小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

福岡伸一著、「せいめいのはなし」を読む:

福岡伸一著、「せいめいのはなし」を読む: 専門分野が異なる4人のゲストとの対話を通して、生物、経済、時間、文学、意識の問題に関して、多岐に亘って、「動的平衡」(動的平衡とは、絶え間なく要素が変化して、更新しながらもバランスを維持するシステム合成と分解の最中にあって作り変えられてゆくその一片は、取り替えられているにも関わらず、全体として恒常性、バランスが保たれた状態。ある種の平衡が保たれている私達の身体は、分子のゆるい淀みで在り、絶え間なく分解され、新たに取り込まれたものに置き換えられ、個体は常に外界と入れ替わってゆくようなものである。そこにあるのは、流れそのもので、その中で、全体として一定のバランス、恒常性が保たれた状態のことを、動的平衡と謂われる。) というキーワードを媒介にして、新しい生命観を、読み解いてゆく。3.11以降の現代の諸課題に関しても、もはや、科学だけでは語れない、相補的に、科学は、文学を、文学は、科学を必要としているなど、今日的な課題への解決の「思考上の示唆」を多いに含んでいるところがある。分子生物学者らしく、今、注目されているES細胞やips細胞やついても、(それらは、まだまだ、分からないことが多いので、癌治療の応用を、急ぎすぎてはいけない。ブラック・ボックスが未だ残っている。)という著者独自の見解を付け加えているのは、興味深いし、そもそも、分子生物学者から眺めた新しい視点が、何より文系重視、金融工学重視の昨今には、実に、耳が痛いところが多く感じられなくはないが、、、、、その意味で、こういう視点が、もっと、具体的に、色々な分野で、傾聴されても然るべきではないだろうか?否、もっと、そうされて然るべきかも知れないとも思われる。どういう方法でこの世界の成り立ちを解明してゆくかという点では、文学でも、芸術、哲学でも、共通しているが、自分の映し鏡というか、自画像を描いているように、思えると、電子顕微鏡を通しても、そうであるらしいが、、、。 「言葉」とは、「記憶と意識」とは、「秩序と時間」の概念、「情報」とは、「神の摂理」とは、「メカニズム」と言う言葉とは、「効率と進化論」、「生きる」こととは、「物事を観る」と云うこととは、等…、根源的、且つ哲学的な課題も、この「動的平衡」というキーワードの前には、改めて、それらの問いは、考え直されて然るべきであると思わざるを得ない。もっとも、著者によれば、もはや、科学だけでは語れない今日、相補的に、科学は、文学を、文学は、科学を必要としているものの、無原則的な「組織論」等への拡張に際しては、その相補的な関係性をどういうものに置き換えるかと言うところに注意することが、重要であり、その相補関係は、時間の関数でもあり、文化の流れとして張り巡らされているものであることを念頭に置いて考えられなければならないと歯止めも忘れていない。今日、科学の想像力は肥大化して、すべてがメカニズムとしてある種の因果律でコントロール出来ると考えてしまうと。確かに、物事を解析するときには、この言葉を、我々は、今日、使いがちであるが、、、、、。メカニズムという言葉が持つ、この機械的な世界観にこそ、真実の自然があると現代人は勘違いし、世界の全てが、コントロールできると錯覚し、その果てに今日の文明の問題があるのではないかと思いがちであることは、間違いないだろう。世界を秩序として、捉えたいという脳の癖こそが、希望であるとも。メカニズムは、各パーツが固有の機能を分担することで成り立っているが、それぞれの機能は全体に繋がっているものである。 「生きている」と云うことは身体の中で、合成と分解が絶え間なく、ぐるぐると回っているその流れで、これこそ、生きていると言うことなのであると。一生懸命壊すのは、壊さないと新しいものが作れないから、壊すことによって、捨てるものがあると。何やら、身体の中では、自然に、既に、生まれたときから、スクラップ&ビルドが、組み込まれているようであるが、、、、、。「生命」とは、「動的な平衡状態にあるシステム」で、換言すると、可変的なサステイナブルであることを特徴とする。