小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

銀杏の薄皮を剥きながら考える:

銀杏の薄皮を剥きながら考える:

殻付きの銀杏を戴いた。しかも、皆、大粒である。いつもなら、物臭さだから、例によって、使い古しの紙封筒の中に食べる分だけ、殻毎入れて、電子レンジで、チンと加熱して、殻毎、ポンと爆破させて、実を食するのであるが、今回は、一昨年に、購入した胡桃割り器を使用して、一個づつ、割ってみた。中から出てきた実は、しっかりと薄皮で蔽われていて、なかなか、黄緑色の実は、顔を出さないではないか!これでは、折角のおでんに入れようと思っても、4個を爪楊枝に、刺すことも出来ない。ましてや、薄皮毎そのまま、串に刺すのも、「美的センス」が疑われてしまう。もう、ここまで来ると、いよいよ、「年寄りのお仕事」の類である。軽く、ボイルして、この薄皮を竹串の尖った先端を器用に(?)使って、指先で剥くことにした。よく見ると薄皮も、実の上半分と下半分とでは、色が異なり、薄い茶色と濃い茶色、しかも、濃い色の薄皮は、どうやら、2層にもなっているようである。丁寧に、実を傷つけないように、一粒一粒、黄緑色の粒が顔を出すように、剥いてゆく。徐々に、手先の感覚とproductivityの一番良い薄皮の剥き方を習熟しながら、剥着続けること、1時間余。音楽を聴きながら、MIZUKIの拡大鏡を掛けて、指先に集中しながら、まるで、半身麻痺した脳梗塞患者が、指先のリハビリの為に、大豆の粒を箸でつまむが如く、或いは、密教行者が厳しい山岳修行でもするが如き心持ちで(?)精神修養しながら、一粒一粒、最終目標である全粒完全制覇に近づいて行く。全く、食べるのは、ほんの一瞬なのに、料理の下準備や仕込みというものは、大変、手間が掛かるものであることを、或いは、昔の年寄りは、きっと、こんな作業を、「年寄りなりの仕事」として、「鰹節削り」同様に、協働・分業の一環で、やっていたのかなぁとも、何か、やり終えてみると、深い感慨に、ふけってしまう。考えようによっては、今から、脳梗塞のリハビリの模擬体験のようなことをやっておけば、少しは、そんな有事の時の役にでも立つのかなとも、思ってしまう。銀座の料亭で、銀杏をつまみやすく、且つ、同時に、食べやすく、包丁で、軽く潰して出されたことがあったが、成る程、流石に、日本料理というものは、奧が深いものであるとも思った。それにしても、「作るのは、地獄の修行、食べるのは、極楽、天国以外の何ものでもない」ということを、改めて痛感したが、たまには、こういう労働集約的な単純作業も、何かの修行と考えて、そろそろ衰え始めた脳細胞と指先の刺激には、きっと、役に立つのではないだろうか?とりわけ、知的な仕事で、お忙しいサラリーマンには、向いているかも知れない。年寄りには、「年寄りなりの仕事」が、まだまだ、世の中には、ありそうである。それを捜す日常生活での旅も、又、面白いかも知れない。ベトナムの工場での海老の殻剥き作業を想いだしてしまった。