小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

景観の変化に思う:

景観の変化に思う:

何やかやと日常の些細な雑事に追われているうちに、モミジの紅葉も盛りを過ぎてしまい、気が付けば、遠く望む山並みも、その頂上付近から、麓へと続くなだらかなタベストリーの色合いも、随分と茶褐色が増してきたように思われる。標高の高いところでは、急激な寒さのせいだろうか、一挙に、落葉が始まり、流石の唐松の尖った葉先も、耐えきれずに、パラパラとばかりに、晩秋間近の冷ややかな空気の陽光の中で、空から、舞い落ちてくる。既に、道端には、茶色い堆積物のような形で、何層にも成って、良い肥料になることを待っているようでもある。モミジの真っ赤な、或いは、オレンジや黄色の紅葉した葉っぱ達は、それでも、何とか、枝にしがみついているように、残っていて、まだ、そのグラデーションが、辛うじて愉しめそうである。それにしても、今年の春先には、4本もの赤松が、松食い虫にやられ果てた末に、やむなく、切り倒したが、色が変わった紅葉の中で、改めて、玄関近くの樹齢40年を優に越える赤松の大木の枝先が、どうも、枯れ始めていることに、始めて気が付く。どうやら、一連の松食い虫の被害に、この大木も、逃れる術をもっていなかったのであろうか?それにしても、庭の景観とか、風景の景観を長い間、維持することは、全く、大変な事であることに、思いが至る。明らかに、一本の樹が失われることで、恐らく、陽の当たり方とか、風の向きとか、雨の降り方とかも、大きく変わり、生態系が変化することは、疑いのないことであろう。庭の景観などと云うものは、その点、何年にも亘って、同じ景観を維持することは、相当な人工的な努力がなければ覚束ないのであろう。それに比べたら、自然の景観というものは、人工の手が加えられにくく、維持が、困難である。ましてや、最近の外来植物とか、危険危惧種とかを考えると、ますます、考え込んでしまう。来春にでも、この赤松の大木が切り倒されたら、どのように、景観は、変化してしまうのであろうか?現在、下草と共に、生えているちいさなヒマラヤ杉が、一挙に、成長することになるのであろうか?それとも、隣りで、これまで、抑制されていた桜の樹が、枝先を大きく、拡げることになるのであろうか?これまでの景観の維持と、新たな景観の展開という微妙な狭間に、置かれることになろう。何やら、失われるものと、新たな展開への期待と、心の中で、複雑に交錯するようである。まるで、人生の一コマを見せつけられているような感じさえしてならない。