小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

サウジアラビアの次は、ベトナムの友人ご一行様か?:

サウジアラビアの次は、ベトナムの友人ご一行様か?:

サウジアラビアの留学生を迎えた後は、今度は、古いベトナム人の友人が会社の幹部を連れて、日本へ展示会の見学のついでに、お盆休み期間中にやってきた。全く、この期間中の交通の混雑など、全く、眼中になく、誠に、ベトナム人らしい、脳天気な連中である。しかも、私に、富士山をみたいので、レンタ・カーを借りて、お金を支払うから、6人丸ごと、一日掛けて、観光できないかと、、、、、、、彼らは、ベトナムでは、運転手付きだからよいが、私の経験では、アメリカ駐在の時も層だったが、運転手兼、ツアーコンダクターは、すべて、自分一人で、請け負わざるを得ないのが、宿命である。結局、国民性の生かどうかは、判らないが、案の定、予想はしていたが、各人てんでんばらばらのニーズで、朝八時に、都心のホテルにピックアップに往けば、いきなりWiFi ルーターが借りられないかと、何でも、前の晩、成田空港で店が閉まっていて、駄目で、結局、近くの新橋のヤマダ電機で、ルーターを借りに云ったが、最終的には、親切な店員が対応してくれて亜、SIMカ^ドに、アクティベーションまで、英語でやって貰って、ネット接続が可能になった。すると、我も我もと、結局3人が購入して、1時間ばかり、余計な時間を費やしてしまった。何やかやで、出発は、11時過ぎにずれ込んでしまった。そこから、首都高速経由で、一路、河口湖へ、雲に蔽われた富士山をみながら(?)五合目まで、往きたいとかで、車で、行こうとしたら、この期間は、マイカー規制で、通行禁止になっていて、結局、山中湖へ、そして、混雑を避けて、御殿場のプレミアム・アウトレットへ、何せ、初めての所ばかりで、外人にでも、連れて行って貰わなければ、来ないところばかりである。それにしても、ひどい混み方である。時間をわざとずらしても、何せ、15日では、如何せん、無理である。それにしても、買い物も、スニーカーとか、靴が多いのは、何故だろうか?本物と云えば、本物だが、逆説的云えば、如何に、現地では、偽物が多いかが、判る。困ったものである。それにしても、中国人とか、外国人観光客、とりわけ、アジア系が買い物は、多いのには、驚いてしまう。軽井沢のショッピングセンターも、アジア系が大きな声で闊歩しているそうである。何とも、品格が疑われる。これは、国民性だけなのであろうか?それとも、拝金主義の成せる技なのであろうか?美味しい、お寿司をご馳走になったから、あまり、文句も言えないけれども、、、、、、。更に、お金を落として貰うべく、帰りの時間を午後八時まで、すらしたせいか、帰りの高速道路は、多少、混雑していたが、何とか、夜10時半までには、ホテルに戻ることが出来たのは、幸いであった。結局、富士山は眺められなかったことから、又、次回、春にでも、桜の季節に、富士山を是非見に来たいと、云う事になった。

サウジアラビアの次は、ベトナムの友人ご一行様か?:

サウジアラビアの次は、ベトナムの友人ご一行様か?:

サウジアラビアの留学生を迎えた後は、今度は、古いベトナム人の友人が会社の幹部を連れて、日本へ展示会の見学のついでに、お盆休み期間中にやってきた。全く、この期間中の交通の混雑など、全く、眼中になく、誠に、ベトナム人らしい、脳天気な連中である。しかも、私に、富士山をみたいので、レンタ・カーを借りて、お金を支払うから、6人丸ごと、一日掛けて、観光できないかと、、、、、、、彼らは、ベトナムでは、運転手付きだからよいが、私の経験では、アメリカ駐在の時も層だったが、運転手兼、ツアーコンダクターは、すべて、自分一人で、請け負わざるを得ないのが、宿命である。結局、国民性の生かどうかは、判らないが、案の定、予想はしていたが、各人てんでんばらばらのニーズで、朝八時に、都心のホテルにピックアップに往けば、いきなりWiFi ルーターが借りられないかと、何でも、前の晩、成田空港で店が閉まっていて、駄目で、結局、近くの新橋のヤマダ電機で、ルーターを借りに云ったが、最終的には、親切な店員が対応してくれて亜、SIMカ^ドに、アクティベーションまで、英語でやって貰って、ネット接続が可能になった。すると、我も我もと、結局3人が購入して、1時間ばかり、余計な時間を費やしてしまった。何やかやで、出発は、11時過ぎにずれ込んでしまった。そこから、首都高速経由で、一路、河口湖へ、雲に蔽われた富士山をみながら(?)五合目まで、往きたいとかで、車で、行こうとしたら、この期間は、マイカー規制で、通行禁止になっていて、結局、山中湖へ、そして、混雑を避けて、御殿場のプレミアム・アウトレットへ、何せ、初めての所ばかりで、外人にでも、連れて行って貰わなければ、来ないところばかりである。それにしても、ひどい混み方である。時間をわざとずらしても、何せ、15日では、如何せん、無理である。それにしても、買い物も、スニーカーとか、靴が多いのは、何故だろうか?本物と云えば、本物だが、逆説的云えば、如何に、現地では、偽物が多いかが、判る。困ったものである。それにしても、中国人とか、外国人観光客、とりわけ、アジア系が買い物は、多いのには、驚いてしまう。軽井沢のショッピングセンターも、アジア系が大きな声で闊歩しているそうである。何とも、品格が疑われる。これは、国民性だけなのであろうか?それとも、拝金主義の成せる技なのであろうか?美味しい、お寿司をご馳走になったから、あまり、文句も言えないけれども、、、、、、。更に、お金を落として貰うべく、帰りの時間を午後八時まで、すらしたせいか、帰りの高速道路は、多少、混雑していたが、何とか、夜10時半までには、ホテルに戻ることが出来たのは、幸いであった。結局、富士山は眺められなかったことから、又、次回、春にでも、桜の季節に、富士山を是非見に来たいと、云う事になった。