物質的な構造基盤にではなくて、この流れに準拠しているそれは、又、受け容れたものを多様な形で、次に送るときに、一番必要としている受け取り手を過たずに見つけて、そこにピンポイントでパスを送り込んでゆくことではないか?まるで、ラグビーやサッカーのパスのようなボール・ゲーム理論の如きである。コミュニケーション、生きる力そのものと等しいのではないか?と、鬱病なども、むしろ、細胞に尋ねた方が、良いのかも知れない。逆に、ネットという匿名の空間、個体識別出来ない言論活動というものは、実は、名前を秘匿するという意味の「匿名」ではなくて、まだ、自分になりきれていない、名乗るべき名前が未だない人間の世界なのであると。 分子生物学的なレベルで起きている「個々の細胞のふるまい」と社会活動のレベルで起きている「個々の人間の振る舞い」の間には、「構造的な相同性がある」のではないか?停滞する今日の経済システムにしても、経済システムの生命が、だんだん、衰弱しつつあり、商品の実用価値から、象徴価値へのシフトへ、誇示的消費とアイデンティティーの問題について、まだ、アイデンティティーがないから(お金がないから)という社会的な不遇を名無しという名乗りによって、誇示しているとも、パスの仕方においてのみ、その人のアイデンティティーが、示されるのではないかと。贈与経済(富)のパスの仕方とボール・ゲームの比喩を挙げて、退蔵してはいけない、グルグル廻していかなければ経済活動も死んでしまうと分析する。生物学の「動的平衡」の理論が、経済活動の本質にも応用できるのではないか?と論を展開してゆく。 細胞とは、周囲の細胞によって自分が決まるもので。細胞が何の細胞になるかは、予め、内部的には、決められていない。前後左右上下の細胞との関係性によって初めて、何になるか決まるのであると。「自分探し」の例えを引用して、自分の中には、自分はいないし、そんなことに時間を費やせば、結局、「永遠の旅人」になってしまうと。自分とは、他者と差別化されることで初めて生まれる概念であるのではないかと。ES細胞とよばれるものは、コミュニケーションが取れずに、空気が読めなくなった細胞であり、自分では何にもなれずに増殖し続けるものであると。まるで、自分探しをしている永遠の旅人、時間が止まった細胞、何にもなりきれずに、どんどん増殖して癌細胞になってしまうものであると、確かに、山中教授によれば、時間を遡って、遺伝子操作を通じて、巻き戻しした結果、ips細胞が、発見されたと云っていたことを想起する。ES細胞、ips細胞と癌細胞は、ある種似ていて、癌細胞は、何でもなり得るはずの状態に戻ってしまって増え続けるし、ES細胞、ips細胞はこれから何ものかになる訳であるけれども、なりきれずに増え続ける。両方とも、ある時点で立ち止まって足踏みをしている「自分探しの細胞」であると。なかなか、面白い比喩であるが、、、、、、。 空目の例えから、科学者は、観たいものを選択的に観るというところから免れることは出来ないのではないか?客観的現象が出てくるのではなくて、自身を丸ごと対象に投影して、自分を通じて、自然現象を捉えているのではないか?と。映し鏡や、自己投影ではないか? 原因が結果を生み出す「因果関係」ではなくて、絶えず、逆転して、相補関係にあって、どちらが先かは、特定できない、そういう「共時的関係」があるから、動的平衡が維持されるのではないかと。 どこかに、「神の摂理」はあるのか?常に、「原因と結果を結ぶ通路があるはずである」と、思いがちであるが、しかし、因果律は存在しないのではないか?と。もっと、「多元的である」と。何かを選び取ることは、並行する別の可能性をすべて壊さないと選び取ることはできないとも。本当の因果律は、存在しないのではないか?と。すべてが同時的に並行であること、これが、本当の自由であると。しかし、人間は、自由が怖いのではないか?と。 効率と時間は、常に、「分母が時間」で、割り算した結果、動的平衡ダイナミックな運動の中で、全体としてバランスが保たれている状態であるのに、「効率」とは、正反対の概念である。騙し騙しやることが出来なくなってしまった現代、白黒をつけたがる、「安易な効率化」が横行していると警鐘を鳴らす。遺伝子の基本姿勢は何かを厳密に定めているというよりも、むしろ、「自由度や過剰性」を担保している。