小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

E -TV特集、田中泯「人を動かす絵、ベーコンを踊る」:

 

E -TV特集、田中泯「人を動かす絵、ベーコンを踊る」:

 

絵画を鑑賞するとき、シュルレアリズムの絵画ほど、厄介なモノはないであろう。一体、何を描いたものなのかを分かろうと努力すればする程、迷路に舞い込んでしまうものである。前衛舞踏家の田中泯が、フランシスコ・ベーコンのアイルランド生家やロンドンのソーホーのパブを実際に、訪ね歩いて、その絵に触れて、感じ取った何ものかを、日本での美術展の開催に伴って、その絵の前に、踊るという映像である。ほとんど、絶滅危惧種と化してしまったテレビ番組の中でも、これは、なかなか、秀逸なものである。今後ともに、期待したいところである。それはさておき、何を描いたかを考えるのではなくて、画家自身が何を描こうとしていたのか、或いは、どうしても、描かねばならなかったそのもの、その衝動を考えなければ、否、考えるのではなくて、田中に云わせれば、「感じなければ」ならないそうである。感じると、自ずから、身体の中から、それが、「動き」となって、表現されてくるものであると、、、、、、、。「感じる」とは、形にならない何ものか、眼には見えない何か、粒子みたいなもの(まさか、ヒックス粒子ではあるまいが???)、それを、見える形に、その肉体を通じて、形として、表現するものが、「今回の舞踏作品:献上」なのだそうである。それは、30年ほども前に、かの土方巽をして、田中に、ベーコンの人物画から、まるで、顔の肉が、骨から、落ちて行く様を表現しろと云われたときの衝撃にも、似たような原点であったのであろうか、デフォルメされた顔に、描かれた絵の中の人物の側に、どんどん、吸い込まれて云ってしまう自分自身があると云う。そして、その画家の筆のタッチの感覚、息吹が、自身で、踊っている中で、「感じられる」ようになってくると、、、、、、。人間を肉の塊として描くその画家の感性は、門外漢の私などには、美術評論家の謂う所の「存在論的な欲望」とか、「暴力性」とか、「イノセンス」と呼ばれても、今一、良く理解は出来ないが、人間性の中に内在するある種の隠された何かか、確かに、謂う所の「美しさ」と呼ばれる物が(やや、危険な臭いがしないでもない、三島由紀夫の美学とは若干異なるものの、底流では、似通った何かも感じざるを得ないが。それはさておき)その画家の衝動やインスピレーションの中に、宿っているのかも知れない。それを、又、舞踏という別の形で、表現してしまう田中の踊りも、これ又、驚くべきエネルギーを秘めた表現力としか云いようがない。どこに、そんなこの白髪の老人の中に、宿っているのであろうか?その画家は、決して、絵が何を語ろうとしているのか、何を描いているのかを語ろうとしなかったそうである。そえは、確かに、観る側へのある種の形而上学上での闘いの挑戦状のようなもので、自身の同性愛と飲酒も含めて、時代という怪物に、現実の日常生活の価値観とも、対立、拒否して初めて、成立するというきわどいタイト・ロープ上でのバランスだったのかも知れない。心的な「不安」やある種の「恐怖」、無意識に、生きた時代のリアリティーを捜すという衝動は、やはり、何処かへと導かれる3枚の扉とカットされた樹の枝の絵に象徴される「不死」や「生」への思いなのであろうか?画家は、その描かれている世界を遊ぶことすらも、観る側に許すことはなかったし、理解されようとも決して思わなかったのかも知れない。だからこそ、現実に戦慄して生きることに恐怖し、所詮、悲劇的な存在でしかない、まるで、肉の塊のようなものであり、悲劇に欲望する生き物なのであると結論づけてしまうことになったのであろうか?それにしても、人間の内面に宿る潜在的な「感受性」とは、すさまじいものであることに驚かざるを得ない。画家が描かざるを得なかったそんな衝動を、存在の痛みとして根ざす眼に見えない力を、自分の肉体を通して、表現するとは????「人を動かす絵」にも、驚かされるが、「絵を踊る舞踏家」にも、又、同じように、驚かされる。(音楽に合わせて、ダンスを踊ると云うことには、格別、驚かされないのは、何故であろうか?)AKB48のフォーチュン・クッキーの振り付けも真似できないような自分には、言葉を発することが出来ないくらいの右脳への電気的な衝撃である。たまには、目をつぶって、エアー舞踏を頭の中で踊ってみることにするか?寝るときに、目をつぶる以外に、あまり、目をつぶらないから、たまには、目をつぶってみることにするか?現役の人は、電車で、乗り過ごさないように、気を付けて下さいね。よろしく、