伯母を伯父と共に、見舞う:

伯母を伯父と共に、見舞う:

お中元ではないが、季節の便りの梨を伯父から戴いたので、糠地の桃をお礼に持参しながら、久しぶりに、一緒に、介護施設に伯母を見舞うことにした。そう言えば、もう3年も経ってしまったのか、時間が経つのは早いモノである。伯父も、以前、脳梗塞で、大手術を乗り越えて、回復したのに、皮肉にも、あんなに、一生懸命、看病もして、山歩きもしていた元気だった伯母の方が、今度は、自分が、脳梗塞で倒れてしまう、逆に、一命を取り留めながら、右半身が麻痺して、更には、命と引き替えに、胃ろうまでされた上に、曾孫の誕生を待ちかねながら、ニコニコして、見舞い人をどこまで、認識しているのか、どうか、判らないが、出迎えてくれた。もっとも、伯父の方も、脊柱管狭窄症が悪化してきてしまい、看病に、毎日来ていたのに、結局、来られなくなってしまい、見舞い人二人とも、杖をつきながら、車で、来る始末である。もう、伯父伯母も二人づつになってしまったが、二人とも、伯母は、介護施設で、伯父達も、腰が悪くて、一人暮らしを強いられているのが、現状である。何でも、最近では、週二度のヘルパーさんに助けられて、洗濯機や電子レンジの使い方もマスターして、何とか、日常生活を送っていると、後どれくらいの時間が残されているかは、判らないが、思い立ったら、吉日ではないが、気が向いたら、顔を合わせることくらいは、してみることにしようか、そうすれば、亡き母も喜んでくれるかも知れない。それにしても、最近、人生の終末について、色々と考えさせられることが多い様な気がしてならない。

 

 

伯母を伯父と共に、見舞う:

伯母を伯父と共に、見舞う:

お中元ではないが、季節の便りの梨を伯父から戴いたので、糠地の桃をお礼に持参しながら、久しぶりに、一緒に、介護施設に伯母を見舞うことにした。そう言えば、もう3年も経ってしまったのか、時間が経つのは早いモノである。伯父も、以前、脳梗塞で、大手術を乗り越えて、回復したのに、皮肉にも、あんなに、一生懸命、看病もして、山歩きもしていた元気だった伯母の方が、今度は、自分が、脳梗塞で倒れてしまう、逆に、一命を取り留めながら、右半身が麻痺して、更には、命と引き替えに、胃ろうまでされた上に、曾孫の誕生を待ちかねながら、ニコニコして、見舞い人をどこまで、認識しているのか、どうか、判らないが、出迎えてくれた。もっとも、伯父の方も、脊柱管狭窄症が悪化してきてしまい、看病に、毎日来ていたのに、結局、来られなくなってしまい、見舞い人二人とも、杖をつきながら、車で、来る始末である。もう、伯父伯母も二人づつになってしまったが、二人とも、伯母は、介護施設で、伯父達も、腰が悪くて、一人暮らしを強いられているのが、現状である。何でも、最近では、週二度のヘルパーさんに助けられて、洗濯機や電子レンジの使い方もマスターして、何とか、日常生活を送っていると、後どれくらいの時間が残されているかは、判らないが、思い立ったら、吉日ではないが、気が向いたら、顔を合わせることくらいは、してみることにしようか、そうすれば、亡き母も喜んでくれるかも知れない。それにしても、最近、人生の終末について、色々と考えさせられることが多い様な気がしてならない。

 
 

理想的な顧客ターゲットとは何か?:

理想的な顧客ターゲットとは何か?:

