小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

老犬・老猫の介護:

老犬・老猫の介護:

何でも、最近では、ペットの介護が、親や兄弟などの介護よりも、話題になっているらしい。もっとも、かく言う私も、個人的には、両親の介護を、(もっとも、如何にも、自分が手を患わせたかの如き物言いであるが、実際には、女房殿が、その大半を担ったモノである。)足かけ、3年+4年の間、その間、介護保険が実施されたお陰で、随分と、助かったモノであるが、それでも、肉体的、精神的に、介護施設に、預けた訳ではなかったから、自宅で、介護の末、最期は、病院付属の施設で看取ったものである。そんなことあってか、我が老犬の場合には、私が、主として、その晩年には、なるべくすべての面倒をみるという約束で、一生懸命、介護にあたったモノである。随分と、その間、色々と、人生の終末医療に関して、我が愛犬から、学ばせてもらったモノである。口がきけなくても、我が愛犬から、その命を如何に全うするかという重い課題を、人生の教訓として、学ばせて貰ったことは、大変よい勉強であった。確かに、一人暮らしの老人であれば、そのペットの行く末は、とても、心配であろうし、又、人によっては、自分の老後のことよりも、ペットの老後のことが心配になってしまうと謂う逆転現象が、分からなくもない。散歩にも、一緒に行けず、面倒も、みられなくなると云う心配は、切実なモノであろう。災害によって、やむなく、ペットを手放さざるをえなくなったり、自分が年取ることで、手放さざるをえなくなるとか、事情は、様々ではあろうが、誠に、考えさせられてしまう。我が愛犬の場合には、元々、殺処分をされるところを三ヶ月の子犬で身受けして来たもので、何事も、最初から、決めこととして、自然の天命に任せるという大方針の下、18歳4ヶ月という誠に、長寿を全うしたモノであり、死に際も、誠に、私には、勉強になりました。亡くなる前、2年くらい前から、お漏らしと夜泣きが激しくなってきたので、オムツを当てて、庭先から、玄関内へと移して、家族みんなと一緒に、暮らすことになり、最期には、私の書斎で、一日中、一緒に、暮らし、最期には、私が、隣の部屋で、夜鳴きと徘徊に、対応したモノである。事前に、ネットなどで、老犬の異変を検索して、学習していたから、特に、驚くことは無かったし、覚悟もしていたから、冷静に対処できたが、それでも、目が見えなくなり、昼間から、居眠りを始めて、昼夜の違いが分からず、夜鳴きするようになると、流石に、夜中でも、起きてきて、安心するように、身体や顔を撫でてやると、一安心して、又、眠りに入るが、それも、数時間後には、今度は、オムツが濡れてびっしょりで、気持ちが悪いのか、オムツ替えという繰り返しである。まるで、赤ん坊であり、年寄りそのものである。間違いなく、自分も、きっと、いずれは、こうなるのであろうなと思い描きながら、身体を撫でながら眠い目を擦りながら、介護したモノである。晩年の夏には、一緒に、隣に、添い寝しながら、大丈夫、安心して、寝て良いから、、、、、、と身体を撫でて、安心させたモノである。動物の看病というモノは、犬や猫に限らず、考えてみれば、子供の時から、カナリア、ジュウシマツ、インコ、金魚、アメリカザリガニ、カブト虫とか、想い出せば切りが無い。その死を様々な形で、体験して、更には、両親の死を、経て、今、愛犬の介護から、看取りへ、そして、やがて、間違いなくやってくる、自分の被介護・死へと繋がって行くのであろう。そう考えると、実に、興味深いモノであり、又、反面、おおいに、考えさせられるモノがある。