小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

映画、「FOUJITA」を観る:

映画、「FOUJITA」を観る:

そろそろ、山荘も、冬支度と休眠のために、準備をしなければならない時期が近づいてきた。その間、一寸、老眼で眼が衰えてきたけれども、頑張って、本でも、読むことにしようと、辺見庸著「1★9★3★7」、山本義隆著「私の1960年」、ハンナアーレント「活動的生」を、併読し始めながら、予定されていたこの映画を鑑賞することにした。元々、映画というものは、原作を初めに読んでから、映画を観るか、それとも、逆に、映画を観てから、原作を読むか、要するに、言語的な表現手法と、映像的な表現手法のどちらとも、愉しみたいという門外漢の欲張りな私にとっては、どちらでも良くて、実際、出たとこ勝負の場当たり的な対応以外の何ものでもない。今回は、映画に、興味を有したひとつの理由に、併読し始めた本にも、共通することかも知れないが、「戦争責任の課題」、とりわけ、当時の「画家に於ける戦争責任と芸術的な表現活動の関係性」を軸にして、観賞してみたいと思った次第である。藤田嗣治の絵画は、上田市立美術館で、観賞した箱根ポーラ・コレクションの作品の中に、実は、所謂、一連の問題作となる「戦争画」が、全く、含まれていなかったので、これだけを観るために、東京の国立近代美術館に、出掛けて、じっくりと、「戦争画」を眺めてきたことで、今回の、作品が、「近代文明の歪み」と「二つの大戦と二つの祖国の間を生き抜いた画家」の想いが、如何にして、日仏相互に、描き出せるのかという事に、焦点を当てて、観賞したかったものである。その意味では、既に、予備知識としては、充分すぎるくらいの準備が出来ていたつもりであったが、この作品を観ているうちに、それが、まだまだ、不十分であったことに気づかされる。冒頭の猫がゆっくりと、屋根を歩くさまも、考えようによっては、「猫」の作品を彷彿とさせるし、様々な画材や人物による絵の製作場面も、成る程、あの絵は、ひょっとして、こんな風に描かれたのかと想像されるシーンの連続である。最初と最期の日本人妻は別にしても、5度に亘るその結婚でのフランス人妻の描き方にも、それぞれの情感が、異なることが、理解されるし、幅広い交友関係の中でも、モジリアーニやゴーギャンピカソなど、場面場面で、或いは、高村光太郎のパリ滞在エピソード挿入も、戦中・戦後の戦争責任とも、微妙に、暗示されていて、面白いモノがある。別に、シッカロールを駆使して古来の日本画技法を、乳白色の肌色の魔術師として、如何に、パリ画壇で、受け容れられたのかなどと云う美術史的な問題は、ここでは、私にとっては、どうでも宜しい。むしろ、何故、ナチス・ドイツのパリ進攻を嫌って(?)日本へと戻ることになったのか、或いは、同盟国の一員である日本人として、充分、現地に居残ることも考えられたにも拘わらず、何故、戦中の日本へ戻り、しかも、戦後、画壇の「戦争責任」を一身に受け止めて、国籍を捨て、祖国を後にして、再び、フランスへ戻り、やがて、カソリックに改宗して、レオナール・フジタとして、遠い異国の地で、墓地を創り、そこに、宗教画を描くことになったのか、それは、この映画の後半で、前半での明るい色調溢れる繁栄とデカダンスに溢れる当時のフランスの画面とは、対照的に、徐々に、墨絵風のモノトーンに蔽われた時代の風景と共に、描かれ、いよいよ、あの「戦争画」へと、導かれることになる。私は、勝手に、自分の時系列の中で、「アッツ島玉砕」の絵(1943年)と、「サイパン島同胞臣節を全うす」の絵(1945年)は、同時期だと誤解していて、しかも、聖戦戦争画展というものが、既に、1940年以前から、開催されていて、官製展覧会に較べると、圧倒的な入場者数で優っていたという事実、とりわけ、この展示会の中で、藤田は、自らは、記述しているように、年老いた老婆とおぼしき、恐らく、玉砕した遺族であろうと思われる老母が、絵に向かって、手を合わせて、祈るように、涙を流しながら、見入っていた様を観て、自分の作品が、本当に、人の心を動かす力になっていると確信したそうである。(画面上では、遺された遺児達が立ち尽くしたり、気を失って倒れる形で描かれているが)、要するに、画家は、戦意の高揚とか、聖戦完遂のプロバガンダに利用されたのでは、決してなく、飽くまでも、この作品は、鎮魂と平和希求のための画家の表現結果であったのかも知れない。それは、この絵に描かれた人達の中に、藤田として生きなければならなかったFOUJITAの「真の暗号符号」が、密かに、塗り込められていることが、自然に理解出来るし、この二つの圧倒的な大きな絵を前にすると、間違いなく、圧倒されてしまう何もかが息づいている。そんな呼吸をすること忘れさせてしまうような画家の息遣いが、感じられてならない。間違いなく、藤田は、二つの大戦の狭間で、数多くのむごたらしい死体を眺めたであろうし、否応なしに、そうした情景に、画家として、目を背けるわけにはゆかなかったのであろうことは、戦後、一言も、エクスキュースすることなく、画壇の戦争責任を一身に受け止めて、故国を捨てる結果になることを思うと、画壇だけではなくて、当時の文壇の文学者・哲学者・評論家などは、一体、どんな責任をとりながら、戦後を生きたのであろうかとも思う。戦後70年を経た今日ですら、同じ問題が、現在進行中なのかも知れない。エンディング・ロールの中で、ナントの自分の墓地に自らが描きだした宗教画は、確かに、磔にされたキリストの絵だけでも、20数年に亘って、見続けてきたこの画家が、渾身の想いを込めて、描いたことが、その映像美の中からも想像されよう。もっとも、右端後方片隅に、小さく、ひっそりと、おかっぱ頭の藤田とおぼしき顔が、描かれているのは、気が付かなかった。まるで、オダギリ・ジョーは、FOUJITA同様に、小田切として、藤田を演じきったのであろうか、それとも、藤田は、戦争中の日本滞在中には、FOUJITAを、どのように、消し去って、演じていたのであろうか?そして、今日、テロに見舞われたパリを見たとしたら、どのような感慨で想い、当時の外国出身の友人画家達と付き合っていたのであろうか?寡作の小栗康平監督による10年ぶりの作品であるらしいが、美術も、映像美も、なかなか、美しいではないか、小さな映画館であるものの、初回午前中の上映にしては、ほぼ、満席に近い状態であるとは、驚いてしまう。流石、都心の映画館である。さて、今度は、もう一度、国立近代美術館で開催中の藤田嗣治展示会を改めて、じっくりと、観ることにしよう。