小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

佐村河内守という音を失った作曲家のこと:

 

佐村河内守という音を失った作曲家のこと:

 

サムラゴウチ マモルと読むそうである。NHKスペシャルで、こういう作曲家がいることを改めて知った。何とも、生まれつきではなくて、後天的に、難聴を患って、何種類もの薬を服用しながら、そのボイラー室のような音の響きという痛みを和らげなければならず、音を、失ってしまった被爆二世の作曲家であると、、、、、。随分、芸術家というモノは、色々な苦難を乗り越えて、仕事をする人がいることに、唯々、健常者の身である私は、恐れ入ってします。辻井伸行にしても、盲目のピアニストと呼ばれる事自体を、盲目である事自体が、逆ハンディキャップであるとみられることを嫌うように、佐村河内守も、同様に、その音を失った作曲家というレッテルを、或いは、ハンディキャップを嫌うそうである。交響曲第一番ひろしまには、聴衆の琴線に触れると言われている「旋律の十字架」というものが、存在しているらしい。全くの音楽音痴の門外漢である私には、よく、分からないが、確かに、それを聞く限りでは、成る程とも、感じられないことはない。そういうものなのであろうか?こんなに、長い交響曲を作曲する方も、大変であろうが、これを一生懸命、指揮し、演奏する方も、負けじとばかり、眼には見えない魂の闘いが、音の世界で、繰り広げられているのであろう。しかしながら、皮肉にも、その演奏する音や、ましてや、その終了し終わった聴衆の拍手は、その作曲家には、聞こえないのであろうか?せいぜいが、身振り手振りや、会場の空気が振動して伝わってくる雰囲気でしか、感知できないのであろうか?東日本大震災で肉親を失った少女への鎮魂のレクエアムも、その創作過程は、すさまじいモノがあることに驚かされる。右手の不自由なバイオリニストの少女との交流からも垣間見られるように、画家でも、ダンサーでも、音楽家でも、版画家でも、彫刻家でも、何とも、すさまじい内なるエネルギーを人間は宿しているのであることに、改めて、気付かされる。ましてや、ハンディキャップを背負いながら、それを克服しつつ、突き動かされるように前に進む人にとっては、今後、どんな作品を、次に、生み出して行くのであろうか?実に、愉しみである。