小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

再び観る、戦争画、藤田嗣治展:

再び観る、戦争画藤田嗣治展:

画家は、戦争中に、何をなし得たのであろうか?上田の戦没画学生を鎮魂するために、作品群を展示している「無言館」とは異なり、この戦争画の展示は、一見、対照的でもあろうか?何故ならば、戦没画学生は、志し半ばにして、未来を奪われた画家の卵が、その未来を奪われてしまった作品群であるのに対して、こちらのそれは、既に、パリで、乳白色の肌色の魔術師として、世界的にも、名声を博して、画壇の重鎮として、その名誉も地位も確立していたにも拘わらず、辺見庸の「1937」ではないが、何故、それ以降、終戦後に、大日本画壇の戦争責任を一身に受け容れ、一言もエクスキュースをすることなく、故国を去り、GHQのビザの支援を受けて、NY経由で、最終、パリへ戻り、レオナールFOUJITA として、1968年チューリッヒで亡くなるまでの所謂、出発点にも当たる年な訳である。過去に観たコレクションとは異なり、今回の14点のMOMATコレクションの大作には、所謂、前半期と後半期とでも呼ばれ得る違いが、厳然として、存在していることが、観賞をしていて、理解される。それは、まるで、以後のレオナールFOUJITAと称するに足る理由がそこには、暗号符のように密かに仕込まれたメッセージが、隠されている。美術評論家ではないから、彼の絵の描き方が、全面に、微細に拡大するが如きの迫力溢れる描写と、後方に描かれた遠い遠近法を活用した風景の対比は、ここでは、問題ではない。どうやら、1942-43年頃を境にして、明らかに、それ以前の明るい色調の戦勝と戦意高揚を目的(?)とした感じから、戦況の悪化とともに、変化している。もっとも、その画風は、必ずしも、表向きの戦意の高揚を狙って描かれたかどうかは、おおいに疑問である。それでも、このコレクションには、入っていない、実は、もう一枚の絵が、あったそうである。それは、ノモンハン事件を題材にした(ハルル河畔之戦闘:1941年)、ある陸軍中将から戦死した兵士達の鎮魂のために、依頼されたもので、展示されているものは、大きな碧い空を背景にして、戦車の前を匍匐前進する兵士を明るい色調で、描いているものの、これとは、別に、死屍累々とした凄惨な場面のもう一枚が、あったそうで、残念乍ら、それは、何処かへ、消失されてしまったらしいと説明にはある。恐らく、戦争画の後半に観られるであろう暗い殉教・宗教画とおぼしき同じタッチで、描かれたのであろう事は、容易に、想像がつくものの、当時の開戦直後の戦意高揚という目的には、誠に、国辱的な戦意喪失の絵であることは、間違いないであろう。その意味では、画家は、必ずしも、戦意高揚のために、画壇を代表して、進んで、協力したものであるとは、必ずしも、云われる筋合いはないであろうし、後に、発表される「アッツ島玉砕」(1943年)、或いは、同年の「ソロモン海域に於ける米兵の末路」、更には、「血戦ガダルカナル」(1944年)、そして、最期になる「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)にいたる訳である。私には、この絵の題材を誰がつけたのか、疑問に残る。本当に、画家が、自分自身の絵に、こんな題材を命名したのであろうか?明らかに、そこには、絵の依頼者足る軍部と、軍医であった父の死を境にして、断り切れなかった画家の心の底の葛藤をみるようである。本当に描きたい絵を描いているのでなくて、しかしながら、描いている内に、死者が乗り移り、或いは、兵士への直接的な取材を通じて感じ取った画家としての、更には、既に、芽生え始めていた後年のカソリック教徒としてのレオナールFOUJITAへの想いが、何らかの形で、この戦争画の中に、神髄を見せつけているのではなかろうか、もっとも、それは、直截な表現ではなくて、微妙に、検閲をかいくぐるかのような装いを纏った、眼をしっかりと開けて、観ないと分からないような小さな暗号のような符号で、キャンバスに、塗り込められているのかも知れない。ひょっとしたら、検挙をも辞さない覚悟があったのかも知れないが、分からない。「アッツ島玉砕」の中下部分に、小さく描かれた「紫色の花」達、もっとも、実物では、残念乍ら、余程、眼を懲らして、腰を屈めて、近づいて、凝視しないと、既に、紫色は、色褪せて、確認ができないのは、おおいに、残念である。