小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

偽アカシヤの巨木を切ろう:

偽アカシヤの巨木を切ろう:

ドッグラン&ガーデンの開場間近ともなり、そのコンセプトの中で、&ガーデンを、わざわざ、関した一つの理由は、景観と美観の保全も入っている。出来れば、景観トラスト運動のような形で、景観の保全運動を展開したいところである。オープン・ガーデンを地域で、散歩コースやサイクリング・ロードやトレール・コーストして、或いは、フット・パスのようなモノとして、道すがら、馬頭観音像や道祖神の歴史や地域文化財を発掘して、美味しい、コーヒーやハーブティー等を一寸一休みで、休憩できるようなカフェのような場所も、作れれば、さらには、周囲の葡萄畑や、将来は、底で収穫された原料の葡萄を使ったワインの一杯でも、地元の小麦を使った焼きたてクッキーなどと一緒に、良い眺めを愉しみながら、談笑でも出来れば、これはもう、都会から、2時間半で以て、車でやって来れるだけの価値があろうというモノである。その意味では、ドッグラン&ガーデンからの眺めも、当然、外来寄生植物であるニセアカシアの巨木が邪魔をしていては、全く勿体ない話である。地権者と話をした結果、耕作放棄地の草刈りも含めて、伐採に関する合意と承認を戴いたので、程なく、開場と共に、伐採を実施することにしよう。景観トラスト運動は、もはや、単なるお題目ではなくて、花回廊構想と共に、或いは、オープン・ガーデン巡り構想とも相待って、今年の夏には、実現に漕ぎつけたいものである。のんびりと、アカシアの花房を天ぷらにして、美味しく、食している場合ではない。耕作放棄地と景観は、棚田の保全も含めて、大きな課題である。

 

偽アカシヤの巨木を切ろう:

偽アカシヤの巨木を切ろう:

ドッグラン&ガーデンの開場間近ともなり、そのコンセプトの中で、&ガーデンを、わざわざ、関した一つの理由は、景観と美観の保全も入っている。出来れば、景観トラスト運動のような形で、景観の保全運動を展開したいところである。オープン・ガーデンを地域で、散歩コースやサイクリング・ロードやトレール・コーストして、或いは、フット・パスのようなモノとして、道すがら、馬頭観音像や道祖神の歴史や地域文化財を発掘して、美味しい、コーヒーやハーブティー等を一寸一休みで、休憩できるようなカフェのような場所も、作れれば、さらには、周囲の葡萄畑や、将来は、底で収穫された原料の葡萄を使ったワインの一杯でも、地元の小麦を使った焼きたてクッキーなどと一緒に、良い眺めを愉しみながら、談笑でも出来れば、これはもう、都会から、2時間半で以て、車でやって来れるだけの価値があろうというモノである。その意味では、ドッグラン&ガーデンからの眺めも、当然、外来寄生植物であるニセアカシアの巨木が邪魔をしていては、全く勿体ない話である。地権者と話をした結果、耕作放棄地の草刈りも含めて、伐採に関する合意と承認を戴いたので、程なく、開場と共に、伐採を実施することにしよう。景観トラスト運動は、もはや、単なるお題目ではなくて、花回廊構想と共に、或いは、オープン・ガーデン巡り構想とも相待って、今年の夏には、実現に漕ぎつけたいものである。のんびりと、アカシアの花房を天ぷらにして、美味しく、食している場合ではない。耕作放棄地と景観は、棚田の保全も含めて、大きな課題である。

 

擬宝珠の花が咲き始めた:

擬宝珠の花が咲き始めた:

やっと、3年目の快挙である。待った甲斐があった。大きな株の立派な花をつけた擬宝珠が、たくさんの種をつけていたので、散歩の時に、一寸、花泥棒ならぬ、種泥棒で、戴いてきて、鉢に種付けをしたところ、そのうちの一つが、大きな葉を茂らして、昨年の冬には、その大きな葉が、見事に枯れ果てたにも関わらず、今年の春には、更に、大きな葉と茎を拡げ始めた。その勢いたるや、雨が降る度に、ますます、大きく成長し始めた。ひょっとすると、花が咲くかも知れないという期待がおおいに、膨らみ始めたところ、気が付くと、真ん中から、すっくと、突然、一本太い茎が天空を目指して、真っ直ぐに、直立し始めた。そして、どんどん、その太さを増すにつれて、ベランダの手摺りの高さを超す勢いになってきたとみるや、その中心に、花芽が硬く、蕾に、なってきた。更に、日々観察していると、いよいよ、小さな花を咲かせ始めた。これは、今までみてことのある擬宝珠の花とは、著しく、異なるようである。毎日、愉しみになってきた。梅雨の雨の中で、まるで、その恵みをひとり、享受しているかの如き成長である。暫くは、その花を愛でる心の余裕を愉しみたい。驚くほど、凄い花の存在感である。

