小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

泡沫候補の底流:

泡沫候補の底流:

バーニー・サンダースやドナルド・トランプが、予備選挙の前に、これ程までに、善戦するとは、ワシントンの政治プロ達の中で、一体、誰が、的確に予想しえたのであろうか?それにしても、以前から、we are 99%というスローガンや、Occupy Wall street などのムーブメントを、政治のプロと称する者達は、どれ程、看過してきたことだろうか?今になって、自分が、誇れるものは、唯一、人種的なWhiteだけであることに気が付いてしまったPoor Whiteは、一体、どのようにして、American Dream を実現させ、Great America を復活させることが可能なのであろうか?又、没落の一途を辿っている中間層のこれ以上の没落を、どのようにして、食い止めるに足るような政策を打ち出せるのであろうか?日本でも、問題になっている学生への奨学金制度の貸し付けや返済の問題でも、社会に出る前から、10万ドルに近いローンを背負って、スタートしなければならない『ハンディキャップ・レース』に、本当に、『公平性と平等性』が、 何処に存在するのであろうか?民主主義というものは、今や、大衆の声なき声を、吸い上げて不満を解消するというシステムではなく、むしろ、大衆の漠然とした『不安や不満』を、ある種の過激なスローガンの下で、扇情的に、爆発させてしまうような状態に、陥ってしまっているのであろうか?欧州でみられたような極右勢力の国政への進出を懸念されるが故に、選挙民は、ある種の政治的な『バランス感覚』から、一定の勢力の拮抗を、一時的に、立ち止まりながら、選択したようであるが、米国では、どうやら、それが、未だ、機能しえずに、現在進行形の勢いであるようである。圧倒的な楽勝を予想されていたヒラリー・クリントンですら、これらの一連の流れには、抗えずに、中国バッシングや、日本の為替政策にも、言及し始めている。何か、まるで、日露戦争終結前夜の異常な身の程知らずな過大な要求に、似ていて、空恐ろしくすら感じられる。期待された、オバマの熱狂的な『change』も、今や、『revolution』や、『移民排斥』という掛け声の前には、何を言っても、今となっては、すべてに、遅きに失したようなものなのであろうか?翻って、国内に目を転じれば、コップの中での嵐に明け暮れて、党名変更だの、理念だとか、今更の如く、野合紛いの小異の争いの真っ最中である。米国では、それが、好ましいかどうかは、分からぬが、左右で、極端であっても、ある種のうねりが起きつつあるものの、我が国では、一向に、うねりは、起きる気配がないのは、どうしたことなのであろうか?今日は、考えてみれば、80年前に、2.26事件が起こった日である。