全く客商売というモノは、辛いものである。それにしても、顧客管理画面のビッグ・データの懐石を詳しく、眺めていると、随分と、様々なことがらが、透けて見えてくるから面白いモノである。私は、ボランティアだから、このビッグデータの解析結果から、見えてくる理想とする『顧客ターゲット層』とは、一体、どんなモノなのであろうか?少なくとも、インバウンドでも、国内顧客でも、共通する様々な点が浮き彫りにされてくるから、面白いモノである。予約をかなり前から、確定してくる顧客は、どういう訳か、客単価が、高くて、当日、宿泊先を捜すような顧客は、どうも、素泊まりが多くて、客反がいずれも極めて低いのは、興味深い。しかも、ほとんどが、食事をとらないし、とっても、夜の八時以降の極めて、オペレーションを妨げる顧客層である。しかも、食事は、残り物でも何でも宜しいという泣けてくるような地産地消のコンセプトも何もあったモノではない。キャンセル料というモノも、高級なホテルや旅館であれば、かなり前からも、しっかりとキャンセル料を取るから、こきゃくがわは、キャンセルをしにくくなるのも事実であろう。それよりも、予約が鳥温井という状況も、確かに、何らかの意味で、公開できる仕組みも必要なのかも知れない。ある種ブランド作りというものも、着実に、必要不可欠ということになってくるであろう。要するに、宿泊料金だけでなくて、食事とか、環境、その他の付加価値を、価格の中に、転嫁できる工夫を整えなければ、なかなか、その場限りでの選択ということになり、他になかったから、要するに『消極的な消去法』で、残ってしまったからと言うことになってしまうのであろう。食事の量と質とコストとのバランスも、又、オペレーションの合理化、工夫、仕込みの合理化、生産性とか、人員配置とか、全く、工場での生産管理と全く同じであるにも拘わらず、以外と、ファミリー・オーナーというモノは、存外、そういう思考回路が、残念乍ら、繋がっていない。だいたい、外食産業界では、シェフ出身などが、成功した試しがないというのは、こういう所からも来ているのかも知れない。これは外食に限ったことではなくて、農業でも同じ事が云えるのかも知れない。意外と、中に入っていると、『怒りのコントロール』ではないが、『自分を客観視』することが、ないのであろうか?酒のPOPを各テーブルへの配布にしても、コンビニのレジ横の商品ではないが、結局置けば置いたで、必ず、注文してみようかなということになり、食事の客単価も、アップに繋がる結果になるというモノである。

話は、元に戻るが、結局、好ましい理想の顧客とは、この宿泊場所のコンセプトと哲学をりかしてくれて、しかも、お金を落としてくれることで、予約も事前に、してくれて、食事もゆったりと、くつろげるなかで、地元のスタッフとも、自由に話が出来るそういうホテルや老舗旅館とは異なるような差別化が、可能になるのかも知れない。その為には、何を、したら良いのかが、総合的に、或いは、各種別々の面からの作戦とカイゼンが必要になってくるのかも知れない。そして、その逆の側面、即ち、足を引っ張ってくるモノは、何で、何故、層なのか、そして、それを如何に、どの時点で、切り捨てるのかを判断することが重要であろう。エアビの方向性も見えてきたので、今度は、個人零細経営の改善事業を、ボランティアで、てこ入れしてみることにするかな。なかなか、こちらも、興味深い活動である。

 

理想的な顧客ターゲットとは何か?:

理想的な顧客ターゲットとは何か?:

全く客商売というモノは、辛いものである。それにしても、顧客管理画面のビッグ・データの懐石を詳しく、眺めていると、随分と、様々なことがらが、透けて見えてくるから面白いモノである。私は、ボランティアだから、このビッグデータの解析結果から、見えてくる理想とする『顧客ターゲット層』とは、一体、どんなモノなのであろうか?少なくとも、インバウンドでも、国内顧客でも、共通する様々な点が浮き彫りにされてくるから、面白いモノである。予約をかなり前から、確定してくる顧客は、どういう訳か、客単価が、高くて、当日、宿泊先を捜すような顧客は、どうも、素泊まりが多くて、客反がいずれも極めて低いのは、興味深い。しかも、ほとんどが、食事をとらないし、とっても、夜の八時以降の極めて、オペレーションを妨げる顧客層である。しかも、食事は、残り物でも何でも宜しいという泣けてくるような地産地消のコンセプトも何もあったモノではない。キャンセル料というモノも、高級なホテルや旅館であれば、かなり前からも、しっかりとキャンセル料を取るから、こきゃくがわは、キャンセルをしにくくなるのも事実であろう。それよりも、予約が鳥温井という状況も、確かに、何らかの意味で、公開できる仕組みも必要なのかも知れない。ある種ブランド作りというものも、着実に、必要不可欠ということになってくるであろう。要するに、宿泊料金だけでなくて、食事とか、環境、その他の付加価値を、価格の中に、転嫁できる工夫を整えなければ、なかなか、その場限りでの選択ということになり、他になかったから、要するに『消極的な消去法』で、残ってしまったからと言うことになってしまうのであろう。食事の量と質とコストとのバランスも、又、オペレーションの合理化、工夫、仕込みの合理化、生産性とか、人員配置とか、全く、工場での生産管理と全く同じであるにも拘わらず、以外と、ファミリー・オーナーというモノは、存外、そういう思考回路が、残念乍ら、繋がっていない。だいたい、外食産業界では、シェフ出身などが、成功した試しがないというのは、こういう所からも来ているのかも知れない。これは外食に限ったことではなくて、農業でも同じ事が云えるのかも知れない。意外と、中に入っていると、『怒りのコントロール』ではないが、『自分を客観視』することが、ないのであろうか?酒のPOPを各テーブルへの配布にしても、コンビニのレジ横の商品ではないが、結局置けば置いたで、必ず、注文してみようかなということになり、食事の客単価も、アップに繋がる結果になるというモノである。