 

 

擬宝珠の花が咲き始めた:

擬宝珠の花が咲き始めた:

やっと、3年目の快挙である。待った甲斐があった。大きな株の立派な花をつけた擬宝珠が、たくさんの種をつけていたので、散歩の時に、一寸、花泥棒ならぬ、種泥棒で、戴いてきて、鉢に種付けをしたところ、そのうちの一つが、大きな葉を茂らして、昨年の冬には、その大きな葉が、見事に枯れ果てたにも関わらず、今年の春には、更に、大きな葉と茎を拡げ始めた。その勢いたるや、雨が降る度に、ますます、大きく成長し始めた。ひょっとすると、花が咲くかも知れないという期待がおおいに、膨らみ始めたところ、気が付くと、真ん中から、すっくと、突然、一本太い茎が天空を目指して、真っ直ぐに、直立し始めた。そして、どんどん、その太さを増すにつれて、ベランダの手摺りの高さを超す勢いになってきたとみるや、その中心に、花芽が硬く、蕾に、なってきた。更に、日々観察していると、いよいよ、小さな花を咲かせ始めた。これは、今までみてことのある擬宝珠の花とは、著しく、異なるようである。毎日、愉しみになってきた。梅雨の雨の中で、まるで、その恵みをひとり、享受しているかの如き成長である。暫くは、その花を愛でる心の余裕を愉しみたい。驚くほど、凄い花の存在感である。

 
 

農民資料館を作ってみよう:

農民資料館を作ってみよう:

玄関の前に、大きな凹を逆さにしたような門がある。その両側には、昔、漬け物用に使用された六畳ほどの部屋が一階にある。今では、物置小屋のように、様々なモノが詰まっている。たまたま、お父さんが、少し前に、農作業で使用されていた大きな鋤を、見つけてきて、見せてくれた。何でも、昔は、こんなモノで、人力や馬を使って、畑や田んぼを耕していたらしい、成る程、畑や田んぼになる以前には、元々、こんな山間部は、里山と、今日云われているものの、車も耕耘機やトラクターの無い時代には、人力で、唐松の林を、開墾して、今日、棚田などと云われているが、背に腹は替えられぬとばかりに、猫の額ほどの土地を必死になって、開墾して、新しい畑や田んぼにしたのであろうことは、容易に、想像がつく。そういう歴史とか、文化とか、暮らしに関する道具類は、今どうなってしまっているのであろうか?食育などと云う言葉も、農作業の体験なども、医食同源・食文化ばかりではなくて、暮らしの歴史や開拓の歴史なども、道具を通じて、理解して貰うことも、とりわけ、若い人や、子供達にも、おおいに必要なことかも知れない。例えば、この間、お父さんが、土蔵の中から、大きなノコギリを二つ持ってきたが、一つは、樹を切ることは、すぐに、判ったけれども、もう一つの歯の欠けたようなノコギリは、何でも、天然氷を切り出すモノであることを教えられた。そう言えば、子供の頃は、氷屋さんが、毎日、大きな氷を自宅で、切って、冷蔵庫に、運んでくれたモノであることを想いだした。そんな想い出も、60代以上の世代でないと、今日、もはや、実感されないのかも知れない。何も、郷土博物館の様な箱物の中で、展示されるのではなくて、身近な生活の中で、宿泊客に、無料で、見て貰えるような展示も、必要では無いかと感じ始める。地域の人達にも、応援して貰って、色々な古道具を集めて、保存展示してみたらどうだろうかと思い始めた。外国人観光客にも、英文で説明しみたら、どうだろうか?しかも、みるだけでなくて、実際、使用・体験してもらったら、先人の苦労を実感して、古い井戸を掘ってもらった人への敬愛の念も沸いてくるかも知れない。景観も、耕作放棄地も、長い期間に培われた歴史や努力も、一瞬にして、無に帰する可能性は否定しきれない。

