小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

Eテレ、「日本人は何を考えてきたのか」第11回:近代を超えて、西田幾多郎と京都学派

Eテレ、「日本人は何を考えてきたのか」第11回:近代を超えて、西田幾多郎と京都学派

最近のNHK教育テレビは、なかなか、面白く、興味深い番組が多くなってきたような気がする。いつもは、裏番組のミスター・サンデーを観ているのであるが、何とも、ノリだけの宮根では、一寸、荷が重すぎるのではないだろうかと、最近では思うが、これまで、幾つかの興味深い課題を、見逃しているが、アーカイブで、視聴したいところである。とりわけ、今回は、福岡伸一をナビゲーターに据えて、その動的平衡の生物科学的観点から、西田幾多郎とその京都学派の系図の中で、日本哲学を、考察しながら、戦争に於ける哲学者による「近代の超克」という課題に迫ろうとするなかなか意欲的な番組である。最新生命科学の考え方の中に、哲学的な考え方と共通する概念が、在る事自体にも、驚かされるが、よくよく、考えてみれば、哲学も、生命科学の世界観も、そもそもが、「人間とは何ぞや」と言う観点から出発していることを考えれば、確かに、福岡の云うように、驚くべきことではないのかも知れない。それにしても、西田幾多郎という人物の周囲には、随分と、今日でも、日本の思想界に、影響を及ぼした人物が、その友人、弟子や孫弟子達という形で、輩出したものである。名前を挙げるのに、暇がないほどである。鈴木大拙務台理作谷川徹三、三木 清、高坂正顕、戸坂 潤、西谷啓哲、等、とりわけ、この番組の中で、取り上げられた「大東亜共栄圏」との思想的な、所謂、「近代の超克」という課題は、もう一度、今日的にも、アジア歴史認識問題とも絡んで、考え直してみなければならない内容であろう。それは、只単に、安田與重郎に源流を発するところの日本浪漫派の系譜と、符牒を併せるが如く、亀井勝一郎、林 房雄、小林秀雄河上徹太郎中村光夫、等とともに、理論的な思想的な裏付けと云うよりも、むしろ、現実の思想弾圧と冷徹な戦闘が行われた戦争という枠組みの中に、埋没、政治的に利用されることになってしまったという無念と皮肉。今日、新しい国づくりと称せられる理論的な(哲学的とは、言い難いけれど、、、、)裏付けは、一体全体、日本の哲学界・思想界の中で、どのようなことが、議論されているのであろうか?今日、そういう潮流なり、底流は、どのようび形作られようとしているのか?経済政策というものは、ある程度、分かりやすい。(もっとも、この20年、機能不全に陥ってしまっていることも事実ではあるが、)真剣に、思想界での底流は、ナショナリズムという熱しやすいマグマは、どのような方向へ、向かおうとしているのか?日本人は、何を考え、今や、何を、考えようとしていないのか?何に対して、思考停止を迫られているのか?こういう硬派の番組が、少なくなってしまったことは、残念であるが、絶滅危惧種の番組が、視聴率競争とは別の形で、生き延びてもらうことを願ってやまない。竹内 好の「近代の超克」を、今再び、読み直してみようか、、、、、。

 

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