小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

比叡山、延暦寺の千日回峰荒行に思う:

比叡山延暦寺の千日回峰荒行に思う:

四国巡礼を17番まで、自転車で、走破したときでも、同宿した歩き遍路の人の言では、一日に3万歩、毎日、約20キロ程度で、脚が悲鳴を上げたと、それでも、全行程を40-50日、毎日歩いてゆくのに、較べると、千日回峰などというものは、想像を絶するものである。自転車でも、1日に、約40-50キロだから、それも、しかも、急峻な山道や谷底から、登ったり、おりたりを繰り返すのでは、並大抵な肉体と強い精神力を有していなければ、そんなに、長い期間を毎日毎日、やれることは難しいことであろう。更に、7年に及ぶ地球1周にも及ぶ距離を、6年目には、毎日60キロも歩行、というよりは、猿のように、走り回る様子は、想像を絶してしまう。戦後13人目の快挙であると云われているが、堂入満行、9日間の不眠・不臥、そして、その間の水汲みとは、ほとんど、拷問同様ではないだろうか?成る程、死に装束に、いつ、首を吊っても良いようにと準備された荒縄の意味も理解出来よう。それにしても、不動明真言を10万回唱えるのも、巡礼時での般若心経を、唱えるのとは、訳が違うであろう。しかも、食を絶ち、不眠・不臥というのは、肉体的にも辛いであろうが、それ以上に、恐らく、精神的に、真っ暗なお堂の中で、僅かに、漏れてくる陽の光と鳥の囀りくらいでしか、時間の感覚が分からなくなる中での読経というものは、一体、人間の精神は、どうなるのであろうか?生・死を超えると良く、言葉の上では、謂われているが、人間は、そんな極限の中で、どのようにバランスが、保たれるのであろうか?お堂のかんぬきを開け放たれて、階段を降りて出てくる足取りも、しっかりとしていて、尋常なものではない。こちらは、普段でも、しっかりとした歩行もままならなくなりつつあるのに、これはどうしたものであろうか?遺されたまだ未完の四国巡礼も、精密検査と手術が済んでから、再度、体調を整えてから、来春にでも、車でもと考えていたが、気持ちの上では、千日回峰荒行にも、負けないような心づもりで、改めて、挑戦しようかとも思う。それにしても、まだ、これからも、数年間、修行が継続されるとは、恐れ入ってしまう。