話は、元に戻るが、結局、好ましい理想の顧客とは、この宿泊場所のコンセプトと哲学をりかしてくれて、しかも、お金を落としてくれることで、予約も事前に、してくれて、食事もゆったりと、くつろげるなかで、地元のスタッフとも、自由に話が出来るそういうホテルや老舗旅館とは異なるような差別化が、可能になるのかも知れない。その為には、何を、したら良いのかが、総合的に、或いは、各種別々の面からの作戦とカイゼンが必要になってくるのかも知れない。そして、その逆の側面、即ち、足を引っ張ってくるモノは、何で、何故、層なのか、そして、それを如何に、どの時点で、切り捨てるのかを判断することが重要であろう。エアビの方向性も見えてきたので、今度は、個人零細経営の改善事業を、ボランティアで、てこ入れしてみることにするかな。なかなか、こちらも、興味深い活動である。

 

警察からの突然の電話:

警察からの突然の電話:

突然、携帯電話に見知らぬ番号から、電話があった。いつもなら、そのまま、パスするところであったが、たまたま、電話がかかってくる予定があったので、電話口で対応すると、何と、宮古島警察署からの電話であった。ヒョッとして、宮古島と云う事は、私の友人で、宮古島在住の彼に何かがあったのかと瞬間思った途端に、向こうから、29日に部屋で、ご遺体で見つかったとの由で、たまたま、私の電話番号が電話帳に記載されていて、家族の連絡先を問い合わせる電話であった。要するに、自宅マンションで、『孤独死』であったらしい。2週間程前に、何でも、突然、突発性の難病に罹り、東京の病院に入院していたとかで、食事も、大好きだった蕎麦も、グルテンが含まれない十割蕎麦が、食べたいというので、アマゾンから、送附して、受領確認がされたばかりだったのに、、、、、、。何とも、人生、複雑な思いである。その時にも、電話で、孤独死にならないようにね、などと、軽口を叩いたのに、全く、人生、分からないものである。高校一年の時の同級生だったから、もう、50有余年の付き合いである。結婚式にも出席したし、レストランを開業したときも、時々、顔を出したり、自由が丘にフレンチのレストランを移転・開業した後も、結構利用したものであったが、離婚にも、遭遇したり、その後も、老母の介護に明け暮れて、その果てには、遺産の財産分与を巡って、兄達との骨肉の争いの果てに、結局、店を閉店して、生前財産分与の一部を返済したり、子供がいなかったために、沖縄、宮古島へ、移住することにしたらしい。5年ほど前のことだったろうか?2回ほど、女房殿と一緒に、宮古島へゴルフ旅行に行ったりしたときに、旧交を温めたりしたり、宮古島のマンゴーを、毎夏、送って貰ったりもしたものである。全く、人生とは何で有り、人生の終わりとは、どのように迎え、その前に、どのように準備したらよいのであろうか?全く、考えさせられてしまう。新聞や、報道で、『孤独死』の問題は、遺品の整理や、遺骨の処置も含めて、様々な問題があることは、見聞きしていたものの、一体、葬式の日程は、遺骨は何処に葬られるのであろうか?熱心な仏教徒だったから、お経の一つも、挙げてやりたいところであるが、どうしたものであろうか?早速、別の『孤独死候補の友人には、メールしておいたら、『他人事ではないね!』と返信があったが、こちらは、長男がいるから、安心だろうか?もっとも、一人暮らしには、変わりはないが、、、、、。人は、子供の頃、虫や小鳥や魚の死などで、或いは、可愛がっていたペットの死を通じて、更には、祖父や祖母や、或いは、親兄弟などの死を通じて、自分の人生を見つめ直しながら、大人になってくるのかも知れない。その意味では、伊集院ではないが、別れることと別れる力というモノが、生きる力にもなるのかも知れないが、歳をとるにつれて、ある種の喪失感というモノも、芽生え始めるモノであろうか?何とも、残りの人生を改めて、感じる契機となったことは間違いないであろうか、冥福を祈りたいモノである。