農民資料館を作ってみよう:

農民資料館を作ってみよう:

玄関の前に、大きな凹を逆さにしたような門がある。その両側には、昔、漬け物用に使用された六畳ほどの部屋が一階にある。今では、物置小屋のように、様々なモノが詰まっている。たまたま、お父さんが、少し前に、農作業で使用されていた大きな鋤を、見つけてきて、見せてくれた。何でも、昔は、こんなモノで、人力や馬を使って、畑や田んぼを耕していたらしい、成る程、畑や田んぼになる以前には、元々、こんな山間部は、里山と、今日云われているものの、車も耕耘機やトラクターの無い時代には、人力で、唐松の林を、開墾して、今日、棚田などと云われているが、背に腹は替えられぬとばかりに、猫の額ほどの土地を必死になって、開墾して、新しい畑や田んぼにしたのであろうことは、容易に、想像がつく。そういう歴史とか、文化とか、暮らしに関する道具類は、今どうなってしまっているのであろうか?食育などと云う言葉も、農作業の体験なども、医食同源・食文化ばかりではなくて、暮らしの歴史や開拓の歴史なども、道具を通じて、理解して貰うことも、とりわけ、若い人や、子供達にも、おおいに必要なことかも知れない。例えば、この間、お父さんが、土蔵の中から、大きなノコギリを二つ持ってきたが、一つは、樹を切ることは、すぐに、判ったけれども、もう一つの歯の欠けたようなノコギリは、何でも、天然氷を切り出すモノであることを教えられた。そう言えば、子供の頃は、氷屋さんが、毎日、大きな氷を自宅で、切って、冷蔵庫に、運んでくれたモノであることを想いだした。そんな想い出も、60代以上の世代でないと、今日、もはや、実感されないのかも知れない。何も、郷土博物館の様な箱物の中で、展示されるのではなくて、身近な生活の中で、宿泊客に、無料で、見て貰えるような展示も、必要では無いかと感じ始める。地域の人達にも、応援して貰って、色々な古道具を集めて、保存展示してみたらどうだろうかと思い始めた。外国人観光客にも、英文で説明しみたら、どうだろうか?しかも、みるだけでなくて、実際、使用・体験してもらったら、先人の苦労を実感して、古い井戸を掘ってもらった人への敬愛の念も沸いてくるかも知れない。景観も、耕作放棄地も、長い期間に培われた歴史や努力も、一瞬にして、無に帰する可能性は否定しきれない。

竹細工の商品開発:

竹細工の商品開発:

実証実験をしてみたところ、実に様々なことが判ってきた。竹藪対策として、筍と蕗の収穫と竹細工の製作、とりわけ、原材料がタダ同然だから、手間賃だけで、それも、年寄りが製作するから、ほぼ、コストが掛からないか?さすれば、100円ショップ感覚で、使い捨ての方が、長持ちなんかしてくれない方が、有難いかな?そう考えれば、値段も安くして、使って貰うことに力点を置こうか?使い捨て感覚?そうしたマーケティングの観点から、商品開発をしてみよう。例えば、イタリアンやフレンチの高級料理に、和の食器として、前菜やオードブル、パスタの小皿としてとか、イメージが、様々に、拡がってきた。少し、勉強してみるとするかな!具体的に、試作作りに入り、写真撮りをして、高級レストランのシェフに、使い捨て感覚で、使って貰うことも一つの手ではなかろうか?或いは、個人レストランでの差別化とか、、、、竹藪対策として、或いは、耕作放棄地対策への協賛とでも、銘打って、野菜と共に、付録か、おまけとして、つけても宜しいではないか?ひょっとして、喜ばれるかも知れない。あるいは、ネット販売の景品でも構わない。兎に角、資源は無限で、使ってくれなければ駄目で、長持ちは、敵であると謂う珍しい商品かも知れない。まさに、『逆転の発想』である。又、やらなければならないことが、ひとつ、増えてしまった。最近、ゆっくり、ブログを書いている時間がなくなってきた。

 

竹細工の商品開発:

竹細工の商品開発:

