小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

End This Depression Now ! by Paul Krugman を読む:

End This Depression Now ! by Paul Krugman を読む:

本稿の目的は、「さっさと、不況を終わらせろ!」(山形浩生訳:早川書房)なる著作の内容を追いながら、その論点を整理するモノではなくて、(読んで貰えれば、それ程、長くないので、わかりやすい)、飽くまでも、私が、読後、色々と抱いた感慨を述べる極めて私的な内容でしかありません。従い、ことの成否を確認なされたい方は、まずは、本を読まれることをお勧め致します。

 

著名な経済学者は、どちらかと言えば、経済理論のみならず、ある種わかりにくさの中に、哲学的思考というか、倫理学的な観点からも、卓越した何かを内面に有しているように思えてならない。それは、アダム・スミスマルクスエンゲルスも、ケインズですらも、そのような系譜が感じられるのは何故なのであろうか?クルーグマンは、それに比べると、単純明快、バッタ、バッタと、論敵を快刀乱麻の如くに、なで切りにして、その意味では、ある種の明快さの裏に潜む誤解されるという「負の要素」も無きにしも非ずであることは、否めないであろう。それにも関わらず、アメリカの共和党・民主党、双方に対しても、歯に衣着せぬ物言いを展開するのは、実に小気味よいではないか。何か、モノに憑かれたような「闘う宣教師」のような形相すら文脈や行間には、感じられる。もっとも、写真で見る限り、その面構えも、タフな容貌ではないと、誰が言えようか?アメリカの学者であるから、むろん、アメリカの経済分析を主体に論じられているにも関わらず、その日本経済に対する関心度・洞察度、とりわけ、失われた20年にも及ぶデフレ、超低金利、株安、為替・超円高との闘い、決められない政治に起因する金融・財政政策のガダルカナル式出し惜しみ、漸次的対応の試行錯誤、等、自らの議論を展開する上からも、魁としての日本の課題を、十分、反面教師的に研究考察しつつ、その打開策を、端的に分かりやすく、問題点とともに説いている。その意味では、日本の経済学者、或いは、エコノミスト称する輩とは異なり、まずもって、タフなアメリカ社会の中で、それなりの地歩を築いてきただけのことはあって、その筋金は、柔そうではない。

 

人間は、「茹で蛙」の譬えの如く、確かに、長い間、徐々に熱くなるお湯の中にいると、その熱さが分からなくなり、終いには、熱せられて、茹でられてしまうことになる。同様に、マイナス成長、超低金利、株安、超円高、デフレ、賃下げ、空洞化の中で、長い間いると、それが、あたかも、ひどく、複合的な魑魅魍魎の成せる技のような錯覚に陥ってしまいがちである。しかし、そうではないと、はっきり、バッサリ、クルーグマンは、車の「マグネトーの不具合」を引用して、切り捨ててしまう。そして、更に、具体的な方策も、明示する。政府による公共投資への拡大策、大規模な新しい財政刺激策、経済活性化の為の政府支出プログラム、インフレ・ターゲットの設定、需要の創出、成長戦略など、(流石に、地元、毛利の3本の矢の譬えは、出てこないが、、、、)何処かで、最近聞いたことのある政策が、紙面には踊る。何よりも、「知的な明晰さ」と「政治的な意思の欠如」が、必要と、彼が、アメリカよりも、自分の経済理論を、直ちに、実行に移して貰いたいのは、本当は、オババによる米国ではなくて、実は、日本にこそ、期待するところ大なのではないかとも思われるほどである。読みようによっては、そんな気がしてならない。もっとも、それは、私が、日本人の観点から、読んでいるせいなのであろうが、、、、、、、。その意味では、この著作は、今日の日本中、否、世界中に蔓延している心理的な焦燥感と絶望感、或いは、拡張的緊縮政策やセンセーショナルに語られるところの終末論的破局説への対極的な政策提言である。天安門事件の時に、あたかも、人民解放軍が、二局分裂化して、内戦に突入するかの如き分析を行った軍事評論家と称する者や、さっぱり、具体性に乏しい現状分析だけで、解決策を提示出来ないでいるTV経済評論家に較べると、(較べる事自体が、恐れ多いのも事実であるが、、、)流石に、ノーベル経済学賞受賞の学者は違うのだろうか。自分の理論に、責任を持っていそうである。もっとも、著作の端々には、その期待する所の政策の実行者に対して、「優柔不断」や「断固たる決意の欠如」を、嘆いている節が、結構、見られなくもない。