 

警察からの突然の電話:

警察からの突然の電話:

突然、携帯電話に見知らぬ番号から、電話があった。いつもなら、そのまま、パスするところであったが、たまたま、電話がかかってくる予定があったので、電話口で対応すると、何と、宮古島警察署からの電話であった。ヒョッとして、宮古島と云う事は、私の友人で、宮古島在住の彼に何かがあったのかと瞬間思った途端に、向こうから、29日に部屋で、ご遺体で見つかったとの由で、たまたま、私の電話番号が電話帳に記載されていて、家族の連絡先を問い合わせる電話であった。要するに、自宅マンションで、『孤独死』であったらしい。2週間程前に、何でも、突然、突発性の難病に罹り、東京の病院に入院していたとかで、食事も、大好きだった蕎麦も、グルテンが含まれない十割蕎麦が、食べたいというので、アマゾンから、送附して、受領確認がされたばかりだったのに、、、、、、。何とも、人生、複雑な思いである。その時にも、電話で、孤独死にならないようにね、などと、軽口を叩いたのに、全く、人生、分からないものである。高校一年の時の同級生だったから、もう、50有余年の付き合いである。結婚式にも出席したし、レストランを開業したときも、時々、顔を出したり、自由が丘にフレンチのレストランを移転・開業した後も、結構利用したものであったが、離婚にも、遭遇したり、その後も、老母の介護に明け暮れて、その果てには、遺産の財産分与を巡って、兄達との骨肉の争いの果てに、結局、店を閉店して、生前財産分与の一部を返済したり、子供がいなかったために、沖縄、宮古島へ、移住することにしたらしい。5年ほど前のことだったろうか?2回ほど、女房殿と一緒に、宮古島へゴルフ旅行に行ったりしたときに、旧交を温めたりしたり、宮古島のマンゴーを、毎夏、送って貰ったりもしたものである。全く、人生とは何で有り、人生の終わりとは、どのように迎え、その前に、どのように準備したらよいのであろうか?全く、考えさせられてしまう。新聞や、報道で、『孤独死』の問題は、遺品の整理や、遺骨の処置も含めて、様々な問題があることは、見聞きしていたものの、一体、葬式の日程は、遺骨は何処に葬られるのであろうか?熱心な仏教徒だったから、お経の一つも、挙げてやりたいところであるが、どうしたものであろうか?早速、別の『孤独死』候補の友人には、メールしておいたら、『他人事ではないね!』と返信があったが、こちらは、長男がいるから、安心だろうか?もっとも、一人暮らしには、変わりはないが、、、、、。人は、子供の頃、虫や小鳥や魚の死などで、或いは、可愛がっていたペットの死を通じて、更には、祖父や祖母や、或いは、親兄弟などの死を通じて、自分の人生を見つめ直しながら、大人になってくるのかも知れない。その意味では、伊集院ではないが、別れることと別れる力というモノが、生きる力にもなるのかも知れないが、歳をとるにつれて、ある種の喪失感というモノも、芽生え始めるモノであろうか?何とも、残りの人生を改めて、感じる契機となったことは間違いないであろうか、冥福を祈りたいモノである。

 

露天の五右衛門風呂を愉しむ:

露天の五右衛門風呂を愉しむ:

小学校の低学年だったろうか、祖母の実家である静岡県掛川市の掛塚という田舎の古い

大きな家に、夏休みに、泊まりがけで云ったことがある。そこで、大きな、恐らく、子供だったから、大きく感じたのかも知れないが、土間に、立派な五右衛門風呂が有り、丸い板が、真ん中に浮かび上がっていたのを覚えている。又、祖母が、一生懸命に、風呂釜の口から、ふーふーと木をくべながら、ぬるくないかと、訪ねていたことを60年ほどの昔での出来事ながら、想い起こす。何せ、初めての体験だったから、広い土間から、見上げた天井に、青大将が棲んでいると云うことを聞いてせいかどうかは判らぬが、鉄釜の五右衛門風呂どころではなかったことも、併せて、記憶している。それにしても、考えてみれば、60年ぶりくらいだろうか、オーナーの76歳になるお父様と裸の付き合いで、二人で、横に並んで、別々の五右衛門風呂に浸かりながら、ゆっくりと星と月を、そして、対岸の八重原の台地の上に見える明神館のほのかに揺らめく赤い灯を眺めながら、二人のとりとめのない話をしていると、昔、今は亡き父と一緒に、よく、内風呂に入りながら、会社のことや、事業のことや、将来の生き方などを相談したことを懐かしく、想い出される。もう亡くなってから、15年も過ぎるが、懐かしい想い出である。そんな情景が、この露天の五右衛門風呂には存在することが、おおいに宜しいではないか。温いお湯であることが好ましい。昼間であれば、一寸、一杯、ビールか、酒でも、ウッド・デッキの上で、椅子にもたれて、浴衣か、バス・ローブで、身体を冷やしながら、又、ゆったりと、温めのお湯に浸かり直すのも悪くはないだろう。桜の花や、藤の花も、季節によっては、愉しめるかも知れない。それよりも何よりも、並んで、別々の二つの湯船に、横に並んで浸かって、会話が出来ることは、一寸、贅沢ではないだろうか?インバウンドの若いカップルの観光客は、1時間以上も浸かっていたそうで、オーナーは知らずに、灯を消灯してしまったそうである。遠望できる景観と露天風呂の五右衛門風呂は、誠に、優れたコンテンツであるかも知れない。

