小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

ETV 辺見庸「失われた言葉を探して」を視て

ETV 辺見庸「失われた言葉を探して」を視て
友人からのメール案内で、この番組を教えて貰った。石巻市出身の辺見庸は、故郷が、被災するのを目の当たりにして、言葉を発することが、出来なくなってしまったという。そんな折り、1974.08.30に、発生した東アジア反日戦線、狼による三菱重工爆破事件の主犯格であり、確定死刑囚の大道寺将司の俳句作りとその出版の手助けを通じて、(「棺一基」太田出版社)、改めて、絆・勇気をもらう・復興・元気を出して・頑張れとかいう「震災後の言葉の虚しさ」を感じつつ、じたばたして、生きようとしてよいとする生き方、「失われた言葉」を、探して、生きてゆこうとする姿を、再確認する。塀の外と内との違いはどうあれ、その拮抗する中で、原発事故と3.11の死者達の沈黙を、生き残った者達が、想い、憚り、表現する在り方を、提起しようとする。確かに、「重すぎる課題」である。大道寺は、1948年生まれの同じ歳、同世代である。アイヌ北海道開拓史の銅像の爆破、沖縄問題、ベトナム戦争昭和天皇列車爆破未遂、一連の連続爆破事件、等、同じ時代を生きた我々は、辺見庸のように、もう一度、自分自身を、振り返って、当時の自分と現在の自分を、精査し直す必要があるのでは無かろうか?さもなくば、どうも、言葉を失ったまま、又、小泉小劇場や、橋下ハシズムへの対抗軸を、作れ得ぬままに、瓦解へと進んでしまうのでは無いかと危惧する。脊椎カリエスで、根岸の狭い小さな庭を眺めては、そこから、俳句という宇宙を見つめながら、作句した子規のように、30余年も外の景色も見れない塀の中で、今や、骨髄がんを患いながら、かろうじて生き長らえる大道寺の句には、そのイマジネーションとその現実的結果との余りに大きすぎる乖離と、裏切りが、込められている。無垢の犠牲者・被害者に対する自責の念と、自らが傷つけ、今又、今度は、自分がその痛みから、他者の痛みを、改めて、思い煩い、主体・客体の逆転的な転移に昇華するような句は、何か、我々が、娑婆では、本当に見えていないものを、凝縮・推敲された17文字の中に、投影されているような気がして、ハッとさせられる。
「棺一基 四顧茫茫と 霞みけり」、「実存を 賭してわびする 冬の蝿」
改めて、句集を、読んでみたくなった。