小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

書とアートについて考える:

 

書とアートについて考える:

 

所謂、書聖、王羲之の書展を見に行こうと思ったが、広い会場を、じっくり書を愉しみながら、歩き回るのは、どうもまだ、自信が持てないので、結局、テレビでの番組を通して視ることにした。「字は、体を表す」とは良く言ったもので、自分の書く字は、何とも、ミミズが這ったような文字で、所謂、悪筆である。従って、ワープロなるものが、発明された時には、心の中で、快哉と叫んだものである。むろん、「字を書く」と云うことと「書を眺めて愉しむ」ことは、必ずしも、自分の中で、一致したモノでは決してない、むしろ、別ものの観がある。「書を眺めて愉しむ」ことは、謂わば、「アートの立場」とも云えなくはないが、自分のイメージの中では、やや、「絵画を鑑賞する」のに、近いものがある。そこには、「書の書き手との対話」と云おうか、心の中での闘いと云おうか、白い紙の上に書かれた墨汁の黒い字との創造の格闘の有様をそこに、見いだすようなものである。「臨書」というのは、その手本となる名筆の書を、ひたすら、書き写しながら、学ぶと云われている。とりわけ、筆の運び、勢い、緩急、字の形、描き始め、途中の筆使い、跳ね方、終わりの〆の仕方、そして、字と字の間の時間的な「間の取り方」も含めて、墨汁の滲み方や、等…、何やら、ここまで来ると、「伊藤若冲」のような絵画的芸術の「技法の極み」に、近づきそうである。そんな作者の「息遣い」までも、感じられるようになるそうである。どうも、鉛筆舐め舐めして、字を書いていた私などには、写経も含めて、こうした深遠な哲学的な境地になると、なかなか、未だに、満足に、観賞することが出来ないものである。それにしても、最近の音楽に合わせて、書道をパフォーマンスとして、行ったり、ダンスに合わせて、書き上げたりと、「書道をアートやパフォーマンスの観点」から、愉しむことも、決して、悪いことではなさそうである。王羲之は、現代のこの流れを、一体どう思うであろうか?以前、何かの展覧会で、「アラビア文字」を、右から左に、書いた書体を、むろん、その文字の意味は、分からなかったが、その字の跳ね上がり方、流れ方、止め方、等、まるで、「漢字」と同じような「美しさ」が、そこにはあったことを想い出す。最近では、ダンスをする踊り手のことをダンサーとは、呼ばずに、「パフォーマー」と呼ぶそうで、何を演じ、何を成し遂げようとするのであろうか?そして、書道でも、華道でも、茶道でも、或いは、書壇、家元、何でも、ある種、「道」・「壇」・「元」という字がつくようになってしまうと、一体、それは、どう違ってしまったのであろうか、それとも、矛盾することがないのか?そんな折りに、NHK大河ドラマの題字、「風林火山」を書した書家、柿沼康二氏が、面白いことを言っている。「臨書であっても、同じものを書くことは不可能である。実は、毎回、創造していて、突き詰めて行くと、最終的に、個性になる。、、、、(略)、、、、呼吸でいうと、吸う行為にあたり、きちんと吸わないと、制作という形で、吐き出すことは出来ない。」と、文字の形を超えて、アートとしての書に挑もうとしていると、今後、どんな書を世に、送り出しくれるのであろうか?とりわけ、「一」という字には、興味をそそられる。書聖、王羲之の描いた「一」と何処が、違うのであろうか?残念乍ら、私は、この文章も、パソコン・フォントである。確かに、「一」と言う文字を、よくよく、眺めると、成る程、何とも、素っ気のない、味気ない、文字である。最後に、同氏によれば、「空書」というものがあって、指で、ひたすら、空中に字を書くものであるそうである。何やら、エアー・ギターみたいなもので、これなら、心の中で、創造力を駆使して、あたかも、書聖にでもなったかの如く、おおいなる錯覚をもって、やり直しの効かない一回性の書でも、何度でも、想像上で、描けそうである。頭の中のキャンバスで、寝っ転がって、一度、真似してみることにするか?新しい趣味が出来そうである。