小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

パラオ、ペリリュー島慰霊と戦没者追悼:

パラオペリリュー島慰霊と戦没者追悼:

私の親族には、父方、母方ともに、フィリピンとギルバート諸島で戦没した叔父達がいる。天皇による、たっての願いにより、パラオペリリュー島への慰霊が、4月8日に、敢行されることになり、赤道近くの中部太平洋の激戦地の島の名前が、突然、紙面を賑わすようになってきた。それは、良くも悪くも、日本の戦後遺骨回収も、未だ、戦後70年の年月でも不十分であり、或いは、戦艦武蔵の沈没後の姿が、発見されたとか、或いは、4月7日が、戦艦大和の枕崎沖での撃沈の日とか、原爆ドームが建築後100年記念とか、奇しくも、日本人の記憶の中で、ひっそりと、生き続けていたことを改めて、想い起こさせる。天皇による慰霊は、サイパン慰霊の時に、実際、なされなかったものを今回、時期を変えて、行われるものであるが、それはそれなりに、その気持を忖度するときに、評価されて然るべきであろう。それよりも、歴史の認識と記憶と、或いは、今日的な国防に関する構想の中で、当時の太平洋諸島防衛構想をも、彷彿とさせるような中国の国防構想や日本やアメリカの国防構想を、改めて、考え直す必要があるようである。一度は、ギルバート諸島のタラワ島へ、両親同様に、慰霊にゆきたいものである。英語では、Missing in Action (MIA) として、謂わば、作戦途中での行方不明者と呼ばれているが、日本では、玉砕とか、戦死者として、扱われている。しかも、遺骨もなく、もはや、その死亡日時も命日も推定であって、遺骨の収集などは、今更、新しい米軍の軍事基地の下に、眠っている以上、到底、不可能であろうことは、容易に、想像される。それでも尚、遺族は、慰霊と遺骨収集を願って、遠い異国の戦没地を訪れようとしている。こうした事業もさることながら、むしろ、今後は、歴史の風化を防ぎ、戦没者慰霊のみならず、現地の住民への謝罪と今後の友好関係の構築という新しい作業を何らかの形で、留学生の招聘とかを含めて、行う必要があろう。一過性の慰霊ではなくして、何らかの新たな方向性が、望まれるところであろう。一度、どんな島で、闘いがあり、無くなったのであろうかを、この目で、みてみたいものである。