小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

朋に会いにゆく、これも亦楽しからず也:

朋に会いにゆく、これも亦楽しからず也:

論語の一節に、「有朋自遠方来 不亦楽」とあるが、たまたま、株主優待航空券を無駄にしてしまうのも勿体ないので、これを利用して、広島・四国へと学生時代の友人と元取引先の担当者達に会いにゆくことにした。昔みたいに、飛行機や車があるから、いつでも会いに行こうと思えば、今や、時間が制約されない以上、それは、単に、お金だけの問題ではあるが、、、、、、それにしても、広島の原爆公園は、いつ行っても、厳粛な気持になるものである。ホテルから、徒歩で、川沿いの土手上を歩きながら、相生橋に向かって、右手に原爆ドームを見ながら、ゆっくりと杖をつきながら、歩を進めてゆく。川沿いには、恐らく無数の被爆者が、その時には、地獄絵さながらに、水を求めて、殺到したであろう様が想像される。又、無造作に折り重なる原爆ドームの大きな角張ったコンクリートや石の塊は、その瞬間的な凄まじいばかりの破壊力と高熱を容易に、想像される。爆心地点付近の橋の目標は、確かに、高度1万メートル上空からでも、真夏の雲一つ無い上空からは、容易に、識別出来よう。世界遺産として登録されているのに、何故、東日本大震災の被害モニュメントは、あっけなく、取り壊されたのであろうか?広島も、同じような議論が戦後間もなく、有ったと言われている。後世の人達は、どのように、この対照的な事例を評価するのであろうか?川縁の水を求めて殺到したと言われている石畳や橋脚の下を歩きながら、当時を想像だにすると、実に、胸が痛くなる思いがする。公園内は、10人規模での少人数の小学生のグループが、ボランティアの人達の説明に、熱心にメモをとりながら、聴き入っている。はだしのゲンのモデルになった近くの学校を指さして、その初老のボランティアの人は、同じ頃の年頃の小学生に説明をしていた。そこここには、海外から訪れてきた旅行者が、小さな慰霊碑も見落とさないようにと、一生懸命、カメラに、納めている。それにしても、全国から動員されてきて、遭難した勤労学徒、在日朝鮮人、会社従業員、等等、多いことか、随分と大小取り混ぜても、様々な慰霊碑が在るものである。それにしても、70年あまり前に、この場所で、こういうことが起こったかと思うと、実に、平和の尊さが改めて偲ばれるものである。同い年の友人は、右目が加齢性黄斑点網膜症の進行で、視力を低下させ、その反動で、左目にも、負担が掛かっていると言うではないか、又、腰の痛みと闘いながら、山登りで、筋力の衰えを支えているものの、いつまで、出来るかどうかとも心配している。人生、万事、問題なしという訳にはゆかないものである。会社人生も、健康も、家族も、おカネも、、、、、、、、。しまなみ海道は残念乍ら、夏台風の影響で雨の中で、翌日は、景色を堪能出来なかったのがおおいに残念であった。せいぜいが瀬戸内海の美味しい魚料理を堪能出来たこと、そして、昔の取引先の担当者達と数年ぶりに再会出来たことで、充分である。仕事の環境とは本当に、一夜にして大きく変わってしまうことがあるが、本当に、その通りである。これまでは、順調に推移していたものが、有る時を境にして、一挙に、激変してしまうものである。誠に、時の勢いと潮目のタイミングとは、まるで、人生の巡り合わせのようであろうか?運とかつきとかいう一言で済ませてしまえば、それまでであるが、そんな一言で済まされるモノでもない。誠に、時の流れというものは、時流に弄ばされるものである。まるで大海に浮かぶ小舟の如く、時勢という天候に左右されてしまうことなのであろうか?誠に人生、難しいものである。それでも、現役の人は、働き続けなければならないわけで、ストレス・フリーの我が儘爺さんという訳にはゆかないものである。まぁ、それでも、いがみ合い、憎しみ合いでは、再会も果たせない以上、まぁ、良しとすべきではないでしょうか?名刺の束を見直しては、一体、どれ程の人と巡り会い、その中で、どれ程の人と、未だに、お付き合いして戴いているのかと思うと、成る程、人との付き合いの仕方とは、誠に、難しいものであると感じざるを得ません。それは、親戚も含めて、学校時代の先輩・後輩・同輩、或いは、幼稚園時代の幼友達も含めて、社会に出てからも、色々な人に、支えて貰ったお陰で、今日、こうして、自分があるのかも知れません。そういうことを噛みしめるような、そんな気休めの短い旅でしたが、、、、、、、今度は、又、別の形で、巡り会いたいものです。その時まで、何とか、健康を維持していられたら、現状維持で、おおいに結構ですが、、、、、とお互いに、思った次第です。そして、いつの日か、又の再会を約して、別れてきました。