小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

声の再生ということ:

声の再生ということ:

咽頭癌の摘出のために、声帯を除去してしまった音楽家つんくの身を削っても命の選択という決断には、言葉を失ってしまう。音楽家として、声を失う、出ないという生活は、如何ほどのモノなのであろうか?それにしても、数多くの人達が、声を失っている現状があると云われている。それに対して、こうした危機を事前に、自分の声を録音しておいて、デジタルで、一音一音拾ってゆき、PCで、声を連続的に再生させるという方法が、どうやら、確立されつつあると云うではないか?こうすれば、機械的なロボットのようなボイスではなくて、その人の発していたこれまでの声の質が保たれて、しかも、ある種の訓練により、声を再生できるという技術であるらしい。そういえば、既に亡くなった人もその画像と共に、生前の声を再生しているCMを見たことがあるような気がする。iPS細胞による再生医療ではないが、機械でも何でも、活用して、声の再生や視覚や聴覚の再生が可能になれば、それに越したことはない。むろん、健康であれば、それに越したことはないが、それでも、救いになればおおいに宜しいではないだろうか?ひょっとすると、これからの世の中は、生前と云っては何であるが、事前に、健康なときに、何でも何処かの組織をバンク登録しておいて、声もあいうえお、と録音しておいて、来たるべき万が一の将来の不具合に対する措置を講じておくようになるやも知れない。薄くなってしまった髪の毛の再生も、可能なのであろうか?要らぬ過剰な期待を、手遅れだとは知りつつ、してしまうのは、どうしたものであろうか?