実証実験をしてみたところ、実に様々なことが判ってきた。竹藪対策として、筍と蕗の収穫と竹細工の製作、とりわけ、原材料がタダ同然だから、手間賃だけで、それも、年寄りが製作するから、ほぼ、コストが掛からないか?さすれば、100円ショップ感覚で、使い捨ての方が、長持ちなんかしてくれない方が、有難いかな?そう考えれば、値段も安くして、使って貰うことに力点を置こうか?使い捨て感覚?そうしたマーケティングの観点から、商品開発をしてみよう。例えば、イタリアンやフレンチの高級料理に、和の食器として、前菜やオードブル、パスタの小皿としてとか、イメージが、様々に、拡がってきた。少し、勉強してみるとするかな!具体的に、試作作りに入り、写真撮りをして、高級レストランのシェフに、使い捨て感覚で、使って貰うことも一つの手ではなかろうか?或いは、個人レストランでの差別化とか、、、、竹藪対策として、或いは、耕作放棄地対策への協賛とでも、銘打って、野菜と共に、付録か、おまけとして、つけても宜しいではないか?ひょっとして、喜ばれるかも知れない。あるいは、ネット販売の景品でも構わない。兎に角、資源は無限で、使ってくれなければ駄目で、長持ちは、敵であると謂う珍しい商品かも知れない。まさに、『逆転の発想』である。又、やらなければならないことが、ひとつ、増えてしまった。最近、ゆっくり、ブログを書いている時間がなくなってきた。

 

鈴虫の音色を愉しむ:

鈴虫の音色を愉しむ:

今年の夏は、寒いせいだろうか、何故か、春蝉の鳴き声が、梅雨の晴れ間にも、それ程、聞こえてこない。それとも、まだ、早いのであろうか?子供の頃には、季節の音色というモノがあったような気がするが、何かの錯覚だろうか?夏になれば、何処からか、金魚売りの掛け声が、きんぎょー、金魚は如何?と聞こえて来たりしたが、もうそんな声も、既に何十年も前に、絶滅してしまった。子供の頃には、虫の声も、何かの歌で、あれ鈴虫は、松虫は、などと、鳴き声を、歌で覚えたモノであるが、もっとも、実際にそんな虫の鳴き声を聞くような事は、まず、なかったが、、、、、、それでも、何処からか、鈴虫の鳴き声を聞けば、成る程、夏から、秋へと季節が移ろっていくのかなくらいは、忙しくても、ふと、心の何処かで、感じるものである。ホームセンターに、買い物に来たら、懐かしい鈴虫の声が聞こえてきた。本当は、虫かごの中ではなくて、庭の草むらにでも放してあげて、その鳴き声を自然に、聞くのが理想であるが、そうも言ってはいられない。何せ、庭の草むらには、蜥蜴や蛇もいるから、すぐに食べられてしまうであろう。実際、何年か前に、蜥蜴が、キリギリスの幼虫を食べているのを写真に撮ったことがあるが、なかなか、自然環境は、Survival is the fittestで、難しいですね。鈴虫の鳴き声に、色々と、世の中の雑念を、忘れて、聴き入っています。もう少ししたら、風鈴でしょうか?五感を刺激するには、お香も良いかも知れません。年寄りには、五感を刺激するのが一番ですし、現代社会の現役の若い人には、五感の刺激と云うよりも、精神の癒やし、或いは、副交感神経の回復になるかも知れませんネ。梅雨の晴れ間なのに、春蝉は鳴いていませんが、鈴虫は、昼間でも、すれた音色を奏でています。

 

鈴虫の音色を愉しむ:

鈴虫の音色を愉しむ:

