小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

忘れ去られた太平洋での闘い:マキン・タラワ海戦

忘れ去られた太平洋での闘い:マキン・タラワ海戦

ペリリュー島アンガウル島という文字が、紙上やTVで、天皇による戦没者慰霊をきっかけにして、躍っている。戦争の風化、遠い太平洋上での忘れ去られた闘いの中で、犠牲になった軍人・軍属のみならず、米軍の戦死者も含めれば、その数は、数知れない。しかも、生き残った兵士達によれば、それは、逃げ場のない狭い場所に投入された、殺すか、殺されるかというまるで、蠍のデス・マッチさながらの闘いであったというではないか!攻める側の米軍ですら、圧倒的な物量と軍事力での優勢の為か、2-3日もあれば制圧できるとタカをくくっていたら、案に相違して、2-3ヶ月にも亘り、しかも、甚大な死傷者を出す羽目になってしまったのは、誠に、皮肉なことである。従って、日米双方にとっても、これらの一連の太平洋での島々を巡る闘いは、ひとつひとつが、悲劇的な「忘れられた闘い」になってしまったことは、云うまでもないことであろう。日本人は、闘いに敗れたから、一層、死者を悼む訳であるが、米軍の戦没者の遺族は、逆の立場で云えば、戦争勝利に、果たして、寄与した名誉ある戦死であると、思っているのであろうか?未だに、アメリカでは、依然として、原爆投下を戦争犠牲者を減殺した行為として、受け止められている、こうした考えが、多いのも事実である。天皇の固持する「戦争の風化」への一段の懸念が、サイパンに次いで、今回のペリリューへの慰霊の旅になったことは、間違いないであろう。もう、残された遺族も高齢で、子や孫への「記憶の継承」が、必要不可欠であろう。それは、日本だけの問題ではなく、日米双方でも、同様な問題が、生じてこよう。その意味で、ペリリュー島アンガウル島という聞き慣れない名前が報道されるのは、意味があろう。それにしても、父方の叔父が、佐世保港から送られて、守備していた赤道直下のギルバート諸島のタラワというところは、改めて、地図で見ても、途方もなく遠い島である。先般、スーパー台風に襲われたツバルの北に位置する。日本から、約6000キロ程もあろうか?玉砕と称されるのは、1943年11月のことである。日時は不明、遺骨もない。

 

ウィキペディア、タラワの闘いより:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84