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小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

小椋佳を聴く:

小椋佳を聴く:

まだ、井上陽水が、記憶が定かではないが、確か、アンドレカンドレとかいうふざけた名前(?)で、唄っていた頃に、何とも、不細工な顔つきの場違いなおっさんとおぼしきシンガー・ソングライターとか称する銀行マンの肩書きを有するという歌手が、確か、さらば青春、とか、潮騒の詩を、唄っていたのが、初めてその歌手を知るきっかけであった。歌手というものは、その後に、大成してゆく過程をみると、やはり、初期段階の頃の方が、何とも、松任谷由実ではなくて、やはり、荒井由実のほうが、個人的には、面白かったという具合に、小椋佳にも、そんなことが、云えなくもないかも知れない。まるで、それは、今時のアイドルを初期段階から、探し当てて、育て、見守るような一種のそんな感覚に近いような気もしないではないが、、、、、。小椋佳は、歌手と云うよりも、シンガー・ソングライターだから、作曲も悪くはないが、作詞家としての詩のほうが、編曲や、他の作曲家が作曲した彼の詞のほうが、より、生かされているようにも思える。更に云えば、自分以外の歌手に、唄って貰ったほうが、より、彼の曲の世界観というものが、拡がるようにも感じられる。それは、布施明でも、堀内孝雄でも、井上陽水でも、況んや、美空ひばりをやであるのかも知れない。彼の詩は、何か、子供の頃のぼやけた原風景、とりわけ、少女や少年、幼子や、友達の朧気ながら、ハッキリとは、視えてこないような何ものかが、そこには、存在するような気がしてならない。日常のありふれた生活の一コマを切り取り、その心情に潜む底の底を、形而上化してしまうような手法なのであろうか?、「真っ直ぐに張った糸が、あの日、僕は好きだった、」等、そして、言葉を徹底的に、選び、推敲し、楽譜が読めないからなのであろうか、自ら唄ったテープで、楽譜にして貰うという作業を通じて、彼は、その詩の感性を逆に研ぎ澄ましてきたのかも知れない。それにしても、多忙である厳しい労働環境である銀行に勤めながら、銀行マンとしても、又、シンガー・ソングライターとしても、成功する秘訣は、右脳・左脳、どんなバランスが必要だったのであろうか?そもそも、ビジネスマンとして、父として、夫として、更には、作曲・作詞家として、歌手として、ひとりで、何役もこなすという、エネルギーの源泉とは、一体、何処から、どのように、培われるのであろうか?しかも、それを何十年にも亘って継続・維持・持続し続ける秘訣とは、何なのであろうか?ミュージシャンや芸術家のエネルギーとは、何とも、凄まじいものがあるような気がしてならない。そういう観点から、初期作品と、中・後期作品とを聞き比べてみると、面白いかも知れない。それにしても、星勝小野崎孝輔とのチーム・プレーは、90曲にも及ぶ歌の数々は、素晴らしいものがある。自分の曲を、船村徹ではないが、やはり、作った本人が一番良く理解しているのであるという自負心から、自ら、歌えると云うことは、これ程、素晴らしいモノはないのではないだろうか?今風の何を言っているのか、唄っているのか、判らない意味不明な歌に較べて、小椋佳の歌は、歌詞が耳から、入って来やすいものの、その意味を理解するのには、何度も聞くという作業を繰り返し行わなければならないのは、実に聴く側にとっては、詩を作った側とこちら側の聴き手との間で、まるで、格闘技のようで、実に、興味深いではないか!詩情溢れる、青春の光と影のような世界を、季節の移ろいの中で聴くと云うことは、年寄りにとっては、愉しいことである。