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小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

東京江戸博物館、「花燃ゆ」展を観る:

東京江戸博物館、「花燃ゆ」展を観る:

様々な人々の生きた時代のグラフが、重なり合っていたり、途中で、途切れていたり、何とも、自分の人生も、よくよく、考えてみれば、所詮は、100年も生きられるわけではない。そう考えると、自分が生まれてから、死ぬまでのグラフの長さは、何処まで行っても、せいぜいが、この先、15年程度であろうか?人生、如何に、生きるべきかということも、この歴史上の人々の写真や手紙や資料をみていると、おおいに考えさせられる。それにしても、昔の人といっても、幕末の人達は、杉 文ではないが、私の父が大正7年生まれであるから、文が亡くなる年が、大正10年であることからして、同時代という同じ時間を共有していたのかと思うと、なかなか、彼らの人生模様というものも、身近に感じられるものである。それにしても、当時の人々は、手紙をよくしたためたものである。恐らく、残っているものだけでも、これだけあるのであるから、今日の如く、データ・ベースやハード・ディスクでもあれば、どれ程の手紙の原稿や著作が、原本として、残されていることであろうか?そう考えると、昔の人は、随分と、筆まめだったということが了解されよう。久坂玄瑞の文に宛てた手紙を再婚の際に、「涙袖帖」という形に纏められているが、合計すると、凄い量の巻紙であることに、改めて、驚かされる。しかも、その内容たるは、どうみても、蛤御門の変で、自刃するという選択肢は、この手紙の中には伺えないほど、日常的な内容である。今や、現代は、メールやショート・メールでのやり取りが当たり前であるが、手書きの手紙というものも、巻紙で、筆で書くのもよいかもしれない。当時の人々の紙に対する思いとか、コミュニケーションに対する考え方の一端が、忍ばれよう。

それにしても、昔の人は、よく歩いたものである。自分の脚で、一体、地図など、販売されていたのであろうか?詳細な地図などは、今日考えてみても、実際に、測量して、歩いて作成しなければ正確性を損なうわけだし、そもそも、正しい地図などは、作成出来ないはずである。ましてや、それが、当たり前に、旅をするときにも、街道を辿るだけで、出来たのであろうか?否、手紙なども、どのようにして、配達されたのであろうか?誰かに、常に、託して運んで来られたのであろうか?藩内の通信や公的な文書のやり取りであれば、まだ、了解できようが、私的な私信のやり取りなどは、飛脚などを使用したものなのであろうか?昔、外国に出張したときに、その会社の事務所に、創業当時の創設者の旧い手紙が、額に入れられて、飾ってあったことを想い出したが、父や母の手紙などは、我が家には、残っているであろうか?筆まめだった父や母からのそう言えば、海外赴任先で、随分と手紙をまだ幼かった頃の子供達宛てに貰ったモノである。そんな手紙も、今や、宝物なのかも知れない。それにしても、よく、昔の人達は、歩いたし、手紙を書いたことに、改めて、感心せざるを得ない。

よく見ると、手紙の毛筆の字体というものも、高杉晋作も、吉田松陰も、久坂玄瑞も、それぞれ、性格が表れているのであろうか?今日では、もはや、私のような悪筆は、パソコンで、打つことで、ごまかしがきくが、当時は、そうはゆかなかったのであろうことは、容易く、理解されよう。フィルム写真が普及する以前の原板写真には、何故か、画像が呆けたところが何とも言えない被写体の人物に、その映るんだという意思が感じられて、面白い。ジッと動かないでいることからくる緊張感なのか、それとも、魂を抜き取られまいとする強い意思が互いに、格闘しているのであろうか、画像がハッキリしていなくても、何か、その被写体の意思を感じざるを得ないところが面白い。奇兵隊士のそれぞれの出で立ちも面白いが、その面構えに、野心が萌え出ているようでいて、生き生きとしている心模様が発露されているようである。又、写真が、発明される前の絵も、或いは、恐らく、後に、写真から描かれたであろうと思われる人物画像も、なかなか、味わいがあって興味深い。まるで、その人物の息遣いと立ち居振る舞いが窺われるようである。とりわけ、様々なルートで伝えられるところの吉田松陰像の絵は、微妙に、その仕草が異なっていて、興味深い。それにしても、紙が貴重な時代だったのであろう。メモ書きもさることながら、余白にも、これでもか、これでもかと、まるで、殴り書きでもしたかのように、小さな文字で、補足やリマークを書き込まれた文字をみていると、その人物の、本というもの、情報というものに対する当時の必至な思いが、熱意が、今にも、こちらにひしひしと伝わってくる。墨蹟も手紙も、絵も、地図も、写真も、すべて、直接的に、時間と空間を越えて、当時、生きてきた人達の必至さとか、重いが、直接的に、現代の我々、観る側に、迫ってくることが、おおいに、感じられて実に楽しいモノがある。テレビの大河ドラマの史実と異なる展開とは違って、真実の資料は、そのまま、我々に、直接、自分の生き方までをも問いかけてくるように思えてならない。