小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

ピケティーに考える:

ピケティーに考える:

目の具合が、衰えてきたから、随分と読書量が減少してしまい、700頁もあるような今話題の大著を読むのは諦めて、( http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2015-01-16#more 友人のブログ 海神日和1月16日付け、一寸長いが参考にしてみて下さい)に掲載されていた内容やダイジェスト版で、済ませることにしてみたが、今日的な課題としては、なかなか、「格差」というキーワードでは、興味深い、面白い内容である。但し、純粋な新しい経済理論として読み解くと、未だ、問題がありそうである。経済学、或いは、人文科学、社会科学でも、その学問の目的とは、本来、「社会を豊かにして、貧困をなくすこと」というのが、大命題だとすれば、それは、これまでの歴史的な過去の進化を「後付け」という形で、理論付けすることではあっても、その普遍的な理論で、必ずしも、未来を俯瞰出来得ているモノでないことは、経済学のみならず、同じ自己矛盾とその相克は、政治学でも哲学でも、歴史学でも社会学・心理学の分野でも、(地震予知額ですら)同様に、云えるのかも知れない。確かに、歴史を振り返ってみるときにも、大河ドラマを見るときにも、何も、その歴史的な事実を確認するためではなくて、常に、例えば、吉田松陰という、その人物の生身の過ごした歴史を通じて、「自分がどのように生きるべきか」を考えることに、主眼が置かれ、未来をどう生きるかを考えることである訳で、単なる現状分析や検証ではないはずである。それでは、経済理論・経済学という分野でも、そうなのであろうか?その意味で、著者が、提起している税務データによる実証的な分析手法に基づくやり方も、これまでのミクロ経済学マクロ経済学計量経済学、実証経済学(無作為比較対照手法の実験経済学や経済心理を研究する行動経済学)という分野で、或いは、今日的な労働価値学説や限界労働力説や利潤定義(絶対・相対・追加余剰利潤)のなかで、どのように、位置づけられるのであろうか?

その意味では、三段論法である、著者の主張する、(1).経済低成長gと高貯蓄率sで資本/所得比βが、増加する (2).資本収益率rは、さほど下がらず、資本所得のシェアーαが増加する (3).資本収益率rが、今後維持されると、資本/所得比βが増加して、資本所得のシェアーαが、上昇し、富の格差が広がる、所謂、資本収益率r>経済成長gというパラメーターである。この不等式は、「常に」、そうなのか、それとも、常にではないのか?

言葉の定義を、初めから、理解していないと、どうやら、迷宮に入り込みそうになる。

「富」とは、「資産」なのであろうか?そうであれば、資産とは、「所得+非相続財産+動産+不動産+負債+その他」というモノなのであろうか?更に云えば、個人の資産と国家の資産、それ以上に、その境すら、今日、曖昧になり、明確な線引きが難しくなりつつある。個人の有する資産は、膨大であっても、その国の政府は、巨額な債務に陥り、中国のように、シャドウー・バンキングではないが、どれ程の含み損が、眼に見えない形での不良資産が存在しているのかも、分からないのが現実で、その一方で、そうした富裕層の使用する買い物のお金が国際的に、廻ることで、他国が潤うようなこうした矛盾した構図など、リーマン・ショックでも起こらなければ、結局誰かが、ババ抜きではないが、見えない形での不良債権というジョーカーが、次から次へと回り続けることになる。それは、先進国だけのことではなくて、むしろ、発展途上国でも顕著に、生じている事象でもあろうが、、、、、。話を戻そう、では、「所得」とは、何か?労働者の場合には、といっても、今日では、労働者であっても、必ずしも、労働所得だけからなる訳でもないが、これを労働者と云わなくて、資本家というわけにも行かぬが、、、、、、、。まぁ、株などの金融資産や相続によって、継承した不動産を持っているサラリーマンや、ワンルーム・マンションを所有している者も含めるかどうかは、別にしても、(混合)「所得」とは、「労働所得+金融所得(貯金・債券・株式)+非相続財産+動産+不動産+負債+その他(△減価償却・各種社会保険・税額控除他)」とでもなるのであろうか?むろん収入ではないことは、もちろんである。誤解を怖れずに、云ってしまうと生まれたときから死ぬまで、一生、労働所得だけでは、(もっとも、公務員は別なのかもしれないが)労働分配率が、向上しない限り、或いは、経済成長率が、増加しない限り、明らかに、一生、増加することはないことが分かろう。しかも、経済成長率の低減と人口減少・労働人口の高齢化・減少化により、労働所得は増加することなく、資産が増加しているという現実があると。だから、資本収益率r>経済成長率gにより、格差が拡大すると、、、、、、。しかも、「資本収益率rが、その分配率を決定する」から、所得が、どのように、資本と労働に分配されるかというと、必ず、成長や総枠のパイが拡大しない限り、労働所得が増加することはないと云うことになる。成る程、確かに、カルロス・ゴーンのような超高給経営者の過剰なまでの報酬は、お手盛りの成功報酬を大きく超えたところのなせるもので、決して、賃金格差が教育や技術レベルや専門性から生ずるモノではないことが、納得されようか。又、純粋な意味での個人独自の起業成功者という例では、我々は、残念乍ら、騙されているようである。その率たるや、僅かなものであることに驚く。こうなると、もはや、今日、年功序列が崩れてしまった以上、黙って、加齢による賃金上昇や富の蓄積は、合理的な説明は出来ないのであろう。今や、一億、総ミセス・ワタナベ化するか、不労所得社会へ、個人事業主や小さな会社経営者へ移行する以外に、生き残る途はないのであろうか?或いは、資産家の家に生まれるか、アゲマンにでもなるしか手はないのであろうか?

