小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

ヘイト・スピーチと褒め殺し:

 

ヘイト・スピーチと褒め殺し:

 

元々、ヘイト・スピーチは、ドイツを中心にして、欧州各国で、台頭しつつあった反移民・民族排外主義や民族浄化主義者のネオ・ナチや極右勢力に対する一種の法的な抑制措置として、講じられてきた側面が強いが、今日、日本でも、良識ある声なき声に対峙する形で、一人勝ちの様相を呈しつつある極右勢力による行き過ぎた言葉の表現から、デモなどの行動にまで、発展してきたことは、確かに、司法の判断も、危機感を有している証拠であろう。人間の出自というものは、自分ではどうすることも出来ないものであり、これを持ってして、行き過ぎた民族排外主義的な行為は、断固として、許されるべきモノではない。もっとも、私達の記憶に従えば、つい先頃まで、街頭宣伝車による企業への執拗な「褒め殺し」が、繰り返し行われ、裏では、総会屋や闇の反社会的な勢力への手切れ金と称した総会屋対策費が合法的に、支払われてきてことを忘れてはならない。(もっとも、別の形で、今日でも、メガバンクと称する頭取ですら、知っていても、知らぬ顔で継続中であるが、、、、、)ある種、ヘイト・スピーチも、褒め殺しも、言葉を弄ぶことには、全く、変わりはないことは事実であろう。もっとも、そんなことで、法的に、損害賠償請求までも、裁判所から命じられるとは、まさか、主催者団体の代表は、及びもしなかったことであろうが、、、、、。「差別」と、それを逆手にもとられたかの如き「特権」という言葉のせめぎ合い、法の下での人間の「平等」、「権利」とは、現実と理想の狭間で、この矛盾の中でしか、現実には、生きることが出来ないのも事実であろう。一人一人の勇気ある「意思表示と行動」とが、言葉のまやかしと現実の矛盾を、克服してゆくことになろうか?「言葉を弄ぶ人間」は、所詮、「言葉に弄ばれる結果」に陥ることは、必至であろう。それにしても、法的な措置でしか、対抗できないことの方が、問題であろうが、、、、、、。