 

今から、思えば、「金融ビッグバン」なるものは、一体、何だったのであろうかと、考えさせられる。決して、私達は、日経やその他の経済誌が、未来は、太陽系のビッグバンによる誕生に喩えて、素晴らしいバラ色であるかのような幻想を抱かせたことを、、、、忘れてはならない。預金銀行・証券会社・信託銀行・投資銀行の垣根という障害は、「誰」の為の「障害」だったのであろうか?結果としてのシャドー・バンキング・システムの肥大化に伴う「モラル・ハザード」を惹起させてしまったのは、金融の規制緩和が、元凶だったのであろうか?むしろ、規制の「緩和」よりも、規制の「更新」の方にこそ、本来、適宜、必要だったのではないかと、政策の失敗だったのであれば、それは、又、ある種、「人災によるもの」であろうが、、、、、。「今にして思えば」と言う言葉は、何とも、可笑しなものであるが、実際、度重なる法案の提出や規制緩和の施策が、今にして思えば、「とんでもない結果」をもたらそうとは、その時、どれ程の人間が、思い描いていたであろうか?「バーナンキFRB議長は、自らが大学教授であったこともあるかつてのバーナンキ教授の助言に、自ら、従うことが出来なかった」、という言葉は、実に、当を得て、しかも、妙である。何とも、学者の時と政策当事者になると、立場が多いに異なり、自説を実行できなくなるのであろう?人間とは、所詮、立場が、変われば、そんなものなのかも知れない。

 

この本の中には、当然、上杉鷹山や、清貧の思想という記述は勿論ない。ただ、私が、面白いと思ったのは、「負債というものの考え方」についてであり、又、緊縮策と心理的な道徳概念・美徳の概念や倹約の奨励などに対する合理的な考え方である。とかく、日本では、時流に媚びへつらうのか、どうか分からぬが、倹約というと徳川幕府の三大改革が、いつも、教科書通りの鑑として、もてはやされて、果ては、「上杉鷹山」や「清貧の思想」なる何とも精神主義的な形而上学的な心構えを説いたり、倫理的・道徳の範疇の延長戦上での「精神論」へと、進みがちである。(上杉鷹山自身は、そうではないと思われるが、)経済的苦境=倹約・節約・貯蓄=出を制して、入を図る=道徳的倫理的精神論へと、完結して行く。その観点から見る限り、財政赤字削減と緊縮論者への痛烈な言葉は、「負債というものの考え方」に端的に、表されていよう。即ち、曰く、「負債というのは、自分たちが自分たちから借りているお金で、、、、、()、、、、、世界全体でみると、全体としての負債水準は総純資産価値には、全く影響しないことがわかる、誰かの負債は誰かの資産だからだ。」と、観点を変えれば、目からまさに、鱗である。純資産価値の水準が問題になるのは、純価値の配分が問題になるときだけであると、そう考えると、貧困と格差、賃金・失業、セイフティー・ネット、等の問題点も、景気循環や経済成長・停滞ともおおいに、関連づけられて議論されても良さそうであるが、もう少々、この辺の課題については、別の著作ででも、論じてもらいたいものである。やや消化不良である。

 

