小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

ちあきなおみ 歌謡ポップスを唄うを聴く:

ちあきなおみ 歌謡ポップスを唄うを聴く: 例によって、たまたま、スーパーの台車に置かれたCDでポイントを稼ごうという不純な動機による購入である。カバー曲というものは、だいたい、その歌手の有する歌唱力と独自の世界観がない限り、元の曲を凌駕することはなく、逆説的に言えば、その歌手同士の互いの力と力とが、ぶつかり合う「格闘技」のような真剣勝負そのもので、聴く側にとっては、カバー曲を唄う歌手の側が、仮に、優っているような場合には、何か、その歌手の新しい世界観が開けて見えたかのような悦びがそこには感じられる。もっとも、ガッカリさせられる場合も、多いけれども、、、、。ちあきなおみには、愛する夫を失った事をきっかけにして、若くして、完全に引退してしまったという一種の「滅びの美学」、「未完の美学」のようなものが、いつもついて回る。それは、丁度、若くして夭逝してしまった若い画家が、まるで、その遺された作品を通じて、あるべきであったであろう未完の作品を我々が、勝手に想像させられるようなものでもあろうか?「喝采」とか、「四つのお願い」とかくらいしか、曲名は、よく知らないが、ちあきなおみという歌手には、そんな曰く因縁と一種の美学がまとわりついているように思われてならない。だからこそ、その決して唄われることがないであろう、その歌唱力を、カバー曲というかりそめの形で、勝手に、想像してしまうのである。歌謡曲というものは、もう一つ、歌手だけではなくて、私の場合には、どちらかというと、作詞家、作曲家、編曲者の類で、歌手のカバー曲も評価してしまうものである。このCDにも、中村泰士橋本淳筒美京平森岡賢一郎なかにし礼川口真、鈴木邦彦、安井かずみ阿久悠、戸倉俊一、などの曲目が、盛られている。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」「あなたならどうする」、もよろしいが、低い声の調べも多いに宜しいではないか!、弘田枝美子の「人形の家」は、落着いて、丁寧に歌いあげて抜群である。黛ジュンの「雲にのりたい」も、その世界観が滲み出ていて、別の曲の様である。布施明の「積み木の部屋」も、高音も宜しいが、低音で歌われるのも又、よし、「わたしだけのもの」、高橋真梨子の「五番街のマリー」、小山明子の「あなた」、奥村チヨの「恋の奴隷」、辺見マリの「経験」等も、ちあきなおみという歌手の世界観がそのカバー曲いずれにもおおいに溢れ出ているようである。結局、すべての曲が宜しいではないか?年寄りには、やはり、ゆったりとした落ちついた曲が、心にしみ込むようである。噛めば噛むほど味が出てくるスルメのように、聞けば聞くほど、味わいが深まるようなそんなCDである。不純な購買動機の割には、まるで、お買い得をしたような感じである。生で、もう聴かれないのは、残念な限りである。