国益という身勝手な怪物:

国益という身勝手な怪物:

昔、現役だった頃に、カントリー・リスクというモノを論じる何かの機会があって、識者と称する人からの、見解を聞いていたときに、この人は、何も現場を知らない、机上の空論であるなと感じたことがあった。最近、アメリカの大統領予備選挙を眺めていると、共和党も、民主党も、どちらも、例えば、TPPの問題でも、今更、自らが提唱しておきながら、何やら、グローバリズムに、反対などであると、全く訳の分からぬ事を言い始めるし、移民の国なのに、移民を排斥したいとか、穏やかではないが、又、英国のEU離脱ではないが、散々、これまで、メリットを享受しておきながら、今度は、手の平を返したように、大英帝国の過去の栄光と繁栄を未だに忘れられないのか、帝国自身の孤立と解体を懸けて、離脱という選択肢を選んだ訳であるが、これもそれも、すべてが、一国主義と自国国益優先主義の賜物ではなかろうか?日本という国は、或いは、日本人というモノは、第二次大戦で打ち負かされたせいだろうか、兎に角、様々な国々への配慮と、異常なまでの気配りと、それとも、従属ともとれるようなおもねり(?)とで、イラク参戦追随ではないが、検証作業も、なおざりに、国益の主張は、お隣の自称大国の南シナ海での派遣に較べれば、全く、国益などは、どこかに置いてきたような有様である。それにしても、国益とは、一体、何を意味し、何を代表とするモノなのであろうか?そして、グローバリズムの超本人は、一体、どうしたもので、自らが種まきしたモノを逆に、批判してしまうのであろうか?それ程までに、自国優先主義と一国主義と孤立主義は、本当に、有効な手法なのであろうか?その点、日本は、常に、出る杭は、打たれるではないが、自国民族主義の為に、いつも、お隣の国々には、ブレーキを掛けられている立場で、国益などを主張するどころではないのが現状であろうか。幸いなことにそれが、よいことかどうかは、判らぬが、どうやら、世界情勢は、そんなこととは関係為しに、我が儘勝手な大きな渦が渦巻き始めているのであろうか?

 

国益という身勝手な怪物:

国益という身勝手な怪物:

昔、現役だった頃に、カントリー・リスクというモノを論じる何かの機会があって、識者と称する人からの、見解を聞いていたときに、この人は、何も現場を知らない、机上の空論であるなと感じたことがあった。最近、アメリカの大統領予備選挙を眺めていると、共和党も、民主党も、どちらも、例えば、TPPの問題でも、今更、自らが提唱しておきながら、何やら、グローバリズムに、反対などであると、全く訳の分からぬ事を言い始めるし、移民の国なのに、移民を排斥したいとか、穏やかではないが、又、英国のEU離脱ではないが、散々、これまで、メリットを享受しておきながら、今度は、手の平を返したように、大英帝国の過去の栄光と繁栄を未だに忘れられないのか、帝国自身の孤立と解体を懸けて、離脱という選択肢を選んだ訳であるが、これもそれも、すべてが、一国主義と自国国益優先主義の賜物ではなかろうか?日本という国は、或いは、日本人というモノは、第二次大戦で打ち負かされたせいだろうか、兎に角、様々な国々への配慮と、異常なまでの気配りと、それとも、従属ともとれるようなおもねり(?)とで、イラク参戦追随ではないが、検証作業も、なおざりに、国益の主張は、お隣の自称大国の南シナ海での派遣に較べれば、全く、国益などは、どこかに置いてきたような有様である。それにしても、国益とは、一体、何を意味し、何を代表とするモノなのであろうか?そして、グローバリズムの超本人は、一体、どうしたもので、自らが種まきしたモノを逆に、批判してしまうのであろうか?それ程までに、自国優先主義と一国主義と孤立主義は、本当に、有効な手法なのであろうか?その点、日本は、常に、出る杭は、打たれるではないが、自国民族主義の為に、いつも、お隣の国々には、ブレーキを掛けられている立場で、国益などを主張するどころではないのが現状であろうか。幸いなことにそれが、よいことかどうかは、判らぬが、どうやら、世界情勢は、そんなこととは関係為しに、我が儘勝手な大きな渦が渦巻き始めているのであろうか?

