小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

人の下に人は生まれ落ちるのか?:

人の下に人は生まれ落ちるのか?:

別に、芸能レポート・ニュースが気になるわけではないが、この類の面白、可笑しい話題には、全く、事欠かないものがある。週刊誌の中吊り広告や芸能関係のウェッブ・ニュースを何気なしに、観ていると、何とも、考えさせられる記事もあるものである。そのひとつに、里田まいのセレブ1000万円出産という記事があった。別に、金持ちが、いくら出産に、金を掛けようが、結婚式に、カネを掛けまいが、ヤンキースの契約内容であろうと、宜しいようではあるが、何とも、先日、ケニアのキベラ・スラムの難民の貧困を眼にしたものには、おおいに、考えさせられる。「天は、人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福澤諭吉の言葉は、今日、一体全体、どうなってしまっているのであろうか、とも思われてしまう。そもそも、生まれる瞬間から、人は、贅を尽くした立派な施設のもとで、人の上に、人を作り、おおいに祝福されて、そもそも、生まれ落ちてくるのであろうか?それとも、逆に、望まれない妊娠と恵まれない境遇の元で、人は、人の下に、生まれ落ちてくるのであろうか?何とも、ケニアの難民の子供達の境遇を知らされると、現実というものは、世界の現実は、そういうものであることが、改めて、再認識されてしまう。又、亡くなったマイケル・ジャクソンの子供達は、父の遺してくれた莫大な財産と、死せる後も、父が、著作権料などで、稼いでくれるお陰(?)で、常人の想像すらできないような莫大な有り余る贅沢なお金の使いっぷりであるそうである。こんな強運に恵まれるのは、一体、生まれてくる赤ん坊のどのくらいの確率になるのであろうか?その本人達は、本人達で、金持ちの悩みも有するのではあろうが、それでも、人間の金銭感覚なるものは、小さな頃からの育った環境や後天的な家庭内の教育というものに、裏打ちされているのであろうか?お金の有り難み等というものは、どんなときに、彼らは、感じるのであろうか?セレブとか、お嬢様とか、お坊ちゃまとか、二世、三世、とか言う言葉が、氾濫しているが、もはや、創業者の質実剛健などというコンセプトは、何処かに、失せてしまったようで、人の上に、人ができ、人の下に、人が生まれるような、人が人を踏み台にしつつ、そんな類の人間が生まれて来つつあるような、そんな時代になりつつあるのであろうか?今や、子孫に、「美田を遺さず」などという考えは、そもそも、今日の時代には、合わないのかも知れない。ケイマンにホールディング・カンパニーを移して、自分は、海外の税金の安い相続税の一番安い海外に住んで、合法的な節税を行い、子孫に、試算の継承を図るという構図が、定着しつつある。福澤が、今日、こんな風潮を見たら、何と言うであろうか?