小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

新しい形のデモの予兆

新しい形のデモの予兆
これまでの経験では、デモという示威行為は、公園に、主催団体が、結集させて、集会の後に、一斉に、街頭へ繰り出して、スクラムを組んで、ジグザグ・デモで、警官隊と衝突したりしたものであるが、今や、アラブの春に象徴されるように、フェースブックやツイッターや、果ては、ウェッブ・カメラで、実況生中継をしながら、その参加できなかった人々にも、参加の連帯を、実況生中継するという手法に、どうやら、変わりつつあるようである。昔の新宿西口地下広場での若かりし頃の反戦フォーク集会を想起させる。今や、政党の役割意義が薄れ、民意の汲み上げという機能それ自身が、脆弱化しつつある。これまでの市民運動とも異なり、ファミリー・デモでも、弱者や年寄りや、子持ちの主婦層も、サラリーマンも、仕事の帰りに、気軽に、結集でき、参加できるような新しい形のデモが、芽生え始めているように、思われる。反原発デモに、結集した人達の中には、相当数の女性や年寄りが、含まれていて、私を含めて、足許、不如意の人間には、今や、長時間、歩くことすら、無理であるが、新しい形態の民意の発信・表現の在り方を予兆するものがある。もっとも、これを自然発生的なものから、一定の成果へと結びつける政党ではなくて、昔のベ平連的なものや、国民会議などの横断的な組織が、個人の確固とした信念をベースに、ハイテク機器を活用しつつ、拡がりをみせることを望んで止まない。それにしても、既存メディアや既存政治組織は、相変わらず、旧態依然たる対応でしかない。今更、ジグザグ・デモも、肉体的に、出来ないので、声なき声を、如何に、反映させるか、1票だけの投票では、もはや難しいであろう。結構、白髪頭の年寄りも、数多く参加して、頑張っているのには、驚かされた。若い人も、是非、頑張って貰いたいものである。胸の奥底で、眠っていた血が、一寸、又、騒ぎ始めるのを、感じるのは、錯覚だろうか、、、、、。