小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

ローパーと労働力の流動化は?:

ローパーと労働力の流動化は?:

Low Performance のことを、ロー・パーと称するらしいことを知る。考えてみれば、右肩上がりの時には、何もしなくても、需要が多くて、購入人口も溢れていて、所得も毎年、右肩上がりに、増えてゆき、スチャラカでも、スイスイ、スーダララッと、世の中を極楽蜻蛉然として、生きてゆけたのに、今や、そんな生き方自体が、全く、許されるような時代ではなくなってしまった。労働生産性というか、労働の価値などと云うクライテリアというものは、いつの時代でも、一定の基準があるものでもないし、企業の経営判断の数値基準もそうであるのかもしれないが、売り上げ中心とか、そうではなくて、総利益なのか、それとも、総労働時間とか、或いは、利益を稼ぎ出す上での実質的な費やされた実労働時間なのか、そうであれば、裏方で、まるで、撒き餌のように、或いは、私的な時間も使って、仕事のために使われたような時間も含めると、一体、どんな時間と利益と、更に云えば、個人だけではなくて、チームで実施されるようなプロジェクト型の仕事など、チーム構成員の経験とか、技能とか、そういった要素や要因といったものは、どのように、トータルな中で、或いは、分業との相関関係において、評価されるのであろうか?もっとも、それは、逆説的に謂えば、つねにそれは、『評価をする側』の一方的な価値判断の下で、行われるもので、決して、客観的且つ、双方が満足するようなものではないことは、明らかである。それが、嫌だったら、フリーランスの独立自営か、創業して、一匹狼の起業家になるしか、残された途はないのかも知れない。いつも、日本型の『労働の流動性』が、叫ばれて、既に、久しいけれども、所詮、『個人的な労働の在り方の個性的な追求』という美名の下に、呈の良い『非正規』が、既に、労働人口の4割にも達してしまっただけなのかも知れない。所詮、流動性とは、雇い止めやら、或いは、人材会社による、呈の良い、『人員の合理化』を、自らが、手を染めることなく、或いは、無自覚なまでの罪の意識のない、きれい事の二重構造なのかも知れない。だからこそ、『再就職支援助成金』の要件を悪用したリストラや人員削減への提言は、当たり前と云えば、当たり前なのかも知れない。いつまでたっても、常に、被評価される側では、何を云っても、正当に評価される試しはないことであろう。ローパーではなくて、自らが、ハイパーになろうとしなければ、駄目であろうことは、今更、誰に云われるまでもなく、分かりきっている。