小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

CM、「遊びの文化を創造する」に考える:天野祐吉のCM天気図

CM、「遊びの文化を創造する」に考える:天野祐吉CM天気図

 

最近では、流石に、消費者金融のCMも、やや、陰を潜めてきているように感じられる一方で、全く、不愉快なCMといえば、パチンコとケータイ無料ゲームのCMであろうか。思えば、学生時代、友人に連れられて、パチンコを1回だけやったことがあるが、当時は、今にして思えば、手で、パチンコ玉を穴から、陥れるタイプではなかったかと記憶しているが、、、、。

 

CMは、実に、世相を反映していて、見る側としては、色々なことを考えさせてくれる。もっとも、制作する立場の側になると、これは、大変な仕事であるとも思うが。天野祐吉によるこのコラムは、実に、正鵠を射ていて、興味深く、いつも読ませてもらっている。確かに、暇のないところから、文化も生まれてはこないし、文化人というものも、セカセカしていては、生まれてくることはないであろうことは、漠として、そうとも思う。パチンコが、日本文化であるかどうかは、判断がつかないところであるが、確かに、他の国では、パチンコという遊戯自体、一向に、根付いているという話は聞いたことがない。あんなに、ギャンブル好きな中国人でも、パチンコに、夢中になったということは、ついぞ、聞いたことがないし、ラスベガスのカジノにも、見当たらない。天野に言わせると、最近の遊びは、やたら、セカセカしたモノが多くて、しかも、カネの掛かるモノが、目立つという。確かに、「自分で、遊んでいるというよりは、むしろ、遊ばれている、或いは、更に言ってしまえば、機械に、それとも、その背後にいるそれを繰る人間によって、弄ばれ、カネを貢いでいる」と言っても、過言ではないのかも知れない。コンプガチャで問題になった射幸心とやらを煽るゲームのプログラミング、或いは、パチンコ・ギャンブル中毒と称する病気(?)、それに較べると、江戸の街の人達は、粋で、寄席でも、しびれるような退屈さを感じる藝人がいたそうである。「遊びの文化を創造する」等とは、「べらぼうめぇー、そんなことは、言わせねーぞ」とでも、言われてしまいそうである。どこに、「主体」はあるのであろうか?遊び心のない国は、いくら、カネがあっても、「文化貧乏」だねぇーとだけは、言われたくありませんね。監視カメラの下で、プログラミングされた機械の中で、無料恋愛ゲームやパチンコは、絶対に、子供達には、やらせたくないですね!「文化貧乏は、ヤだねぇ~!」、考えさせられるコラムである。