小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その4:歩くという行為:

=四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その4:歩くという行為:

動力を使用して、移動するという事が可能になる以前には、所詮、自分の脚以外に、頼るべきモノがなかったから、結局、馬やロバや駱駝にも乗らない限り、自力で、歩いたのであろう事くらい、誰しもが、頭の中で、理解は出来ている。しかしながら、そんな単純明快な理屈は、歩いたり、自転車を自力で、自らの脚力を信じて漕いでも、所詮、それは、自分の力だけで、誰の助けも期待できないのが、真実であることを了解する。一度、始めてみれば、もう、後戻りは、出来ないことにもなるわけなのである。

2番極楽寺の宿坊では、早朝五時半からの勤行である。急な内階段を右に左に何度も上り詰めるとやっと本堂に出る。若いお坊さんの後について、(正座が、出来ないので、事情を説明して、)和椅子に座らせて貰って、開経偈、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、般若心経を、少し遅れながら、唱えることになる。毎朝、この時間帯に合わせて、お参りに来る人もいるようで、外で、一人のお年寄りが、拝んでいた。都会の飲んだくれが、朝の始発を目指して、繁華街から、フラフラと歩き出てくる情景とは、全く大違いな風景である.同じ時間帯を共有していても、随分と場所が異なると、大変な違いがあることを改めて、思い知らされるモノである。同じ地上世界には、戦争もあれば、平和もあるし、酔っ払いも、読経を毎朝する人もいる訳である。そういうことを改めて実感する。

事前に作成した日程表では、当日は、11番の藤井寺の近くの旅館、吉野に午後3時までには、入らなければならない。おおよそ、40キロ弱の行程である。それにしても、朝から、梅雨の雨で、完全防水対策の予定だったのであるが、結局、それは、絵空事であった事をこれ又、後になってから、思い知らされようとは、まだ、この時点では、分かっていない。3番金泉寺までは、近いので、そこで、詳細な地図が入手出来ると云われている。(何のことはない、この地図も、びっしょり濡れて地図の紙は、ボロボロになってしまった。)結局、4番の大日寺を後回しにして、まずは、5番の地蔵寺、そして、6番安楽寺、そこから、7番十楽寺へ、ここで、現在、眼の病気を患っている学生時代の友人二人に、眼のお守りを購入してお土産も兼ねて、帰京後、贈ることにした。8番熊谷寺につく頃には、坂が、多くて、結局、雨中、自転車を押しながら、歩き遍路になってしまい、もう、へろへろになってしまった。おまけに、雨は止む気配がない。残りの距離計算では、約17キロ程度であるが、これでは、所定の時間に間に合わず、10番の切幡寺の333段の急な石段は、到底、金剛杖を以てしても、上り下りは、難しいと判断して、急遽、順番を逆にして、10番・9番とタクシーで、打ってから、ストレートな道なりに、192号をひたすら目指して、南下して、吉野川を渡って、本日の最終目的地たる11番藤井寺を、目指すことに変更した。後で、宿で一緒になった歩き遍路の人達によれば、結構、切幡寺の急峻な石段で、脚を痛めて、12番の焼山寺に向かう「遍路転がし」の前に、断念する人が多いらしい。何せ、こちらは、そんな無理は、ご勘弁願いたいので、適宜、自転車で、行けないところは、無理せずに、文明の利器を活用させて貰うというポリシーで行くことに初めから、決していた。もっとも、ここまででも、結構、毎日、自力走行だったから、既に、太腿の筋肉は、右も左も、パンパンである。しかも、尾てい骨が、ひどく、痛んでいることが、漕ぐ度に、認識され始めた。もう雨には、慣れたと思いきや、これも又、その後、見事に、打ち砕かれることになるとは、この時点では、未だ、実感していない。いつも、毎日、毎日、期待が裏切られることになる。吉野川の橋を渡るときに、関西から来たとおぼしき大阪弁の女性の一人歩き遍路の人が休んでいたので、声を掛けると、「想像以上に、しんどいですね!この先、もうどうなるのでしょうか?」と嘆いていた。後で、旅館で一緒になった歩き遍路の人の話では、どうやら、この女性を追い抜いて歩いてきたようである。この女性は、どうしたであろうか?この地点からでも、有に、10キロ以上は、残りの距離があったであろうか?それにしても、山寺というのは、近づくにつれて、いつも、決まって、人を試すかの如く、急な坂道が待ち構えているのである。人生とはそんなものであろうかとも達観し始めるのも、不思議なことでは決してない。もう、この頃になると、般若心経の読経も、悪びれもせずに、堂々と、唱えられるようになった。もっとも、後から来た人の方が、ずっと、堂に入っている時には、流石に、へこんでしまうが、それにしても、色々な読経のスタイルがあるものである。途中の札所で、納経帳が、汗の湿気で、墨が滲んで、濡れてしまいかねないので、わざわざ、小さなポリ袋を2枚戴きました。成る程、雨の時には、必要な準備である。雨だけではなくて、汗の湿気で、ぐっしょりになるのである。既に、手帳も地図帳は、湿気で、ボロボロになってしまった。今日も又、へろへろになりながら、旅館、吉野へ、少々予定より遅れたもの、やっと、辿り着いた。

同宿の熊本からやってきた歩き遍路の人は、一日約3万歩くらい歩いてきたそうである。1万歩が、約7-8キロ程度だから、一日21-24キロくらいも歩くことになるのか?それにしても、朝、6時過ぎ頃から、午後4時頃まで、休みながら歩くのであるから、人間とは、凄いものである。自転車でも、この日は、約40キロ弱を走行した計算になるが、、、、、、、、、。それにしても、昔の人は、何処へ出掛けるのにも、歩いたわけだから、それは、人に会いにゆくためでも、情報を入手するためにも、連絡をする為にも、すべてが、自力で、歩いて行ったわけである。それを考えると、もはや、歩くという行為は、只単に、歩行をするというモノだけではないのは、明らかである。歩きながら、何を考えたのであろうか?簑笠を被って、雨に打たれながら、或いは、菅笠を被りながら、びしょ濡れになりながら、何を考えて歩いたのであろうか?伊能忠敬も、吉田松陰も、坂本龍馬も、芭蕉も行基も、山頭火も、お太師様も、皆、自分の脚で、歩いて旅をして、情報をとり、人と人的ネットワークを結び、何かを学んだのであろうか?今日、これだけ、文明の利器が発達しても尚、人は、歩くことを欠かそうとしないし、むしろ、そこから、学ぶべき事が多いにありそうである。そう言えば、ガンジーは、独立闘争の時にも、塩の道を行進して歩きながら、植民地主義からの脱却、自立を企てたことも、想い出す。足許不如意の自分にとっては、自転車を漕ぐこと、そして、荷物を押しながら、坂を上り下りして、越えることの意義は、或いは、雨に打たれて走行することは、何ほどかの意義があるのであろうか?明らかに、この3日間で、既に、答は、見いだされている。同宿の歩き遍路の人は、明日、いよいよ、「遍路転がし」を経て、焼山寺へと向かうそうである。こちらは、宿の人の勧めもあって、自転車なら、逆に、先に、17番井戸寺から、逆打ちで、13番大日寺までを攻めた方が、宜しいと勧められて、192号線をひたすら、東へ走行することにした。目指すは、神山温泉で、一泊するというコースを選択する。