小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

節分の翌朝の散歩での出来事:

 

節分の翌朝の散歩での出来事:

 

節分の豆まきである。我が老犬は、相変わらず、鼻をクンクン、地べたに這いつくばるようにしながら、とぼとぼ、歩みを始める。「拾い食い」は、よわいを重ねても、一向に、改まることはないようである。それが、子犬時代からの悪食・旧弊であっても、まるで、自分の「犬であるアイデンティティー」を誇示するかのように、固守している。流石に、何を拾い食いするか、分からず、とても危険なので、一緒になって、私も、地べたを舐め回すように、よく見ながら歩いて行くが、、、、、。何せ、早く見つけたものが、勝ちである。

 

もっとも、「節分の翌朝」は、例外である。道路には、「鬼は、外!」とばかり、恐らく、勢いよく、玄関先へ、播かれた大豆の豆粒が、散乱している。これが、車のタイヤで、轢かれて、潰れていたり、その丸い粒々のまんま、道路に落ちている。その香ばしい臭いが、堪らないのか、生来の捨て犬だった「無頼の血」が、そうさせるのか、定かではないが、我が老犬は、「待ってました。ゴッツァンです!」とばかりに、年に一度だけの公認された「拾い食い」を始めるのである。カリ、コリッと、一粒一粒、口に入れては、丈夫な歯で、口の中で、かみ砕かれた豆の音が響く。何とも、小気味よい音であることだろうか。本人は、一心不乱に、味を噛みしめながら、鼻をピクピクさせながら、大豆の豆を捜している。どういう訳か、豆は、もとより、木の実とか、晩秋になると、ドングリの実までも、果ては、口にする始末で、外側の固い皮を器用に、かみ砕いて、中身の柔らかい部分を食べてしまうのである。これまで、特段、それで、お腹を壊したこともない。もっとも、それ程、大量に、食べるわけではないが、、、、、。流石に、殻付きの胡桃の実を与えたことはない。犬は、嚼むことで、太古の野生の本能が、呼び覚まされるのであろうか、今日一日だけは、「年に一度の正式公認の拾い食いOKの日」である。少し、いつもよりも、心なしか、嬉しそうに感じられるのは、私の思いすぎだろうか?果たして、来年も、同じように、その日を迎えられるであろうか?