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小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

データ改竄の怪:

データ改竄の怪:

最近、極めて、目につくのが、データや統計の改竄の事実であるが、これは、本当に、最近に始まったことなのであろうか?何でもかんでも、大本営発表を散々疑うことなく、信じていたあの頃に較べて、本当に、正しい数字が、事実に即して、公表されているのであろうか?東芝も、千葉県警交通違反問題も、杭打ちのデータ流用も、一体全体、何が、そうさせているのであろうか?どうも、学者というものは、今日、組織行動の分析も或いは、担当者個人の心理の心底に潜む何ものかをも、解析不能になっているように思えて成らない。それは、今でも、VWの問題でも、中国の経済成長率の問題も、全く、同様で、或いは、日銀の物価上昇率の目標数値も、実際には、本当の数字なのだろうかと、日常性から来る実感からとは、多少違った違和感があることから、考えさせられてしまう。倫理観とか、第三者委員会とか、検証委員会とか、言葉は、どうでも宜しいが、個々人が、個々人のレベルで、自らを律するという基準が、今日、コンプライアンスを、お題目のように、百万遍も唱えたところで、何故、有効に、機能しなくなってしまったのであろうか?これでは、「失敗の本質」当時と、全く、変わっていないではないだろうか?クレーム処理の時には、必ず、その原因の究明と構造を詳しく、追跡調査、解析して、所謂、二度と同じ過ちを課さないための「対策」の提示とカイゼン実行が、課せられるのが常であるが、どうしたものであろうか?とりわけ、権力を握る警察などに至っては、裏金問題のそうであるが、錦の御旗の為には、多少の改竄も内部的には、その大目的のためには、小事の過ちとして、看過されるのであろうか?こうなると、統計数字自体が、現実を表さないことになり、そもそも、「事実」・「実態」とは、一体、何なのであろうかと、思わざるを得ない。勝てば官軍ではないが、事実という側面には、実は、そんな何ものかに都合の良いものが、常に、改竄を許すようなものがあるのであろうか?それとも、純水のように、飽くまでも、他者に利用されることのない孤高の独立性と犯しがたい状態で存在しているのであろうか?統計とか、事実ということを考えるときに、改めて、考えさせられてしまう一種の幻想の中で、我々は、実は、生きているのかも知れない。それに気づかされたときに、始めて、我々は、現実とか、事実とかに、改めて、直面するのかも知れない。そんな風に、感じてしまう昨今の連続する出来事である。