EUの危機とは構造的に異なり、米国では、資産担保証券(ABS) 債務担保証券(CDO) クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)等の或いは、デリバティブ・通貨スワップとか、「金融工学」と称する合法的なイカサマ賭博のような手法が、住宅ローンや、各種金融取引に、リスクが分散、ちりばめられ見えにくくする形で、取り入れられ、更に、S&P等の格付け会社による意図的な信用ランクの優良高位付けとも相俟って、より厳しい規制・監視ではなく、逆に、より無制限な緩和へと、人為的、政策的にも、大失敗をもたらしてしまったのは、周知の事実である。もっとも、それらは、政治的な圧力にもよるところが、大である以上、反ウォール街デモ参加者の気持ちが分からないでもない。しかし、一方で、米国住宅ローンの不良債権化の問題に対して、「大規模な借り換えプログラム」の実施を強く要求するも、政治的な立場から、債権者最優先の道徳的な考え方、即ち、債務者(債権者・金持ちからすれば泥棒になる者)への追加的な優遇策=借り換えプログラムの実施は、まさに、泥棒に追銭という理屈から、政府は、倫理的な政治的圧力に屈してしまったと、逆に、もっと、大胆に、個人債務者を救済し、このプログラムを大胆に実施すべきであったと。

 

「負債圧縮・倹約のパラドックス」と言う言葉は、なかなか、心理的に、面白い言葉である。心理的と云えば、「恐怖心と安心感」、「安心感の妖精信仰」、という言葉も、心理的な要因を考える上で、興味深いものである。確かに、センセーショナルに、デフォルト、デフォルト、とばかりに、喧伝し、金融システムの崩壊、信用緊縮、銀行の取り付け騒ぎ、国の崩壊と、まるで、ワイマール共和国末期のナチスが、台頭してきた時期を連想させるような議論は、一寸、一歩、立ち止まって、冷静に、考える必要があるかも知れない。インフレも、我々が、体験してきたのは、せいぜい、特殊な戦後の一時的なハイパ-・インフレや、成長期でのインフレ、或いは、経済不況下でのスタッグ・フレーションで、そうした心理的な「インフレへの恐怖」の概念や、やがて来るかも知れない漠然とした「経済的破局・恐慌への恐怖」というものが、心の片隅にあることも否定しきれないのも事実ではあるが、、、。エネルギー・コストや食品の数値を取り除いた所謂、「コア・インフレ指数」というのも、消費者物価指数・卸売物価指数・鉱工業生産指数等の統計数値の中で、正確に、再考されなければ、今日の統計数値というマジックに、又しても、何処かで、騙されてしまいそうである。

 

ヨーロッパに、目を転じると、所謂ユーロ危機は、そもそも、通貨体制をしっかりと、構築することもなくて、只単に、政治的な大欧州という政治統合の幻想が、先走る結果となり、単一独自通貨を有さない国々と共通通貨€ユーロとの齟齬と矛盾とが、主たる原因で、これに加えて、「労働委移住性」が、異なる言語や多様な文化によって、阻まれることにより、低下し、偏ってしまったことも、確かに、一因であろう。その意味では、この著作の中では、詳しくは、触れられていないが、TPP交渉や多国間貿易ルール・通貨制度・移民政策等は、別の機会に、是非、論じて貰いたい課題である。

 

最後に、日本人読者の観点からは、まさに、今、20年にも及ぶ失われた時間を、取り戻さなければならない時であり、しかも、世界で、初めて、超低金利、超円高レート、株安、デフレの負のスパイラルの中から、抜け出すモデルを構築できる最後のチャンスであろうし、震災復興も、橋やトンネルや高速道路のインフラの整備・修理・保全などは、まさに、千載一遇の公共投資のチャンスであり、過去の土建屋や既存既得権益団体へのばらまきとは、もはや、今日では、異なる状況である以上、どうやったら、官民挙げて、雇用と需要の創出を図ってゆけるのか、或いは、環境規制、例えば、自然再生可能エネルギー、温暖化対策、排気ガスの総量・特定物質規制など、様々な実験が、おおいに、試みられるチャンスである。更には、通貨制度、少なくとも、リーマン・ショック以前の1ドル=100円程度迄への回復とか、株価の回復や賃金・セイフティー・ネットの再回復も含めて、批判はどうであれ、与野党共に、足の引っ張り合いをすることなく、一日も早く、この長引く不況を脱しなければならないであろう。「陽は又、昇る」日が、近いことを祈りつつ、、、、、。「ミンスキーの瞬間」、「流動性の罠」、「拡張的緊縮論」、、、、、等、他にも、興味深いキーワードがあるので、読まれてみては、如何でしょうか?