「格差」の広がるメカニズムは、こうした原因であるのか?

そもそも、3つの格差(所得格差、所有格差から生まれる格差、そして、労働所得+資産格差の合計から生まれるところの総合所得という格差)の中身とは何なのか?果たして、富とは何であり、富と所得の格差は、経済メカニズムの中で、ある一定程度、生じるものであるもの、何らかの「民主主義的な政策的な調整」で、ミニマイズ可能なのであろうか?さすれば、政治的に、或いは、民主主義による政策による制御可能という理屈も成り立つであろうが、どっこい、合衆国の成立という歴史的な史実からも、そうはいかないことは分かろう。政治的にどんなに、理念としての「自由・平等」を掲げたとしても、実態経済の基礎は、奴隷制と先住民からの土地・労働力の収奪という現実がある以上、、、、、、、。その意味では、マルクスの「労働価値学説」に対抗するような根本的な、今日的にも普遍的な理論的な仮説を期待したくもなるが、「21世紀の資本論」(資本ではなくて)とも云われて然る出来である割には、残念乍ら、今日、複雑化してきている「富」・「資本」の内容の分析や、グローバルな「金融資産」や、眼に見えない「負債」、含み資産・含み損なども含めて、より、理論的な分析が欲しいところである。

経済成長の基本的な要因とは?そもそも、金融資本とか、眼に見えない形で、数式が組み込まれたデリバティブのような、或いは、米国住宅サブ・プライム・ローンのような巧妙な金融工学による数式という罠が隠された金融消費などは、一体、どのように位置づけられているのか?さりながら、格差拡大への処方箋としての「グローバル資本課税」「国境を超えた形での税務内容の把握や国際的な協調機関での連携」とか、或いは、「累進課税の強化」、「相続税や生前贈与」に対する国際的な考察と分析は、おおいに、評価されて然るべきであろう。19世紀以降の産業革命から、主たる資本であった農地が、やがて、技術革新と分業などにより、生産規模や生産性が拡大するにつれて、自由市場・市場経済圏が拡大し、資本蓄積がなされるに従い、産業資本から、金融資産へと或いは、不動産資本・不動産資産へと変貌していく資本の内実、それも、これまでの海外植民地資産とか云う形ではなくて、簡単に、国境を超えてしまったグローバルな拡がりと、その裏にある国際的な通貨・為替政策・金融政策・国際的な関税撤廃による通商貿易枠組みなどが複雑に、グローバルの中で、各国家利害とも対立と協調を孕みながら、変貌を遂げてきているわけである。実物資本の収益の低下とは必ずしも無関係とは言い切れないながらも、金融商品を含めた複雑化してしまった「非実物資本への金融的なアプローチと分析」は、もう少し、あって然るべきであったかもしれないが、今後に、期待するところであろうか?ケインズ以降、確かに、不況の際には、経済政策としての社会資本の拡充や金融緩和政策、公共インフラ投資政策とか、2回の世界大戦を挟んで、累進課税強化や公共財産の民営化も含めて、富の分散や再配分が行われたのであろうが、資本主義が、富の不公正を生み出し、本質的にその内包する金融危機が、やがて、世界恐慌、革命へと繋がるという理論も、(況んや、社会主義社会でも、富の平等な再分配は、全く、非現実であることが分かってしまった以上、)何らかの自由主義一辺倒ではなくて、「ある程度の規制と是正政策」が、一定程度の経済における民主主義制度というものが、やはり、必要であると云うコンセンサスは、今日、世界中から、そういう声が上がっていることは確かであろう。同時に、格差というものと「貧困」、「再分配方法論」に関しても、社会政策論の観点から、詳しく、分析・論じられるべきものなのかも知れない。本当に、そんな「国際的な規模での金融と経済の透明性」というものが、成し遂げられるのであろうかとも思われるが、、、、シャンパン・グラスに上から、順番に、シャンパンを注いでゆく方法が正しいのか?黒い猫も、ネズミを捕獲すれば、それで良いのか?最初に、豊かになれるものは、先に、豊になってからで、果たして良いのかなど、「別の価値観」がでてこよう。さすれば、経済学に、「分配論」という「価値観」を入れて論じることに普遍的な経済学理論の確立が可能なのであろうか?確かに、生産活動の成果である生産物が、「所得」という形を経由して、労働・資本・土地などにどのように分配されるかを明かにすることは経済学の主要な課題の一つである「分配理論」では、そうかも知れないが、政治的なスタンスとして、判断・利用されかねないのでないだろうか、そんな危険性はないのであろうか?だからこそ、今日、「格差」というキーワードに飛びつくように、純粋経済理論として論じられるよりも、中道左派の経済政策として、脚光を浴びてしまうことになりはしないのか?もう一度、スミスの労働価値説や、リカードの投下労働価値説や、マルクスの余剰労働価値説や、限界効用理論などを、再考・再構築し直さないと、今日、複雑化してゆく世界を読み解こうとしたら、資本や労働を改めて見直してみないと分からないのかも知れない。「格差」という一点から見る限りには、確かに、面白い、興味深いことではあろうが、純粋経済理論から見た時には、それは、本当に経済理論から読み解かれた結論であり、且つ、正しい分析であると云えるのであろうか?そこには、何か、分配論という「価値判断」が働いてはいないのであろうか?