今年の夏は、寒いせいだろうか、何故か、春蝉の鳴き声が、梅雨の晴れ間にも、それ程、聞こえてこない。それとも、まだ、早いのであろうか?子供の頃には、季節の音色というモノがあったような気がするが、何かの錯覚だろうか?夏になれば、何処からか、金魚売りの掛け声が、きんぎょー、金魚は如何?と聞こえて来たりしたが、もうそんな声も、既に何十年も前に、絶滅してしまった。子供の頃には、虫の声も、何かの歌で、あれ鈴虫は、松虫は、などと、鳴き声を、歌で覚えたモノであるが、もっとも、実際にそんな虫の鳴き声を聞くような事は、まず、なかったが、、、、、、それでも、何処からか、鈴虫の鳴き声を聞けば、成る程、夏から、秋へと季節が移ろっていくのかなくらいは、忙しくても、ふと、心の何処かで、感じるものである。ホームセンターに、買い物に来たら、懐かしい鈴虫の声が聞こえてきた。本当は、虫かごの中ではなくて、庭の草むらにでも放してあげて、その鳴き声を自然に、聞くのが理想であるが、そうも言ってはいられない。何せ、庭の草むらには、蜥蜴や蛇もいるから、すぐに食べられてしまうであろう。実際、何年か前に、蜥蜴が、キリギリスの幼虫を食べているのを写真に撮ったことがあるが、なかなか、自然環境は、Survival is the fittestで、難しいですね。鈴虫の鳴き声に、色々と、世の中の雑念を、忘れて、聴き入っています。もう少ししたら、風鈴でしょうか?五感を刺激するには、お香も良いかも知れません。年寄りには、五感を刺激するのが一番ですし、現代社会の現役の若い人には、五感の刺激と云うよりも、精神の癒やし、或いは、副交感神経の回復になるかも知れませんネ。梅雨の晴れ間なのに、春蝉は鳴いていませんが、鈴虫は、昼間でも、すれた音色を奏でています。

 

蛍光管の取り替え作業に考える:

蛍光管の取り替え作業に考える:

いつごろのことであったろうか、何かのニュースで、一人暮らしのお年寄りが、電球を交換できないので、電気屋さんか、便利屋さんに、依頼して新しいモノに、交換して貰うサービスを利用しているのをみたことがあったが、その時は、いやはや、大変な作業であると、同情していたモノである。突然、部屋の蛍光管が、パカパカと一瞬輝いた後に、プツンと切れてしまった。昔は、結構、頻繁に、電球が切れたモノであるから、電球の交換作業は、子供の仕事で、年寄りからは、お小遣いでも貰うこともあったモノである。しかしながら、こうして、段々と、余輩を重ねてくると、蛍光管が切れたときには、自分で、椅子の上に立って、カバーを開けてから、2本の蛍光管をつけなければならない。もっとも、最近の電球や蛍光管は、LEDではないが、なかなか、寿命が長いから、カバーの開け方なども、良く覚えていないし、そもそも、蛍光管を取り替えた記憶自体が、一体、いつのことやら、覚えていない。椅子の上に、立つ事自体が、バランスが悪くて、そんなに、長い間、カバーをうまく開けて、そのまま、たったまま、2本の蛍光管を上手に、取り付けられるであろうか?いやはや、結構、難しいモノである。しかも、4本のプラグを、所定の位置に接続して、みるが、うまく行かない。思ったよりも、手強い感じである。結局、10分程の悪戦苦闘の末に、無事、何とか、交換が完了したものの、改めて、こんな些細なことも、実は、大変な作業なのであることを、思い知らされた。次の蛍光管交換は、一体、いつになるのであろうか?その時、自分は、一体、幾つなのであろうか?

 

蛍光管の取り替え作業に考える:

蛍光管の取り替え作業に考える:

いつごろのことであったろうか、何かのニュースで、一人暮らしのお年寄りが、電球を交換できないので、電気屋さんか、便利屋さんに、依頼して新しいモノに、交換して貰うサービスを利用しているのをみたことがあったが、その時は、いやはや、大変な作業であると、同情していたモノである。突然、部屋の蛍光管が、パカパカと一瞬輝いた後に、プツンと切れてしまった。昔は、結構、頻繁に、電球が切れたモノであるから、電球の交換作業は、子供の仕事で、年寄りからは、お小遣いでも貰うこともあったモノである。しかしながら、こうして、段々と、余輩を重ねてくると、蛍光管が切れたときには、自分で、椅子の上に立って、カバーを開けてから、2本の蛍光管をつけなければならない。もっとも、最近の電球や蛍光管は、LEDではないが、なかなか、寿命が長いから、カバーの開け方なども、良く覚えていないし、そもそも、蛍光管を取り替えた記憶自体が、一体、いつのことやら、覚えていない。椅子の上に、立つ事自体が、バランスが悪くて、そんなに、長い間、カバーをうまく開けて、そのまま、たったまま、2本の蛍光管を上手に、取り付けられるであろうか?いやはや、結構、難しいモノである。しかも、4本のプラグを、所定の位置に接続して、みるが、うまく行かない。思ったよりも、手強い感じである。結局、10分程の悪戦苦闘の末に、無事、何とか、交換が完了したものの、改めて、こんな些細なことも、実は、大変な作業なのであることを、思い知らされた。次の蛍光管交換は、一体、いつになるのであろうか?その時、自分は、一体、幾つなのであろうか?

