小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

「思索の土台は言語」におもう:

 

「思索の土台は言語」におもう:

 

「私的十二思考」というコラムの中で、作家であり、医師でもある、夏川草介氏がなかなか、面白いことを書いている。思索と言語とは、不可分な関係にあり、一寸、過激な物言いを許されれば、「分かってはいるが、うまく説明出来ない」ということは、「分かっていない」ことと同義で、「言語こそ第一なのだ。意は二の次である」とまで言い放った小林秀雄は、この事実を痛感していたからこそ、思索の達人たり得たと、、、、、、。「揺るぎない思索」の為には、「揺るぎない言語」が必要なのであるそうだ。その点、今日の英語教育は、日本語の有する固有の特徴である、最期まで読まないと、肯定なのか、否定なのかが判読し難い構文であり、英語のように、まずは、結論ありき、後に、何故ならば、、、、、というものとは、異なるわけで、ヘタをすれば、小さい頃から、英語教育に、染まってしまうと、思索力そのものを低下させてしまう恐れがあるかも知れないと、、、、、、、。若干、この点は、私的な経験から言わせて貰えれば、自分達の子供は、帰国子女であるが、小さい頃から、まずは、家庭で、徹底的に、日本語教育、とりわけ、絵本や、読書を通じて徹底的に、日本語教育を行い、家庭外では、英語での生活であったが、それ程、思索力が低下したようには、思えないが、、、、。いずれにせよ、どうやら、重要なことは、英語力を学んでも、古典を通じて、「揺るぎない日本語力の構築が不可欠」なようである。むろん、ビジネスの世界では、英語が、共通語であるものの、そこでも、やはり、思索は言語化されるものであり、それが前提の行為となり、換言すれば、「言語化されない思索は、あり得ない」と言うことも事実であるようである。社会人になってから、私は、英語を使い始めたわけであるが、もっと、英語教育と日本語教育とを早い時期からでも、勉強或いは、教えて貰っていたら、もっと、苦労しないで済んだであろうにとも、思われるが、英語教育を喧伝されればされる程、逆説的に謂えば、「日本語教育の弱体化」が、あらわになるのかも知れない。もっとも、現役引退後は、言語中枢を司る「左脳」よりも、音楽や踊りや絵画などの芸術系を司る「右脳」も、より重要であることを、再認識しているのが現状である。もっとも、この両方をバランス良く、どのように、子供の頃から、育成する教育をすすめる必要があるのだろうか?家庭でも、学校でも、地域社会でも、、、、、、、、。年取ってからでも、まだ、遅くはないであろうか?どうしたものであろうか?