小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

河川敷の石像破壊に思う:

河川敷の石像破壊に思う:

河川敷法というモノがあるらしい。何でも、洪水の際に、流されてしまう恐れがあり危ないという。又、許可無く、私的に利用し、石像などを構築してはならないと、、、、。石像が、何を意味し、或いは、それが芸術性が高いのか、それとも、大したモノではないというのか、それは、ここでは、問題ではない。4年もの長きに亘って、徐々に、夜間に創作したようである。何とも、その長きに亘る創造力の維持たるや、天晴れであろうか?芸術家の内なる創造意欲と云おうか、自然に溢れ出てくる幾ばくかのクリエーティブな心は、何処からやってくるのであろうか?否、そんな高尚な作品ではないという声があるかも知れない。そう思えば、野外での作品展示の機会というモノは、随分と限られることになるのではないだろうか?沖縄では、屋外の路地などに、彫刻や塑像などを据え付けて、地域を挙げて、その土地の芸術を実践しようと動きがあると云う事を何かの番組で、知ったことがある。それに比べると、何とも今回の措置は、法律議論は別にしても、或いは、作品が芸術性に耐えうるか否かは、別にしても、何とも「知恵のなさ」を感じざるを得ない。フランスなら、どうするのであろうか?何か、ISによる世界遺産の作品群を破壊する映像とどこかで、重なってしまうのは、考えすぎだろうか?それにしても、芸術創作や作品の発表の場とか、おおいに、考えさせられてしまう。創ろうとする心と、作ることと、見せること、見てもらうこと、見る場所、見せる場所、とは、如何ばかりの関係性が、そこにはあるのだろうか?