小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

第三者委員会なるものと組織と個人:

 

第三者委員会なるものと組織と個人:

 

だんだん、歳を重ねるに従って、疑い深くなるものらしい。子供の頃は、正義の味方と言えば、鞍馬天狗や、月光仮面であったが、今日では、差し詰め、第三者委員会なるものであろうか?有識者会議なるものも、当てにはならないし、、、、、、。それにしても、当事者個人の倫理意識、或いは、「組織の自浄作用」が、全く機能不全に陥ってしまっているのではなかろうか?一体、どうしたことであろうか?「現在、調査中であるから、コメントできかねる」とか、「第三者委員会の調査結果を待ってからでないと、言えない」とか、今後の法廷での発言の責任追及を、今から、想定したような弁護士に演出された、まるで、法廷での証人喚問のような有様である。そこには、もはや、「個人の矜恃」とか、何も、「プロテスタンティズムの倫理観」を論うつもりはないが、少なくとも、個人的な良心の呵責に耐えうるような高い倫理観があるとは、一向に、思えない。「組織的な隠蔽」と思われても、これでは、弁明の余地があり得ないであろう。東電にしても、カネボウにしても、昨今のJR北海道や、みずほ銀行グループに至っては、もはや、日本の依ってたつべき個人の強みすら、組織防衛の名の許では、もはや、その自浄能力が、無くなってしまったのであろうか?「失敗の本質」など、読んでいないのであろうか?組織の中立的なチェックという観点からすれば、当然、オンブズマンではないが、そうした客観的に、(もっとも、この言葉自体も、くせ者ではなくもないが、、、、、)組織の腐敗や問題点をチェック、自浄できるような中立的なシステムが、必要であることは、官・民を問わず、組織である以上、言を俟たない。起きてからではなくて、その前に、何故、バックアップで、なかったのであろうか?或いは、あっても、機能しなかったら、何故、しなかったのであろうか?それにしてもである。それにしても、どうして、一体、最期に依るべき個人の矜恃まで、個人の倫理的な誇りまでも、組織の中では、喪失させられてしまったのか?随分と、頭取とか、社長とかという立場も、軽くなってしまったものである。一体、どのような経緯で、どのようなメカニズムで、何故、こうなってしまったのか?よく、組織の金属疲弊とか、官僚化とか、昔は、随分と、我々の若いときには、議論された事柄ではあるが、どうも、今日の一連の動きには、もっと、根深い、「個人の不作為」と「倫理観の欠落」とが、どこかで、密接に、関わっているような気がしてならない。大塚久雄丸山真男橋川文三にでも、解析して貰いたいところであるが、今日、誰か気鋭の若手の学者は、いないのであろうか?これでは、内部告発も、確かに、出てくるはずもないのではなかろうか。