 

人が来てくれることと来ないこととの矛盾:

人が来てくれることと来ないこととの矛盾:

早速、人知れず、地域の住民しか知らない隠れ湧水の現地調査で、考え込んでしまった。即ち、これを整備することで、人がやってきて、騒々しくなることと、ゴミが増えたり、無軌道なひとたちや、マナーの悪さから、住環境が悪化することと、更には、お金が落ちないのに、これまでの静かな自然環境が破壊されてしまうと云う自分へのデメリット、一体、どのように、これらの矛盾を解決することが可能なのであろうか?この自己矛盾、地域活性化への理解に対する矛盾、過去に、テレビの取材で、山菜の特集をしたところ、一挙に、都会からの人間も含めて、車で、やってきては、大量に、山菜を根こそぎ、持って行かれたという苦い経験が、この地域には、あるそうである。道路も、かなり、高い所まで、ガードレールも含めて、整備されていて、坂道ではあるものの、電動アシスト自転車であれば、全く問題ない場所である。もっとも、住民にとっては、これまでも、開拓で切り拓いた土地に、住んでいる以上、静かな住環境であるわけで、そこに、狭い駐車場に、たくさんの車が、ポリタンクを持参して、水くみにでもやってくるようにでもなれば、そえは、それで、大問題になることは必至で、その意味で、カネも落ちない、自分にとって、何のメリットもない、湧水の売り込みは、一体、どんなメリットがあるのであろうか?間違いなく、そっぽを向くことになることは、必至であろう。素晴らしいコンテンツがあっても、難しい課題である。遊歩道にしても、日本トレール百選に、選ばれていても、肝心の分岐する地点では、別にルート案内の看板が設置されているわけではない。これでは、全く、画竜点睛を欠くどころか、登山者は、みちに迷ってしまうことは、必至である。考えてみれば、ハードはとくいであるものの、いつでも、ソフトが駄目だから、そのコンテンツ自体も、全く、無駄になり、無用の長物になりはててしmアウ輝線星がないわけでは無い。人に来て貰うこととお金が落ちて、地域に、回り始めること、そして、地域の静かな住環境を維持しながら、活性化されるとということを同時に、りょうりつさせることは、どうしたらよいのであろうか?更に、登ってゆくと、素晴らしい砂防ダムが、エメラルドグリーンの湖面に、山々の風景が映り込んでいて、これはもう、春の桜の開花や秋のモミジの紅葉の時期は、どんな風景になるのか、隠れ眺望百景にも値するものではなかろうか?既に、構想はできてているものの、この一点の矛盾を、どのように、解決できうるのであろうか?実に、唸ってしまった。じっくり、時間をかけて対応しなければならない。それでも、湧水の溜め池は、こんこんと、木々の中で、湧き出ている。誰が建てたかはわからない朽ち果てた東屋が、湧水の溜め池の傍らに、静かに、佇んでいた。ここで、お茶やコーヒーでも飲めたら、良さそうではあるが、、、、、、。限界集落寸前の問題をみる思いがする。

 

人が来てくれることと来ないこととの矛盾:

人が来てくれることと来ないこととの矛盾:

