小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

死に寛容な国、日本:

死に寛容な国、日本:

北の湖理事長の現役の頃の強さを知っている相撲ファンであれば、その突然の死後に、マスメディアが、論評した一連の現役力士時代の輝かしい記録と、理事長時代での諸行に対するこれまでの鋭い批判の落差は、一体、何なのであろうか?それにしても、野球の世界でもそうかも知れないが、相撲の世界でも、現役時代と引退後の業績とは、なかなか、正比例しないものであろうか。とりわけ、現役引退後にも、現役時代と変わらぬ功績を残すと云う事は、至難の業のようである。とりわけ、弟子を死に至らしめるほどの苛烈な暴力事件や、賭博行為に至っては、なかなか、急激な改革が、一挙に、進まなかったのも、まるで、硬い岩盤規制と既存の秩序・特権で、改革が進まない経済や政治分野と同じなのであろうか?それにしても、生前では、散々、悪者呼ばわりされたにも拘わらず、突然、死んでしまえば、偉大な横綱であったとか、負けた力士へ、手を差し伸べなかったのも、勝負に敗れた者への配慮で、それは、逆説的な意味で、敗者への勝者からの心配りである、という美しいエピソードを持ち出されると、今更、何で、生前に、そうした事実を公表しなかったのかとも、考えてしまうものである。生前、保守的な頑迷な理事長というイメージを散々、作っておきながら、マスメディアとは、全く、無責任に、その功罪を、平等に、論じることが無いものである。そういうことからすると、誠に、マスメディアというものも、死者に鞭打つことなく、極めて、ある種、寛容であり、すべてを死と共に、万事、水に流してしまう、そんな訳の分からぬ、日本的な寛容性が、そこには、観られて興味深いものである。どこかの独裁国家のように、歴史から、完全に抹殺されることもなく、只、あんなに、好かれた「巨人・大鵬・卵焼き」に、変わって、嫌われ者の代名詞として、「江川・ピーマン・北の湖」というものがあったそうであるが、強すぎることで、結果として、正当に、人気が出なかったのであろうか?それでも、あんなに、批判を浴びた朝青龍を、横綱を張った人間しか分からないという心情から、かばったと云う事は、やはり、21歳から、最高の地位に就いた人間しか、分からない苦労があったことであろう。果たして、相撲界は、今後、一体、誰の手によって、北の湖理事長がやり遂げられなかった、真の改革を行い、歴史に、名を残すのであろうか?野球やサッカー、ラグビーと異なって、相撲界は、やはり、横綱でないと、駄目なのであろうか?