小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

映画、「ポプラの秋」を観る:

映画、「ポプラの秋」を観る:

一日で、映画を2本観るというのは、学生時代の銀座、並木座で、昭和残侠伝シリーズや新宿の「影の軍隊」、「鷲は舞い降りた」の2本立て映画以来、久しぶり、ほぼ半世紀ぶりであろう。これも、中堀正夫カメラ監督によるものである。そもそも、映画というものは、原作を読んでから、映画を観ると、その違いが判ってしまい、ガッカリしたり、逆に、又、その想像力溢れる映像描写に、感動したりと、なかなか、複雑な思いがするもので、どちらが良いかは、ケース・バイ・ケースで、微妙なものである。もっとも、最近では、新聞ですら、老眼鏡が必要となるくらいで、文庫本などは、ましてや、眼が疲れてしまい、おまけに、歳とともに、集中力が落ちてきて、全く、昔の読書量がすっかり、落ちてしまったものである。誠に、情けない次第である。今回は、映画を見終わってから、湯本香樹実の原作を、後から、読み直してみることにでもしようかな?映画の各シーンは、何かのテレビで俳優が言っていたように、必ずしも、原作の展開通りに、初めから、忠実に撮影されるモノではなくて、季節を跨いだり、或いは、何年にも亘って、展開する時には、時として、後からのシーンが、初めに撮影されたりするらしい。どうやら、この映画でも、主題となるものは、最期の最期になって、大人になった少女の母親が、以前に亡き夫に書いた手紙を、元の住人から、おばあさんの葬式の後で、手渡されて読むシーンで、初めて、観る側は、知らされることになり、すべての方程式が、あらゆるこれまでの数々の場面の背景に潜む、それまで、胸につかえていたような違和感や疑問点が、まるで、スッーと、一挙に「氷解」する様な感じがしてならない。それは、「自死」という形で逝ってしまった本人だけの問題ではなく、むしろ、遺された家族、とりわけ、この映画では、幼い小学生の女の子や母親へ、どのような影響を及ぼすことになるのかを暗示しているのかも知れない。死んでしまった人へ、手紙を届けるという不可思議なポプラ荘というアパートの大屋のおばあさんや住人との心の暖かい何気ない日々の交流や、外部世界へと徐々に開かれてゆく幼い少女の心の移ろいが、様々な風景描写や、さりげない情景描写の中に、非常に、慎重に、しかも、繊細に、丁寧に、象徴的に、映像的に、描かれている事が、映画を見終わってから、理解される。少女の顔にさりげなく舞い落ちる一枚の枯れ葉は、回想を象徴するだけでなくて、ひょっとしたら、交通事故死したと信じさせられていた父が、まるで、一枚の枯れ葉と共に、舞い降りてきて、その少女が、やがて、大人になり、流産のために、恋人とも別れてしまい、生きることに価値を失ってしまい、睡眠薬自殺まで、考えた主人公が、最期には、「生きる」ことを、大屋のお祖母さんという心を開いた人の死をきっかけに、決断することを、暗に、示唆しているかの如くである。高い大きなポプラの樹の葉の「落ち葉」というものは、焼き芋のシーンにも、象徴されるように、誠に、何気ないものであるが、この映画には、象徴的に、重要な場面のようにも、思われてならない。口うるさく、落ち葉を掃き集めるようにいつも云っていたおばあさん、そして、一緒に、その落ち葉で焚いた焼き芋を食べることは、きっと、人間の死を想い出し、落ち葉を掃く度に、落ち葉焚きで焼き芋を食べる度に、亡き人を思い出す象徴なのかも知れない。そういえば亡き母親も、一日に何回も、晩秋から初冬に掛けては、よく自宅前の落ち葉を掃いていたものであることを思わず、想い出す。それにしても、冒頭でのボゥッとしていた母親や、就寝後にも、何度も起きて忘れ物はないかとランドセルを点検したりする少女の日常の動作にも、実は、母親の精神バランスを崩していたこと、或いは、多感な幼い少女の父を突然失った事から来る心の喪失感、そして、必死に働く母への気遣い、安心感への危惧とかによる精神的な強迫観念の表れが表現されていることを、最期に、成る程と、理解される展開になる。もう一つ、象徴的なシーンとして、アパートの住人の運転手の子供が、ひょっとしたら、住むことになるかも知れないと期待していたにも拘わらず、結局、実現せずに、その時に、渡した小さな飛騨一之宮のお守りを、後年、山登りのリュックに、今でも、しっかりと、付けていることを、その父親から見せられた今の大人になって撮られた写真の中に、見いだすことで、再び、その眼には見えない幼い頃の子供心の絆のようなものを、確信して、睡眠薬の袋を屑籠に捨てて、「生きて行く」ことを決断する。それにしても、映像製作とは、四季それぞれのシーンを待たなければならないし、又、早朝や深夜や、自然のその姿が、ベストに、表現される時間に、こちら側を合わせなければならず、誠に、大変な事である。落ち葉焚きで焼き芋をするときは、アルミ・フォイルに包む前に、濡れ新聞紙で、包むとよい、と改めて、中村珠緒に教えられました。それにしても、本田望結という子役は、眼の運びといい、表現力も、大人の俳優顔負けの演技力で、主人公の多感な少女を演じるには、ピッタリの役どころであったのかも知れない。これから、どのように、成長して、大人になる前の少女役を、どんな演技で見せてくれるのかが愉しみである。良い作品を案内して貰って、実に、感謝、有難い話である。原作と読み直して、再び、映画の構成を辿ることにしよう。