小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

樹を見る:

樹を見る:

「木を見て、森を見ず」とは、よく言われることであるが、実際、一本の樹木それ自体をてっぺんから、幹の根元まで、なかなか、眺められるモノではない。ということは、実際、この木というモノは、所詮、枝葉末節的な樹の一部なのであろうか?秋から冬にかけて、落葉樹の葉が、落ち始めると、今まで見えていなかった巨木が、とりわけ、赤松の針葉樹林が、その姿を一本丸ごと、晒し始める。しかしながら、春先から、初夏に掛けては、逆に、今度は、その姿をまるで、「真理」が、何かの影に隠れてしまって見えないかの如く、その全体像が、見えなくなってしまうのは、何とも、面白いものである。一体全体、どうしたものだろうか?たしか、陶淵明漢詩に、「東園の青松」というものがあったが、要するに、夏場には、ツタや蔓で、その松の姿は、見えなくなってしまうが、ひとたび、寒気に、触れると、青い松が、堂々と、姿を現すという風な意味合いで、逆境にあっても、いつの日か、順境な時が訪れるから、それまで、心して、待機せよという今のサラリーマンにも通じるような漢詩であるが、成る程、ベランダから、景色を眺めていると、「樹を見る」ことは、何とも、贅沢なことのようにも、思われる。都会では、現役の頃には、全く、公園にでも行かない限り、丸丸一本の銀杏の樹などは、上から下まで、眺められないものである。今は、広葉樹の淡い薄緑色の新緑の葉と枝に、蔽われてしまって、姿を隠してしまったが、当分は、この柔らかい緑溢れる樹海を森に抱かれるように、包まれて、楽しむことにしよう。