小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

Phan Boi Chauファン・ボイ・チャウの東遊運動と日本のアジア主義:

 

Phan Boi Chauファン・ボイ・チャウの東遊運動と日本のアジア主義

 

一体、日本は、いつ頃から、アジア主義を棄てて、結局、帝国主義国の仲間入りを目指さざるを得なかったのであろうか?それは、歴史の必然であったのか、それとも、ある種のどこかで、間違った方向へと結局、向かい、やがて、敗戦、今日の状況へと向かってしまったのであろうか?一体、どこから、その分岐点は、始まってしまったのであろうか?ベトナム独立運動前史を語るときに、そのホー・チ-・ミンへと連なる思想的な源流を追うときに、日本に於けるアジア主義支援の限界と蹉跌の歴史が、まるで、歴史の鏡の表と裏のように、透けて見えてくる。残念乍ら、ドキュメンタリーは、ベトナム独立前史としての思想性の系譜であるから、当然、日本の側のそれは、取り扱われていないが、別の機会には、是非、もう一つの主題を取り扱うことで、今日の日本の課題も何か見えてくるような気がしてならないが、、、、、、、。それは、ともかくとして、まずは、簡単に、ファン・ボイ・チャウの思想を追ってみることにしよう。ほぼ、明治維新と同じ頃に生を受けているわけだから、日本による近代化には少なからず、幼少期から、青年期に掛けて、影響を受けていることは間違いなさそうである。マレーシアのマハティールによるLook Eastは有名なキャッチフレーズではあるものの、当時の「東遊運動」というものは、もっと、歴史的にも、大きく評価されて然るべきであろうし、又、これに対する大隈重信犬養毅らの日本側の対応にも、それ相当の当時としての限界もあろう。本来のベトナム人としての名前を、中国人名に変名いなければならなかった「維新会」による日本留学やその後の(1908年には)200人余にも及ぶ東亜同文会へのベトナム人留学生の無念さや、更には、その後の日仏協約による植民地利権の相互黙認などの頃になると、もはや、日本のアジア主義の系譜は、宮崎滔天らによる辛亥革命との関わり、その後の孫文蒋介石らへの支援運動と挫折、朝鮮での金玉均らへの連携支援とか、日本のアジア主義の系譜の歴史と蹉跌が、同じく、ファン・ボイ・チャウの思想性の中にもみてとれよう。小村寿太郎への3mにも及ぶ抗議文からは、その日本のアジア主義に対する期待の反面となった大いなる失望、やがて、その絶望は、ベトナム光復会での同じく、海外留学組のホー・チー・ミンとの巡り兄繋がって行くのである。逮捕・終身刑後のフエでの「岸辺のじいさん」という愛称は、まるで、「ホーおじさん」いうニック・ネームを彷彿とさせる。因みに、救国の英雄と称えられた今年亡くなったグエン・ザップも、若い時に、この「岸辺のじいさん」の熱い民族独立の想いを感じ取ったそうである。ク・オン・デ(皮肉にも、日本の仏印進駐に期待したにも拘わらず)の立憲君主制思想に対して、独自の共和制の主張は、このような歴史的な蹉跌の中で、やがて、反帝国主義・民族解放闘争VS大東亜共栄圏、対仏独立闘争へと、収斂されてゆくことになるが、これは、ベトナム正史として、表舞台に立って行くことになるが、日本では、逆に、アジア主義の系譜は、日本では、歴史の表舞台から、裏舞台へと役回りが変質して行き、東山満らの玄洋社内田良平らの黒龍会満鉄調査部や、汪兆銘、東亜協同体論、或いは、北一輝大川周明、へとつながってゆくことになるが、もっと、中国・朝鮮・ベトナム・インド等との思想的な系譜の中で、もう一度、光を当てても良いのではないかと思われる。何故ならば、今日のアジアの状況を、とりわけ、中国・朝鮮・東南アジア・インド、などとの関係性の中で、これまでの竹内好松本健一の業績の延長線上で、今一度、若い人による解明が待たれるし、そこにこそ、新しい外交戦略、新しい躍動するアジアの思想性が、問われているのではないかと、果たして排外主義的なナショナリズムに対して、日本も、それに呼応するような狭小な新保守主義ナショナリズムで、対抗しても、意味はなく、新たな日本独自の価値観をもって、対応しなければ意味がないのではないかと、このドキュメンタリーを見ていて、思ってしまったが、、、、、、、、。