小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

世界標準なるものを考える:

世界標準なるものを考える:

ザッケローニ監督のサッカー哲学は、ワールド・カップの前には、個人的には、密かに、評価もし、ひょっとすると、とかすかな期待もしていたものの、残念乍ら、やはりと言おうか、期待していると裏切られるという原則が、見事に的中してしまい、おおいに残念である。もっとも、あれだけ、煽っておいたマスメディアは、全く沈黙してしまい、一体、あの期待は何だったのかとも、疑いたくなるくらい泡沫の哀れさと言ったら切りが無い。誠に、日本標準とは、良く云ったもので、せいぜいが、アジアでしか、通用しないと言う代物なのだろうであろうか?それにしても、ワールドカップの一次リーグと決勝トーナメントのレベルは、皮肉にも、何と大きな違いなのであろうか?毎日、欧州のプレミア・リーグでも観戦しているファンなら、その違いも世界標準のレベルも理解しようが、何せ、4年に一度くらいしか、観ない人間にとっては、ネイマールやメッシの名前は知っていても、そのプレーの水準の世界的な高いレベルが、どれ程、違っているのかは、なかなか、実感も出来ない。まるで、幕下の力士が、いきなり、横綱と対戦するかの如きものなのであろうか?成る程、サッカーのレベルは、分かったが、同じ外国から紹介されたスポーツでも、何故、ベースボールは、野球として、進化・昇華されて、今日、世界的な水準にまで、のし上がることが出来得たのであろうか?おおいに、その違いは、何処にあるのか、興味深いところである。その世界的標準に達するのに、どのような違いと歩みがあったのであろうか?指導者の育成の違いなのか?外国のスポーツを理解する文化・風土が違っていたのであろうか?比較文化論風にでも、誰か、スポーツ・ライターでも説明して貰えないだろうか?FIFAからの助成金をしこたま、貰っていながら、何故、今日、サッカーは、世界的標準へのロードマップが、しっかりと、提示出来ないのであろうか?女子のなでしこの方が、あれ程、短期間に、世界標準のレベルにまで、達していながら、一体、女子と男子で、そんなに、大きな違いがあるのであろうか?

サッカーの世界でも、ワールド・ベースボールの世界でも、世界標準に達するには、大変な努力が必要であることは言を俟たないが、ISO規格ではないが、介護ロボットや補助ロボットでも、その他の商品でも、共通の世界標準を創設するための主導権争いは、何も、スポーツの世界に限られたことではない。少なくとも、サッカーの世界では、日本は、否、アジアも含めて、世界標準には、全く通用していないことが、今日、その事実を改めて、突きつけられました。ものづくりの世界で、或いは、サービスの分野でも、共通の安全基準や世界標準の創出で、一体、日本は、どのようにしたら、主導権が握れるのであろうか?ワールド・カップの敗退は、驚くべき事でもないし、大した問題ではない。考えようによっては、負けて当然、こちらの方が良かったのかも知れない。とはいえ、反面で、来年の女子ワールドカップには、なでしこに期待したい気持が一方で出てくるのは、どうしたものであろうか?