では、成長の要因と阻害要因とは何なのであろうか?

産業革命が果たした役割の中で、技術開発、労働人口の増加と拡大、労働生産性の向上と購買力の向上、植民地経済、自由市場経済の創出など、但し、これは、19世紀から、20世紀初頭にかけては、その構図も納得が行くが、2回に亘る大戦を経て、今日、如何に、大きな戦争が出来得ないほど、互いの国家間でのグローバルな経済関係が緊密化してしまい、軍事的な紛争はあっても、大きな戦争にまでは、至らない、或いは、させないような制御システムが、(東ウクライナやISILやボコハラムをどう見るかは別にしても)一定程度、機能している以上、又、インフレによる公的な負債の低減と、緊縮財政政策やデフレ状況からの脱出を目指すところの中央銀行機能の強化と総量規制の緩和策、或いは、国際的な通商政策や通貨・為替施策の必要性が、不可欠な要因となろうが、必ずしも、決して、どれをとっても、安定的なものばかりとは云えないのが現実である。財政の健全化議論も労働人口減も移民議論も福祉国家構想も、子育て政策も成長戦略も日本では、どのように、位置づけられるのか?

格差の拡大阻止に向けての処方箋で、興味深いことは、グローバルな租税回避、タックス・ヘブンへの国際的な監視強化と累進課税政策や、相続資産課税強化や世代に関する生前贈与に関する考察であろうか。所得の中に占める金融所得や資本所得の大半は、実は、相続による者が大半であると云う仮説の衝撃である。遺産の相続と教育・住宅に対する生前贈与が、キーだそうである。圧倒的に、今日、こんなゼロ金利に近い状況の中で、貯蓄による増加は期待できず、それよりも、富は、相続によって、平均余命が延長されても、高齢者の心理マインドは、変わらず、むしろ、世代を飛び越えた形で、相続や贈与という形で、富の継承が行われる可能性があるというものである。アベノミクスでも、こうした文脈の流れで、眺めてみると、相続税の3000万円への引き下げや贈与の住宅や教育への非課税枠の増加も、理解されなくはない。こうしてみてくると、これまでのストックたる資産とフローである所得という図式も、どのように、考えたら良いのであろうか?

最後に、技術移転という課題であるが、産業革命に果たした新たな技術革新と云うものは、一定程度の説得力はあるものの、必ずしも、その技術移転が富の公正な分散と拡散を、先進国から、発展途上国へ行われたかといえば、その産業分野毎で、必ずしも、そうとも云えないのが現状である。むろん、その為の教育の整備・機会均等とか、インフラの整備援助などは、必要不可欠ではあるが、それにも増して、r>gの図式の中で、機械化との競合・競争がより、r>gを高く維持するのか?言い換えれば、資本が労働をどんどん代替・弾力化してゆき、終いには、自動車産業半導体製造業などにみられるようなIT化やロボットによる完全無人化生産などにより、労働への分配は、ますます、低減していってしまいかねないのか?とすれば、産業や仕事自体も、これからの労働者は、考えて選択しないととんでもないことになるのであろうか?完全ロボット化を可能にする機会のソフトの設計とか、限りなく、付加価値をつけられるような仕事なのか、それとも、限りなく人に接する末端の仕事か、それとも、そういう人を管理する仕事(といえば、体裁が宜しいが)、職業に貴賤はないという理念は、理念としては、正しいのであろうが、実際、r>gの現実の図式の中で、考えたときには、果たして、その通りなのであろうか?しかも、限りなく、それは、使われる身だけでは、一生、富の再分配という恩恵を決して受けることのない身を引き受けるという選択になるのであろうか?一億総非正規労働者か、将又、一億総個人事業主になるか、ミセス・ワタナベにでもならない限り、時代に取り除かれてしまうことになるのか?それとも、幸福の価値観が違うという世界を選択するのか?どちらかになってしまうのであろうか?

