小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その2:船旅で思う:

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その2:船旅で思う:

 

前回の船旅は、いつのことだったろうか?うまく想い出せない。よくよく、考えてみれば、学生時代の夏休みに、青函連絡船に乗船して、青森から、函館へと、大部屋で、渡ったことを想い起こす。もう、45年も前のことになるであろうか?それにしても、有明埠頭のオーシャン・フェリーの乗り場というモノも、随分とうらぶれた寂れた感じの漂うところである。これが、今日のフェリーという乗り物の於かれている立場とポジショニングを象徴しているかのようである。非常時の災害時の輸送などで、もっと、見直されて然る出来であろうが、、、、、何とも勿体ない限りである。それにしても、今回、交通費を節約するために、手荷物として、2900円ばかりをセーブし、輪行バッグ(アマゾンで、ドッペルゲンガーと言うブランドのマルチ・ユース輪行バッグを購入したが、これは、なかなかの優れもので、前輪を外すことなく27インチのシティー・自転車をハンドルを捻るだけで、包婿とが可能である。後で、バスを利用するときに、改めて、納得するが、、、、、)に、梱包して、船内持ち込みを図ったところまでは、大正解であったものの、乗船時、船底の倉庫から、狭くて、やたら、急峻な階段をリュック・手荷物を持ちながら、3階分上り詰めるとは、全く、想像だにしていなかった。おまけに、デッキ階から、船室へ、荷物をもったまま、更に、もう2階、登るというので、デッキ階にして貰いたいと要望すると、20畳ほどの2等部屋に、私一人で、寝ることになった。輪行バッグは、便利のようでいて、多いに、問題であることが、この後、徳島港に接岸して、下船するときに、これ又、思い知らされようとは、この時点では、知るよしもなかった。有明埠頭では、ビルには、エレベーターとエスカレーターがあるものの、徳島港には、一切なかったのである。今度は、デッキ階から3階分の階段を下りなければならなかったのである。既に、この時点で、帰りの便では、往復割り引きを利用して、自転車を預けることに、半ば、内心決していたのは、至極、当然の成り行きであった。

それにしても、大型船である。自家用自動車は、僅か、12台ほどと大型バイク2台と自転車1台、乗船手続きも、出港1時間前開始で、すぐに、完了してしまう。韓国のセウォル号の事故もあってか、念の為に、救命胴衣とか、安全確認をしたが、考えてみれば、空海が唐の都を目指して、船出した時代には、まさに、風次第、命懸けだったのであろうかと、想像を巡らせる。それに比べると、蒸し暑い梅雨の中にも拘わらず、船内は、冷房管理、空調設備有り、食事や飲み物は、すべて、自動販売機や、セルフの電子レンジで、チンであるから、成る程、簡便である。更には、浴室からは、いつでも、航海中、風呂を愉しみながら、景色、といっても、大海原だけであるが、一応、愉しめる。僅かな干飯とごく少量の飲料水で、毎日、揺れと長期の航海に堪え忍ぶのとでは、全く、天国と地獄の差もあろうことか?現代の船旅などと云うものは、実に、ゆったりとした時間が流れる贅沢なモノである。要するに、カネさえ払えば、日常の生活の延長以外の何ものでもない。とにかく、一番下の等級である2等大部屋であるから、そんなに、贅沢は言っていられない。存外、太平洋に出てからも、それ程、大きな揺れに会わずに、夜の9時半頃には、消灯になってしまう。すると、スマホの充電なども、夜中にしようと思っていると散々な目に遭ってしまう。その前に、やっておかなければ駄目である。予備のバッテリーの充電と本体の充電、最低限これは、必要不可欠である。そのうち、風呂も済ませて、夕食も終わり、テレビを観ながら、消灯後は、すぐに、就寝である。東京湾内を過ぎる頃までには、東京湾ベイブリッジの下を通過したり、景色を愉しみながらしていたが、あっと言う間もなく、景色が遠ざかって終い、東京湾外の太平洋の大海原へと出て行ってしまう。飛行機であれば、上空から、海岸線沿いが愉しめるのであるが、夜間のフェリーは、案外と沖合を航行するものなのである。全く、陸地が見当たらない。航海術がまだ、発達していなかった時代には、結局、陸地伝いに、港、港に、立ち寄りながら、風任せに、航行していたのであろう。水や食料の補給は、一体どうしていたのであろうか?しかも、船倉は、夏場などは、蒸し風呂状態ではなかったのではなかろうか?結局、航海術とは、後の世、幕末に、ジョン万次郎ではないが、西洋から、羅針盤やら、星の方位の測定方法、或いは、操舵術や造船工学、或いは、蒸気船というモノが紹介されて初めて、可能になってくるのであろう。そう考えると、出島で、オランダ語や西洋の武器の技術などを情報収集していながら、何故、操船術というものが、普及しなかったのであろうか?所詮、長い間の鎖国政策に、限界があったのであろうか?それを考えると、快適な船旅というものも、所詮、たかだか、100-150年程度の歴史というところなのであろうか?船に乗っていて、父や叔父達は、戦時中、どんな気持で、次の戦場へと向かっていたのであろうかと思わずにはいられない。今日、豪華クルーズのような旅が、当たり前だが、そういえば、父は、70代半ば過ぎ頃であったであろうか、一人で、香港やベトナムシンガポールインドネシアと、まるで、自分の戦争体験を巡るように、最期のクルーズの旅を愉しんだが、今にして思えば、もっと、その時に、どうして、そんな旅に出たのか、どんな気持で、戦場での旅を思っていたのか、尋ねてみるべきだったと、今にして思わざるを得ない。船上の旅は、ゆったりとした時間が流れるモノで、自動車や鉄道、とりわけ、新幹線での慌ただしい旅とは、又、ひとつ、異なる時間の流れがあるようである。若い頃には、そう言えば、未だ、本土復帰が果たせなかった頃の沖縄にも、ビザをもらって、船旅をしたこと、又、結婚間もなく、仕事の関係で、横浜港から、ナホトカまで、青森から、津軽海峡経由、日本海を横切って、繊維製品の輸出の商談で、同じく、船旅をしたものである。記憶などは、曖昧なモノで、考え直して見れば、前回は、青函連絡船ではなくて、こちらのナホトカへの船旅が、もっとも、新しい船旅だった事が、改めて、想い出される。そうすると、新しい順には、ナホトカ航路、青函連絡船の北海道への旅、沖縄への船旅、そして、まだ、子供の頃の大島への船旅だろうか?それ以外は、いつも、飛行機か、車での旅だったことを想い起こす。そうすると、歩き旅とか、自転車での旅というモノは、なかなか、貴重な体験であろう。いよいよ、徳島の港が、翌日の午後Ⅰ時半頃に、見えてきた。天気は芳しくなく、梅雨の長雨の様相である。取りあえず、その日の宿である2番の極楽寺の宿坊を目指して、自転車を漕がなければ、誰も助けてはくれない。そんな当たり前のことをまだ、この時点では、結構、楽観的に、考えていた節がある。