小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

ビット・コインに考える、通貨とは?:

 

ビット・コインに考える、通貨とは?:

 

ITセキュリティ・ホールという脆弱性の故に、一瞬にしてかどうかは分からぬか、その説明によれば、数十億円規模の資金が、(一説によれば、百億円を越えるとも云われている)何者かにより、詐取され、従って、民事再生法の申請を突然に、ビット・コインの大手の取引所が、申請したという。何とも不可解な事件である。仮想ネット通貨と喧伝されたビット・コインも、所詮は、最期には、現実世界の厳しい掟からは、超然としていられなかった訳なのであろうか?それにしても、この説明だけは、何が何だかよく了解出来ないことも事実であろう。まぁ、直接関係ないと云えば、これをやっていない人間にとっては、被害も、損得も関係ないわけであるものの、考えてみれば、そこには、改めて、「通貨」とは、「国家権力」とは、一体、何なのかという現実を改めて、考えさせられるものがあろう。この得体の知れない言葉上での、「仮想ネット上での通貨」という言葉自体が、何とも、怪しげなもの、或いは、錯覚を起こさせる要素があることは、誰もが、了解はしていよう。もっとも、仮想と云っても、現実的には、ギリシャ金融危機に際して、驚いたことに、信用取り付けの騒ぎの火中に、全財産を、現実通貨、ハード・カレンシーを、ビット・コインに変換したというニュースを聞いたことがあったが、一体、この人は、投機で、無事に、売り逃げできたのであろうか?それとも、全財産をすってしまって、一文無しに、陥ってしまったのであろうか?そんな下らぬ憶測を、勝手にしてみたが、、、、、、。そこには、通貨に裏打ちされた「信用」という現実世界の厳しい「現実」があることを、思い知らされる。そして、何よりも、通貨の発行権限というものは、現実的に、国家による中央銀行というものが、唯一、発行できるものであって、実に当たり前なことであるが、電子マネーも、株式などの証券も、一企業が、発行するものなのであることは、どこかで、忘れがちである。しかも、金本位制の時代ならいざ知らず、それでも、依然として、金に替えられるということから、ハード・カレンシーと言われる所以なのであることも、実際、忘れがちであろう。戦時国債を後生大事に、守り抜いていても、戦後には、結局、紙くず同然になってしまったように、国家の帰趨と信用の如何によっては、結局、現実世界では、一種の暴力装置である国家権力の別の側面である「通貨管理」は、成る程、国家の帰趨に関わることになり、逆説的に言えば、ビット・コインのそもそもの理想主義的な思惑は、その初めから、国家主権と対立・侵害するものであり、穿った見方をすれば、「いつか、破綻するとは、思っていた」という麻生発言に、端的に、言い表されているのかも知れない。依然として、インターネット同様、問題があろうが、矛盾を孕んでいようが、長期的には、こうした流れは、国境を超えて、更に、拡がるであろうというオプティミスティックな将来への「進化論」を唱える専門家がいるが、門外漢の私には、どうなるのかは、判別不能である。しかしながら、一つだけ、今回の事件から、学ばせてもらったモノは、少なくとも、基軸通貨とは、一体、どういうことを意味し、又、国家とは、通貨の信用、そのものであることが、改めて、浮き彫りにされたことであろうか?それにしても、詐取された現実世界のカネは、何処の空間に消え合ってしまったのであろうか?今後の詳細な調査・報道が、望まれよう。