どうも、ひとつ、読み解くうちに、納得のゆかないことがある。それは、「実証経済データ」という奴である。例えば、今日、これだけ、グローバル化が進行してしまうと、あらゆる輸出統計も輸入統計も、単純な一国主義だけのデータだけでは解明できない「ある種の数字」が、そこには、隠されているのではないかと、私などは、疑ってしまう。それ程、今日、この問題は、単純ではなさそうである。例えば、純粋に、日本からの輸出が少ないと云っても、大森辺りの町工場で、純粋に、すべて、国産の原料で、国産加工で、国内から単純に、どれ程の製品が輸出されているのであろうか?原材料自身が、コスト・ブレイクダウンしてみたら、エネルギー・コストから、輸送費・人件費・梱包費・原材料費など、どんな基準で、しかも、それが、円で仮に換算されても、その時の為替通貨で、大きく、ドル・ベースでは、異なるであろうし、その変数は、外国通貨に、換算したときには、もっと大きな相当な差異が、生じることは、大企業の利益が、為替レートが一円違えば、数十億円の違いにもなることからも、理解出来よう。ましてや、三国間貿易どころか、今日では、急激な円高対策として、国外工場を建設して、そこから、部品を輸入して、加工したり、第三国で、アッセンブルしたりして、再び、再輸出したり、輸入したりと、ますまず、複雑化していて、それが、自社内の海外子会社間で行われても、決して、日本国内の数字にはならずに、関税・貿易統計上は、他国の数字となっている以上、一体、何処までが、日本独自の数字で、何処から先が、海外の数字になるのか?この中には、当然、土地代金・エネルギーコスト・労働工賃・輸送費・もっと広く云えば、現地インフラ費用も含めて、どのように、資本・労働という形で、ブレイクダウンできるのであろうか?ましてや、国際通貨の為替レートも含めたら、一体全体、どのように、実証データですら、分析可能なのであろうか?所謂、含み利益とか、含み損も、そうであろうし、目に見えない負債、Invisible Debts やサブプライムローンに隠された巧妙な負債の数式化によって組み込まれた金融商品など、一体、統計的に、どのように、分析されているのであろうか?今日、本当に経済学では、そんなことも含めて、所謂、実証データという形で、解析されているのであろうか?ましてや、貿易収支だけではなくて、資本・金融収支やら配当やらに至ると、それも、これも、為替次第で、大幅に、数字が異なってしまうのではないかとも思われるが、そういう国毎の数字データに潜んでいる数字のマジックは、どのように反映されているのであろうか?

更に、通商交渉や多国間貿易交渉による相互関税の撤廃とか、法人税の減税や、関税収入などの税収の減少の中で、発展途上国国営企業の財務や負債の透明化など、まるで、世界的な規模でのグローバル・ババ抜きゲームの様相を呈している以上、(個人的な体験では、東南アジアの箪笥預金や海外送金の額たるや、中途半端な数字ではなく、実際、世界銀行などの統計数字などは、全く当てにならず、本来は、実体経済に、こうした地下経済に潜む資本が、突然、経済の自由化と同時に、浮上してきたのも事実である。こういう数字は、一体全体、統計実証データの中に何処に位置しているのであろうか?)一体、ピケティーの「21世紀の資本」を読み解く世界観の中で、個々人は、如何にして、生き抜き、どのようにしたら、少なくとも、多少の「富の再分配」に預かることが可能なのであろうか?それとも、それは、幸福度の価値判断が異なるという別次元・別世界の選択肢しか、単純に労働所得しか稼げない者には、残っていないのであろうか?何とも、考えさせられてしまう。何事も、後付けの解説理論付けなのであろうか?まるで、地震学者の近未来の大地震発生予測学問というよりも、たちが悪かろう、40年も経過しても、為替相場の予測理論も、株式相場の理論も、況んや経済理論をやであろうか?こちらには、そんなに、時間が残されていないから、守りでも宜しいが、前途有望な若い人は、多いに、真剣に考えなければならないであろう。純粋経済理論とは、一体、何のために役立てられるのであろうか?ババを引き抜かないためなのであろうか?