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小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

日吉杯弁論大会から透けて見える日本の課題:

日吉杯弁論大会から透けて見える日本の課題:

伝統ある三田演説館で、慶應・東大・拓殖・中央・法政・明治・早稲田の各大学の1-2年生の弁士が、合計11名登壇して、満員の演説館での弁論大会である。私にとっては、ほぼ、半世紀ぶりでの観戦である。各校5名による団体審査と、特別審査員による審査で、残念乍ら、僅差で、東京大学に連覇されてしまったが、現役の各弁士による熱意溢れる弁論の課題と、聴衆からの野次と叱責、弁論終了後での質疑応答の様子を見聞きしていると、そこには、皮肉にも日本の抱えている課題が、あぶり出されてきて、実に面白い。有利子返済の奨学金、年金・社会保障少子化、子育て・仕事との両立、内なる異文化、医療事故問題、交通インフラの老朽化、虐め問題、パンデミックス問題、等、成る程、各分野で今日の喫緊の課題が、あぶり出されてきている。もっとも、弁論の骨子には、各弁士とも、具体的な政策提言と財政的なバックボーンが示されていないと、すかさず、聴衆から、大きな野次と叱責が飛び交ってしまう。嘗ては、成長や右肩上がりの拡大を何の疑問も有することなく、未来に対して、極めて、楽観的であったのが、確かに、今日、具体的な政策の提言と、財政的な資金の確保が、示されていないと、聴衆には、決して、訴えることがないということが、改めて再認識される。それにしても、昔の過度なイデオロギー対立を強く意識しているせいか、残念乍ら、昔なら、「小市民的だ!」等という野次が飛びそうな身近な問題が、より重要で、大局的な安保法制や、難民の問題などが、弁論されなかったことは、少々、期待外れで、残念ではあった。

質疑・応答というものは、弁士の論旨にある矛盾点を的確に抉り出し、或いは、課題に関する別の角度からの切り口というものを、質すことを旨とするにも拘わらず、質疑自体が、何やら、自己主張だったり、論点がズレていたり、整理されていない場合が、見られたのは、おおいに、残念なことであった。よくよく、考えてみれば、質問をする方も、又、応答する弁士側にも、しっかりとした論拠を有していなければならないことが、改めて、判ろう。その意味では、弁士と聴衆という関係は、話者と聴衆という関係性ではなくて、じつは、眼に視えない格闘技のような闘争が、行われて居なければならないのかもし得ない。そんな風にも、感じられる何かがあろうが、残念乍ら、国会論戦などは、その意味では、全く、不毛なすれ違いの異なる土俵での一種の異種格闘技のようなものなのかもしれない。弁論というものは、考えてみれば、常に、官憲の言論統制をはね除けながら、その場所ですら、命懸けで確保し、主張を発露し、情報・意見発信する場でもあった訳であるから、今日、どんなに、SNSなどが発展進歩したとしても、そういう「場の提供」という事自体、おおいに、存在意義が、注目されなければならないであろう。こういう弁論大会のネット生中継とかも、今後は、考えてゆかなければならないかも知れない。それにしても、内向きな大会を脱皮して、外部社会へ、開かれた大学の弁論大会というものを、大学を越えて、オーガナイズするという仕事も、現役部員には、将来、おおいに役立つものと確信して止まない。まだまだ、日本の若者は、捨てたモノではないのかも知れない。もっとも、社会に出てからは、なかなか、思い切った「野次」ならぬ、矛盾点の指摘などは、会社の会議では、上司には、しづらい環境が待ち構えて居るわけで、そこをどのように、乗り越えて行けるかが、ひとつの人生の乗り越えなければならない高いハードルであろう。その為には、今からでも、しっかり自分という「個の独立軸」を確立することを願ってやまないものである。