じたいと思うのだが、、、、、時間の持続性という問題へ、、、、、

  • <持続と関係付けの論理>:

=三島からの二つの問題提起、名前というものがない世界と、、、、、目的論なしに活用出来るのか、、、匙を具体例にあげながら、、、、、

=ここで、三島をぶん殴りたいという全共闘Eが議論に加わる、、、、、

安田講堂で諸君が立てこもった時に天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒に、、、、喜んで一緒にやったと思う。

=昭和初年における天皇親政というものと、現在謂われている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。

=中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている、、、、、、、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。

=その難しさの中でだね、諸君は戦い、ぼくだって戦っているんだ。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ。それを天皇とよんでいいかどうかわからない。たまたま、ぼくは天皇という名前をそこに与えるわけだ。

=一体民衆の底辺というのは何なんですか?

=民衆の底辺というのは、日本人の持続したメンタリティーということで、時間の問題をぼくはさっきからたびたび言っているわけだ。、、、、、、、空間を形成する日本人というものは、諸君のような新たらしい日本人だ。、、、、、、、、一定の時間の中にしか生きていない人間、その人間の中にあるものだね。私は、日本人のメンタリティーの一つの大きな要素と考えるのだ。そのメンタリティーをどうするのかというこの問題を言っているわけだね。

  • <過去・現在・未来の考え方>:
  • <観念と現実における美>:

=君は美は美として完結させるにはどういう方法があるのですか、、、、、それを教えて下さい、それをどうやって君は完結させる。

=美というものは、ただ観念の中にしかないものである、、、、それを一歩踏み出せば、現実に腐食されて、美は美でなくなっちゃう。、、、、、、、、そうすると、諸君にとって美というものは、何ら重大な問題じゃない。

=芸術と実際行動との間というものについて、、、、、あらゆる関係性、時間性、現存性を超越していく方向、、、、、、自己超越性―超時間性、、、、、芸術作品における意識性と無意識性、、、、、、、、

  • 天皇とフリー・セックスと神人分離の思想>:
  • <ものとことばと芸術の限界>::
  • 天皇・三島・全共闘という名前について>:
  • <われわれは敵対しなければならない>:

 

ここまで、<50年後の若者である私>は、一生懸命に、<50年前の当時若者であった私>が、付箋を付した箇所を、なぞりながら、引用してきたが、ここまでくると、もう、別の<書籍評論>として、検討したくなるほど、付箋が多くなって来ました。是非、50年後の若者も、今の若者も、再度、或いは、新たに、読まれることをお薦めします。又、最近では、<カミューのペスト>が、再読されているようで、こちらも、書棚から、再読してみたいとも考えています。一寸、根気がなくなり、消耗してきたので、最期の節は、若干、端折ることにさせて下さい。お許し下さい。

 

そして、討論を終えて

  • 砂漠の住民への論理的弔辞 (三島由起夫)

=(三島は)このパネル・ディスカッションのために用意した論理の幾つかを次に箇条書きにしてみようと、下記を纏めている。

  • 暴力否定が正しいかどうかと言うこと。(三島は、無原則。無前提の暴力否定に反対し、暴力を肯定すると言った。、、、、、、、、、毛沢東の人民戦争のみが正しい暴力であるという論理に対するアンチ・テーゼ、、、、、、、)
  • 時間は連続するものか、非連続のものかと言うことである。(解放区・自分の肉体、精神、、、、、空間と一種の時間主義、、、、、、、、連続性と非連続性、、、、、歴史・伝統、、、、、、、過去・現在・未来という時間的連続性、、、、、、、)
  • 三派全学連はいかなる紡機にかかっているのかと言うことである。(左翼小児病、、、、、人は敵を愛することは出来るが、背いた友を愛することはできぬ。、、、、、、、嗜好の自由を標榜しながらも、ある点へ来ると体制左翼から思考の型をかりているか。、、、、、、、、政治と文学、(三島の)文学と行動とに対する彼等の批判、、、、、)
  • 政治と文学の関係である。(文学を生の原理、無倫理の原理、無責任の原理と規定し、行動を死の原理、責任の原理、道徳の原理として規定している。芸術が生の原理であり、無責任の原理であり、無倫理の原理であるという点については、彼等と三島との芸術観については、相隔たるところはない。しかしながら、行動が死の原理であり、責任の原理であるという点について、まさにその点についてこそ、彼等とわれわれとの思想的対立があらわにされるのである。、、、、、、、、生の原理と死の原理、、、、、、この二つの原理がお互いに行動の根本動機になるのであるとすれば、われわれは同じ行動様式によって反対側の戦線で闘っていると言わなければならないのである。、、、、、、、、、、、。)
  • 天皇の問題である。(、、、、、、、、、、私は彼等の論理背を認めるとしても彼等の狙う権力というものがそれ程、論理的なものであるとは考えないのである。そして、彼等が敵対する権力の事態の非論理性こそ、実は私も亦闘うべき大きな対象であることは言うを俟たない。、、、、、、、。)

 

ここまで読み進めてきて、少々、消耗してきました。やや、限界ですね。

  • 三島由起夫と我々の立場 (東大全共闘
  • あるデマゴゴスの敗北
  • 時間持続と空間創出

 

それにしても、50年後の若者は、50年前の若者、自分自身を振り返ったときに、何を感じるのであろうか?そして、今の若者が、50年前の若者を観たときに、何を思うのであろうか?ドキュメンタリー・フィルム全体に溢れる<圧倒的な熱気>は、本を再読するときとは、全く別の感慨を有する。今や、<事なかれ主義>という言葉も、<不作為>という言葉も、行動原理とか、主体にしても、今日の公文書改竄、カレイのような上目使いの行き過ぎた忖度にしても、言葉を重みを置かない言葉の遊びと責任を伴わない行動とか、今日、もはや枚挙にいとまがない。少なくとも、イデオロギーを異にする他者とも、正々堂々と、決闘の精神で臨んだ三島由起夫という存在は、その1年半後に、あの行為に、結実・実現されてゆくことになる。

50年後の若者としては、是非、今の若い人達に、観て貰ったり、本を読んで貰いたいモノである。<体感せよ!50年前の真実を!>