小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

画風は変えられるのか、変わるのか?:

画風は変えられるのか、変わるのか?:

絵を描くという行為は、よくよく、考えてみると、目で見て、頭の中に感じたイメージを、手に命令して、筆で、描く訳であって、決して、難しいことではない。しかしながら、これが、即興のゲーム感覚のお遊びだと、一概に、お遊びだと侮れないことに改めて、気づかされる。前回は、外国人を含めて、みんなが知っている人物を紙に、自分なりに、描くというもので、例えば、マイケル・ジャクソンというお題の下、全員で、せぇーのと一斉に書き始めるわけである。成る程、頭の中のイメージは、しっかりと頭で、認識していても、髪型は、どうだったかなぁ、鼻筋は、目つきは、、、、、、と思い出し始めると、急に、筆が止まってしまうものである。つまりは、頭の中の認識やイメージを、改めて、手を媒介にして、脳の命令に従って、自らの手で、描くという作業は、なかなか、これはこれで、難しいものである。しかも、消しゴムを使えないので、線による描写は、難しいものである。マイケル・ジャクソンも、オババ大統領も、知ってはいるが、絵に描くという行為は、全く別問題である。幾つものお題に基づいて、素描を重ねていると、あることに気付く。つまり、その画風が、別に書き手の名前を明示していなくても、不思議と自ずと判明してしまうことである。こうなると、一体、「固有の画風」というものは、どういうことなのであろうか?絵画の感傷をするときに、画家の年代的な作品をまるで、時間を遡って逆廻しにするように、若い時の画風は、こうだったが、晩年は、ああだったかとか、解説がされているが、一体、どのように、画風というものは、変化するのであろうか?又、如何にすれば、画風というものは、変わりうるモノなのであろうか?私には、大変興味深いものがある。線の太さとか、太さとか、思い切りの良さとか、どうみても、自分の線描の仕方は、優しい、繊細な線でしか、描くことが出来ない。太いザックリとした線では、思いっきり描けないのである。人生のある瞬間に、あるときにだけ、画風というものは、突然変異のごとく、画風や、色使いが大きく、変貌を遂げることがあるのであろうか?画風は、変わるのであろうか?それとも、画風が自ずと、変わるのであろうか?たわいのない即興的なゲームの中で、そんなことに気付いた。是非、家族でやってみたら、なかなか、面白いゲームである。鉛筆と紙と、みんなが知っている人物でも動物でも静物でも、何でもよろしい、頭に残っているイメージを右脳の活性化の為に、指を使って、描くだけである。