ダーウィニズムが考えてこなかった「生物の自由さ」の問題があり、進化論だけでは全てが、読み解けないとも。ダーウィニズムでは、「退化」を説明できない、機能が無くなることで、逆に、有利になる状態でなければ無くならないのでは?。生物を顕微鏡で覗いていたりすると、「そうに違いないと考えていたことが、実は、全然、そうなっていないということ」の方が一杯あると。大切なのは、そういう感覚が持てるか持てないかである。電子顕微鏡を覗いている経験から、「見えるもの」は、実は、「本当は見えないもの」であると。この辺は、分子生物学者の実証的な経験から導き出されてきているようであるが、興味深いモノがある。まるで、哲学的な禅問答のようであるが、、、、、。更に、対話はどんどん進む。 「記憶とは、何か?」瞬間瞬間で新たに作られているもので、必ずしも、蓄積されていたものが蘇るものではないと、電気信号は、流れるとすぐに消えてしまう。生命にとって、「情報」は、消えることに意味があり、「すぐ忘れて消える」ことに意味があって、いつまでも変わらずに、残っていては情報にならないのである。生きていることは現象であり、常に動く機能であって、自己同一性を担保しているものは何もなく、人間の精神作用として、時間に錨をつけてどこかにつなぎとめておきたいと思うらしい。字に書いたり、記憶にとどめて整理しておこうとするのは、生命が瞬間的な現象であることに抗っているのであると。一時の流れを「点」にして捉え、ある時期に、名前をつけて、言葉の意味を地層として重ねて考えるのが人間である。画家でも天文学者でも数学者でも、この世には、目には見えないけれど美しい構造が存在していると信じる人がいて、その構造を記述可能なものにしたいという強い欲望があると思われる。瞬間的にどこかへ消えてしまうものを記述したい。フェルメールは、移ろいゆく光をとどめたいと願っていたと、確かに、著者は、フェルメールの作品に関しても著作があるのは、面白い。「美しさ」というものは、そこに客観的にあるのではなくて、動的なものをみたときに、自分の内部に立ち上がる作用として現れるものであろう。小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさというようなものがあるのではない。」という譬え話も、、、出てきて、分子生物学者の観点から読み解くとは、実に、面白いではないか?小林秀雄も、ビックリではないだろうか?。 生命現象の最大の特徴は、細胞一つ一つは全体のマップを持っていないのに、相互補完、関係し合いながら、分化を進めて、全体としてはある秩序を作ってしまうことである。「生命」は、その意味で、マップ・ヘイター、地図嫌いであり、鳥瞰的に設計されたものではなくて臨機応変に関係性を頼りに発生してきたものであると。偶然性と必然性、因果論による歴史観への疑問までも呈する。 「形態と意識」の関係、「秩序と時間」の関係、生科学はもっと絶え間のない動態のはずで、一瞬たりとも同じことは起こらないし、一回切りであり、時間を止めて見てしまう。人間の意識は、止まっているものしか、扱えないと。「情報とは、止まっている」ということを人は意識していない。 ものごとは、動的状態が本質であるとは考えられず、情報の方が本質的であると考えるのは、全てを言葉で表現しようとするプラトニズムであろうと。言葉が重すぎる時代になってしまったのではないかとも、、、、、。 あるときに一瞬に平衡状態をとるが、それがその時々の意識や注意と言うものなのかも知れないと。動的平衡が成立したときの機能こそが「秩序」であるのではないかと。意識は止まったものしか、見えない。情報は止まったものの典型である。時間を止めて秩序をみて、効率よく動く方に組み換えることが有利だとされていると。確かに、時間よ止まれ!と歌詞にも出てくるが、、、、、、。 この本には、確かに、こういう「動的平衡」という概念を、切り口にして、色々な事象を改めて見直すという面白さがあるように感じられる。山の景色も、里山の原風景も、植物や昆虫も、人間関係ですら、様々な事柄を、こういう視点から観るのも、良いかもしれない、、、、、、、。ダンゴムシですら、今度、観るときは、別の視点で、眺められそうである。一寸、人生、視点が変わって面白そうである。別の地平が、見えてきそうで愉しみであろうと思われるが、、、、、、、。