早速、人知れず、地域の住民しか知らない隠れ湧水の現地調査で、考え込んでしまった。即ち、これを整備することで、人がやってきて、騒々しくなることと、ゴミが増えたり、無軌道なひとたちや、マナーの悪さから、住環境が悪化することと、更には、お金が落ちないのに、これまでの静かな自然環境が破壊されてしまうと云う自分へのデメリット、一体、どのように、これらの矛盾を解決することが可能なのであろうか?この自己矛盾、地域活性化への理解に対する矛盾、過去に、テレビの取材で、山菜の特集をしたところ、一挙に、都会からの人間も含めて、車で、やってきては、大量に、山菜を根こそぎ、持って行かれたという苦い経験が、この地域には、あるそうである。道路も、かなり、高い所まで、ガードレールも含めて、整備されていて、坂道ではあるものの、電動アシスト自転車であれば、全く問題ない場所である。もっとも、住民にとっては、これまでも、開拓で切り拓いた土地に、住んでいる以上、静かな住環境であるわけで、そこに、狭い駐車場に、たくさんの車が、ポリタンクを持参して、水くみにでもやってくるようにでもなれば、そえは、それで、大問題になることは必至で、その意味で、カネも落ちない、自分にとって、何のメリットもない、湧水の売り込みは、一体、どんなメリットがあるのであろうか?間違いなく、そっぽを向くことになることは、必至であろう。素晴らしいコンテンツがあっても、難しい課題である。遊歩道にしても、日本トレール百選に、選ばれていても、肝心の分岐する地点では、別にルート案内の看板が設置されているわけではない。これでは、全く、画竜点睛を欠くどころか、登山者は、みちに迷ってしまうことは、必至である。考えてみれば、ハードはとくいであるものの、いつでも、ソフトが駄目だから、そのコンテンツ自体も、全く、無駄になり、無用の長物になりはててしmアウ輝線星がないわけでは無い。人に来て貰うこととお金が落ちて、地域に、回り始めること、そして、地域の静かな住環境を維持しながら、活性化されるとということを同時に、りょうりつさせることは、どうしたらよいのであろうか?更に、登ってゆくと、素晴らしい砂防ダムが、エメラルドグリーンの湖面に、山々の風景が映り込んでいて、これはもう、春の桜の開花や秋のモミジの紅葉の時期は、どんな風景になるのか、隠れ眺望百景にも値するものではなかろうか?既に、構想はできてているものの、この一点の矛盾を、どのように、解決できうるのであろうか?実に、唸ってしまった。じっくり、時間をかけて対応しなければならない。それでも、湧水の溜め池は、こんこんと、木々の中で、湧き出ている。誰が建てたかはわからない朽ち果てた東屋が、湧水の溜め池の傍らに、静かに、佇んでいた。ここで、お茶やコーヒーでも飲めたら、良さそうではあるが、、、、、、。限界集落寸前の問題をみる思いがする。

 

二人の鈴木さんにみる年寄りの出処進退:

二人の鈴木さんにみる年寄りの出処進退:

桝添の見苦しい言い訳は、どうでも宜しいが、なかなか、歳をとってからの出処進退、とりわけ、引退する時期というモノは、成功すればするほど、難しいモノである。何も、しないで、定年を迎えるサラリーマンのほうが、ずっと良さそうにも思えてならないが、そうでもないのが、昨今の流れである。もっとも、経営者というモノは、どんなに、成功して、業界での評判が良くても、一夜にして、足許を掬われるのが世の常である以上、一種の『永久革命』のようなモノであることも、又、否定できない事実である。ましてや、これが、多数の従業員や、顧客の家族までも含めた舵取りとなるとなるほど、もはや、カネの問題なのではないことは事実であろうか?それでも、歳をとってくると、猫に鈴をつけることの出来る周囲の或いは、身内の、更には、創業当時の同志達もいなくなってしまい、結局、秀吉みたいになってしまうのであろうか?名誉とか、評判とか、誇りとか、カネとか、全く、歳を重ねるに従って、ブクブクと、要らぬものが、重ね着のように加わってくるのであろうか、黒塗りの運転手付きの高級車での送り迎えになれてしまうと、一人で歩くことすらも出来なくなってしまうと良く言われている。人生、歳をとってくると、なかなか、難しいモノである。私には、最近、お付き合いして貰っている農家のお父さんやおかあさん達、先輩のご老人達が、何か、理想的な老人像のように、不思議と、思えてならない。二人の鈴木さん達の騒動をみるにつけ、そんな感慨を抱き始めて、他山の石にしないと考えるに至る。どのように、健康寿命謳歌しつつ、地域社会との接点をもちながら、社会貢献が出来ないだろうかと、考えてしまう。さぁ、これから、ドッグラン&ガーデンの開場準備と、これを記念した野菜のネット販売、ペット・ホテル申請、隠れ湧水の再興、野菜農家の訪問と、耕作放棄地対策と地域コンテンツ開発と、面白いように、今日やる用事と今日いくところが、出てくるのは、不思議である。