小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

うたの旅人、「幸せなら手をたたこう」:

 

うたの旅人、「幸せなら手をたたこう」:

 

我が家系には、二人の戦死者がいる。一人は、父方の長兄で、佐世保から海軍陸戦隊の一兵卒として、(今で云うところの海兵隊員であるが、皮肉にも、上陸ではなくて、塹壕の中で、米軍を迎え撃つ羽目になり)タラワ島嶼で、玉砕したと推測される叔父、もう一人は、母方のやはり長兄で、フィリピンで、少尉として戦闘指揮を執っていたところを大腿部、貫通銃創で動けずに、将校として覚悟の上で自決した叔父がいる。坂本九が、1964年に、陽気に明るく、歌ったこの唄は、木村利人氏が、フィリピンから帰国するときに、作詞して、いずみたくが、楽譜にしたそうである。木村氏は、1959年、YMCAの農村復興国際ワークキャンプに参加して、現地で、太平洋戦争で多大な被害を被った現地のフィリピンの人々と汗を流し、労働奉仕をした経験があるそうである。心重い現地での生活の中で、日本兵に父親を殺害されたという青年から、「これまで、日本人が許せなかったが、君と汗を流して働いてうちに、考え方が変わった。過去を許そう、戦争を起こさないよう、僕らが、誓い合おう」と、云われたそうである。そして、その帰国の船上で、民謡として歌われていたメロディーに、オリジナルの詞をつけて、更に加えて、聖書の中の「手を叩こう」という態度で示そうと、「指ならそう」まで、結局10番にまでなり、これが、広く、親しまれるようになったそうである。昔、「唄はこうしてできた」という番組があったが、この唄の謂われを知らないで、長い間歌っていたものである。もっとも、唄の謂われは、結構、知らずに、存外、歌っているものであるが、どのようにして唄が出来たのかを知ることも、決して、無駄なことではない。むしろ、改めて、噛みしめて歌ってみるのも、又、一つの唄の愉しみ方かもしれない。