本の印刷物でしか、やっと確認出来る程度のものである。この作品が展示された当時は、遺族とおぼしき老婆が、手を合わせている所をみて、画家は、後年、「画家として、快哉と叫びたくなった」とまで、云っているのであるから、恐らく、未だ、はっきりと、紫色の小さな花々達は、みられたのであろうし、「密かな暗号符」は、観る側の受手には、しっかりと、画家という発信者の側から、伝わったのではないだろうか?上述した「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)にしても、米兵とおぼしき兵士達の乗るボートの左上奥には、鮫と鮫の背びれが、描かれていて、末路を暗示している、既に、暗い画風であるものの、観る側にとっては、それは、米兵だけでなくて、戦闘に参加した日本兵でも同じ局面が、ありえるし、戦闘に参加したすべての兵士に、共通することは、容易に、想像されよう。そうして観ると、何とも、「末路」なる言葉は、皮肉にも、この2年後に、自分達に、跳ね返ってくることを、この時点では、わからないものの、何故か、暗示めいたものを、画家は、その鋭い感性を通じて、感じていたのかも知れない。だからこそ、受け手側でも、画家のホンネとタテマエとが、理解出来たのかも知れない。最期の戦争画となった、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)」の公開された4月は、既に、その年3月10日には、東京大空襲が行われ、沖縄では、既に米軍が上陸して、一億総玉砕に向けての闘いが進行中、敗色濃厚の時期である。様々な美術評論家達が、アリ・シェフェールの「スリオート族の女たち」や、ドラクロアの「民衆を導く女神」や、グロの「レフカス島のサッフォーのサッフォー」の崖から身を投げる画になぞらえたり、色々と、解釈・論評しているが、やはり、観る側には、その描き手の想いを想像しながら、観賞することが、何よりだろう。どれも、大きな大作で、じっくりと、その絵の前に、腰を下ろして、眺めることがお薦めであるが、展示された当時のことを思うと、一体、どんな気持ちで、眺めたのであろうか?一億総玉砕を覚悟したのであろうか、それとも、殉教画、或いは、宗教画としての死へと誘うような「救済」を、そこに感じ取ったのであろうか?平和な時代に、見直してみても、同世代のピカソの「ゲルニカ」が、フランコへの反戦の象徴として、世界的に評価されているのに対して、実に、対照的な皮肉な評価である。従軍画家という役割は、戦勝国の米英でも、或いは、敗戦国の日独でも、同じように、戦場を描き出しているものの、そのプロパガンダやイデオロギーの違いで、全く、立場と評価が、異なるのも致し方ないのかも知れない。それでも、私は、今日、これらの一連の大作を前にして、息をするのも忘れてしまうような衝撃を、この画家から、受取り、感じ取ってしまうのは、一体、何故なのであろうか?中国から南方戦線へと転戦し続けた戦争時代を青春時代として、過ごした亡き父は、多くを語らず、又、その兄(私の伯父)は、ギルバート諸島のタラワ島で、玉砕しているが、もしも、これらの絵を観たならば、どんな感想を述べたであろうか?ふと、そんな想いを巡らしてしまった。絵画というものは、実に、面白いモノであり、例えば、若冲や宗達にしても、その時代に、描かれた技法のみならず、描き手といつまでも、永遠に、観る側は、時代や場所や時を超えて、間近に、インターアクティブに、対面でき、自問自答することが出来るし、それは、音楽であれ、絵画であれ、何であれ、芸術の素晴らしいところであるようにも、思われる。残念なことに、「戦争画制作の要点」という本に掲載された藤田嗣治の文章は、文字が細かすぎて、読み取れませんでした。大きく拡大して、パネルにしてもらえれば読めたものを残念です。1935年に藤田が監督をして撮影した対外的な「現代日本 子供篇」という映画も、貧しくて国辱的だと批判されてオクラ入りしてしまったそうであるが、こちらのフィルムも、なかなか、面白いですね。とりわけ、子供の頃から、チャンバラごっこの末に、互いに、差し違えて、或いは、割腹自決するところなどは、子供の頃から、遊びの中で、既に、負けて虜囚の辱めは受けないという刷り込みが、身についていたのでしょうか?12月13日まで、竹橋の東京国立近代美術館で、開催予定ですから、地方からも見に来るに充分、値しますね。尚、シニアは、無料であるとは、誠に、申し訳ないことです。