 

穀物の遺伝子組み換えと果樹の交配新品種:

穀物遺伝子組み換えと果樹の交配新品種:

先日、日本の農業は、その生産性において、オランダとは、いつの間にか、格段の差がついてしまったというような事を報道されていたが、何が原因で、そんなことになってしまったのであろうか?小麦の遺伝子組み換えとか、馬鈴薯遺伝子組み換えには、随分と日本人は、敏感なのに、川魚とか、果樹の属性が同じ交配種に関しては、随分と、めざといモノがある。ある産直売り場で、サクランボとスモモを交配させた、一見、姫りんごとおぼしき直径二センチくらいの小粒の果物が、300グラムくらいのパックで、200円ほどで販売されていたので、早速、購入して、試食してみたところ、なかなか、面白い果物である。色々と調べてみると、既に、アメリカンチェリーのどす黒い色とスモモを掛け合わせた、バイオチェリーというものが、既に出回っているという。メスリーという名前のスモモも、あるらしい、スモモの味であると、どうやら、値段の方は、スモモに連動してしまうモノなのであろうか?それでも、産地でもないと、なかなか、すももやプルーンなどは、生食で、食べないものである。それでも、現地で、生食で、味わってみると実に面白いモノである。又、農家でも、毎年、こうした品種改良ではないが、皮を柔らかくして食べやすくしたり、色々と工夫しているようである。それでも、毎年、どんな新しい種類の果物が出てくるのかなどと期待するのは、楽しいものである。これから、いよいよ、もも、すもも、プルーン、デラウェア、ナガノ・パープル、シャイン・マスカット、メロン、すいか、マクワウリ、そして、野菜では、トウモロコシ、とか、枝豆とか、次から、次へと、旬のものが出始める。

 

 

穀物の遺伝子組み換えと果樹の交配新品種:

穀物の遺伝子組み換えと果樹の交配新品種:

先日、日本の農業は、その生産性において、オランダとは、いつの間にか、格段の差がついてしまったというような事を報道されていたが、何が原因で、そんなことになってしまったのであろうか?小麦の遺伝子組み換えとか、馬鈴薯の遺伝子組み換えには、随分と日本人は、敏感なのに、川魚とか、果樹の属性が同じ交配種に関しては、随分と、めざといモノがある。ある産直売り場で、サクランボとスモモを交配させた、一見、姫りんごとおぼしき直径二センチくらいの小粒の果物が、300グラムくらいのパックで、200円ほどで販売されていたので、早速、購入して、試食してみたところ、なかなか、面白い果物である。色々と調べてみると、既に、アメリカンチェリーのどす黒い色とスモモを掛け合わせた、バイオチェリーというものが、既に出回っているという。メスリーという名前のスモモも、あるらしい、スモモの味であると、どうやら、値段の方は、スモモに連動してしまうモノなのであろうか?それでも、産地でもないと、なかなか、すももやプルーンなどは、生食で、食べないものである。それでも、現地で、生食で、味わってみると実に面白いモノである。又、農家でも、毎年、こうした品種改良ではないが、皮を柔らかくして食べやすくしたり、色々と工夫しているようである。それでも、毎年、どんな新しい種類の果物が出てくるのかなどと期待するのは、楽しいものである。これから、いよいよ、もも、すもも、プルーン、デラウェア、ナガノ・パープル、シャイン・マスカット、メロン、すいか、マクワウリ、そして、野菜では、トウモロコシ、とか、枝豆とか、次から、次へと、旬のものが出始める。

 
 

サービスの対価と言う概念を考える:

サービスの対価と言う概念を考える:

