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小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

「毛唐」という差別用語:

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「毛唐」という差別用語

市原悦子が、NHKの番組の中で、日本昔話の「やまんば」という存在が、好きであると云う下りの中で、「毛唐」という言葉が、「差別用語」であるという意味のコメントを、番組の最後に、流していたが、何とも、番組の文脈の中での流れと市原悦子のこれまでの主義主張を慮れば、本当に、それが、差別用語として、使用されたモノかどうかは、おおいに、疑問であろう。むしろ、逆に、差別用語と呼ばれることで、差別する心を改めて、想起されるようにも感じられる。まるで、何処かの国との歴史認識論争ではないが、余りに、過度に、云われてしまうと、逆に、心の隅に、そんな差別の炎が、点火されてしまいかねないのではないだろうか?逆に言われれば言われるほど、人間は意固地になり、逆に、その言葉が、差別の心を助長してしまいかねないとも思われる。例えば、「片手落ち」などという言葉も、云われなければ、これが、差別用語で、身体障害者を差別しているとは、全く、気付かずに、使用しているモノではなかろうか?私の個人的な体験では、滞米中に、一度だけ、アメリカ人から、ジャップと云う言葉を何かの会話の時に、使用された経験があるが、その時、成る程、これが、差別用語かと、ハッと気が付いたが、日系二世三世ならば、大喧嘩になるところであったのであろう。もっとも、私は、日本人だったから、成る程、これが、発する人間、発せられる人間の立場で、受け取り方が、おおきく、異なるのであることを初めて、感じたことがある。後日、友人の日系三世に、そのことを伝えたら、おおいに、憤慨して、何故、その場で、抗議・議論しなかったのかと怒られたことも想い起こす。幕末の頃の「夷狄」、「紅毛毛唐」も、今の時代からみれば、どんな意味合いで、その言葉は、使用されていたのであろうか?昔の映画を観ていると、必ず、最後に、差別用語を敢えて、当時の時代背景から、そのまま、使用しておりますことをご了承ください、と、わざわざ、テロップで、入れてある場合もみられる。なかなか、考えさせられる。