小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

「質す」ということ:

「質す」ということ:

今年、二度目の弁論大会の観戦である。ただすということは、弁士の論理展開の矛盾を、問うだけでなく、その弁士による演題の現状分析手法・問題の剔抉手法・論理性・解決政策の提言に関して、別の切り口を問題提起したり、或いは、何故、弁士の選択した方向性になったのか、或いは、そうではない別の切り口が、何故、出来なかったのかという一種の眼に見えない「闘いの場」というよりも、コミュニケーションとでも云った方が、妥当かも知れないが、そういうもので有り、逆説的に謂えば、弁士もさることながら、「質す側」にも、その品格や質が問われかねないものである。聴衆という者も、実は、この辺に、敏感であり、弁士による聴衆へのアピール度合いも、さることながら、「聴く側」にも、しっかりとした、勉強能力や、予備学習と云った方が、宜しいかも知れないが、そういうものが、実は、しっかりと、問われているのかも知れない。その為には、事前の模擬演説による、演説草稿の厳しい評価と、それなりの想定問答集ではないが、様々な観点からの切り口と議論の深化が、為されて、謂わば、練りに練った、一字一句も疎かに出来ないような緻密な内容の原稿が、作り上げられていなければならないのかも知れない。又、質す側の気迫に決して、負けないような弁士の鬼気迫る力も、「言霊という力」を借りて、立ち向かわなければならないであろう。そうして、初めて、辯論というものは、初めて、成立するのかも知れない。そんな風にも、感じられた。テレビの国会論戦や街頭演説とは、やはり、異なる臭いが漂っているような気がする。