昔、海外で、ファミレスで珈琲を飲んでいたら、典型的なおばちゃんのウェイトレスが、いきなり、自分が好みの甘さとミルクの絶妙な加減を維持していたのに、有無を言わさずに、コーヒーをたっぷりと濯いでしまい、誠にその味たるや、絶望の淵に追いおとされたおもいがしたことを懐かしく思いおこした。長野県でも、あるときに、女房殿とお茶を戴いていたところ、女房殿は、別に喉が乾いていたわけではないのであるが、茶碗を飲み干して、急いで、席を立とうとしたところ、すぐさま、お茶を注がれてしまい、席を立つチャンスを逸してしまい、これが、二三回続いたときには、流石に、もう結構です!と、鄭重に、言い放ったが、この光景をその相手の家人と、後で、問い糾したところ、当地では、お客様が、湯飲み茶碗を空っぽにすると、すかさず、お茶を注ぐという一種の文化的な風潮があることを、後日、聞き及んだ。成る程、面白いものである。こちらは、少しでも、お茶を残しては、申し訳ないから、すっかり、飲み干してしまうが、そうではなくて、そのまま、残しておいても、一向に差し支えはないらしい。サービスの対価とは、一体何なのであろうか?客の気持ちを忖度して、それに対して、自らの側で、いくらくらいになるのかを、計算することなのであろうか?それとも、それこそ、お裾分けではないが、贈る側は、贈られる側の気持ちを忖度することなく、無償の気持ちを、お裾分けという形で、自らの悦びをシェアーするという行為の形の表れなのであろうか?亡くなってしまった母は、生前、兎に角、人に対して、極端なときには、配達をする他人までも、暑いのにご苦労様でしたと、アイスクリームや冷たい飲み物を与えたりしていたことを不思議に想い起こす。長い歴史を有する古民家の農家の家のしきたりというものは、実に面白いモノである。菓子折一つにも、倍返しとは云わぬが、まるで、私の母が、生前良く言っていた、人様には、必ず、小さなものでも、必ず、お返しを欠かしてはいけない、と、まるで、貸しを作られるのを嫌がるが如く、借りは決して作らず、盆暮れには、せっせと、百貨店から、中元・歳暮のお返しは、それこそ、半世紀近くも、欠かさなかった。まるで、それを想い起こさせるような光景である。成る程、今日的なサービスの対価なる概念は、結局、何らかの資本主義社会での経済原則の中でのものであって、どうやら、人々の心に根ざした、生き方とか、家の誇りとか、その地域・文化的な固有な考え方というモノは、そういう類の範疇では、推し量れない何かがあるのかも知れないことが、日常生活の違いの中で、再認識されて実に面白い。きっと、亡き母が、生きていたら、話が間違いなく合うことであろう。これまでのビジネス中心の社会とは異なる人々との日常会話には、なかなか、老人体操教室も含めて、実に、面白い刺激的なモノである。都会では、そんなことに気が付きもしない。

 
 

サービスの対価と言う概念を考える:

サービスの対価と言う概念を考える:

昔、海外で、ファミレスで珈琲を飲んでいたら、典型的なおばちゃんのウェイトレスが、いきなり、自分が好みの甘さとミルクの絶妙な加減を維持していたのに、有無を言わさずに、コーヒーをたっぷりと濯いでしまい、誠にその味たるや、絶望の淵に追いおとされたおもいがしたことを懐かしく思いおこした。長野県でも、あるときに、女房殿とお茶を戴いていたところ、女房殿は、別に喉が乾いていたわけではないのであるが、茶碗を飲み干して、急いで、席を立とうとしたところ、すぐさま、お茶を注がれてしまい、席を立つチャンスを逸してしまい、これが、二三回続いたときには、流石に、もう結構です!と、鄭重に、言い放ったが、この光景をその相手の家人と、後で、問い糾したところ、当地では、お客様が、湯飲み茶碗を空っぽにすると、すかさず、お茶を注ぐという一種の文化的な風潮があることを、後日、聞き及んだ。成る程、面白いものである。こちらは、少しでも、お茶を残しては、申し訳ないから、すっかり、飲み干してしまうが、そうではなくて、そのまま、残しておいても、一向に差し支えはないらしい。サービスの対価とは、一体何なのであろうか?客の気持ちを忖度して、それに対して、自らの側で、いくらくらいになるのかを、計算することなのであろうか?それとも、それこそ、お裾分けではないが、贈る側は、贈られる側の気持ちを忖度することなく、無償の気持ちを、お裾分けという形で、自らの悦びをシェアーするという行為の形の表れなのであろうか?亡くなってしまった母は、生前、兎に角、人に対して、極端なときには、配達をする他人までも、暑いのにご苦労様でしたと、アイスクリームや冷たい飲み物を与えたりしていたことを不思議に想い起こす。長い歴史を有する古民家の農家の家のしきたりというものは、実に面白いモノである。菓子折一つにも、倍返しとは云わぬが、まるで、私の母が、生前良く言っていた、人様には、必ず、小さなものでも、必ず、お返しを欠かしてはいけない、と、まるで、貸しを作られるのを嫌がるが如く、借りは決して作らず、盆暮れには、せっせと、百貨店から、中元・歳暮のお返しは、それこそ、半世紀近くも、欠かさなかった。まるで、それを想い起こさせるような光景である。成る程、今日的なサービスの対価なる概念は、結局、何らかの資本主義社会での経済原則の中でのものであって、どうやら、人々の心に根ざした、生き方とか、家の誇りとか、その地域・文化的な固有な考え方というモノは、そういう類の範疇では、推し量れない何かがあるのかも知れないことが、日常生活の違いの中で、再認識されて実に面白い。きっと、亡き母が、生きていたら、話が間違いなく合うことであろう。これまでのビジネス中心の社会とは異なる人々との日常会話には、なかなか、老人体操教室も含めて、実に、面白い刺激的なモノである。都会では、そんなことに気が付きもしない。